第四章 はじまりの光、天使の梯子 Ⅲ

 廊下をもどると、母は、台所で買い物の整理をしていた。

「ちょっと不思議な子ね、天坂さん。お人形みたいにかわいいのに、どことなく大人びてるし」

 どことなくというか、すごく大人びてると思う。

「それに、頭の回転もよさそう」

「よさそう、じゃなくて、いいの。さっきわかったでしょ? それに、びっくりするくらい、物知りなんだから」

 われ知らず、言葉に力がこもる。

「あらあら、大絶賛ね」

「こんなんじゃ、まだまだぜんぜんだよ。ほんとにすごいんだから、ミュウは」

 バッグから豚バラのパックを取りだしながら、母がニヤニヤする。

「へえ、あの子のこと、ミュウって呼んでるんだ」

「え……うん。まだ、本人非公認だけど」

「なによ、それ。小羽子の片想いってこと?」

「ちょっと! 変な言いかたしないでよ!」

 かあっ、と顔に熱がのぼっていくのがわかる。

「あはは、なに耳まで真っ赤にしてんの。さては、べたぼれか」

「だから、そういう言いかたはやめてってば!」

 気がつくと、わたしは、テーブルに上半身を乗りあげていた。

「ごめんごめん。そんな、本気で怒んないでよ。天坂さんがすごい子だってことは、あたしにも、ちゃんとわかったから」

 謝る、というよりは、あきれ気味の顔で、母が言った。

「もう……ほんと、変なこと言わないでよね。ミュウにも失礼だよ」

 わたしは、むすっとしたまま、釘を刺すように言った。

「ところで、ミュウちゃんって同じクラスの子なの?」

「……ううん、隣のクラス。実は、昨日(きのう)初めて知りあったんだ」

「え!? それ、ほんと?」

 母が手にしていたタマネギが、ごろんとテーブルに転がる。

「なにも、そんなに驚くことないんじゃない?」

「そりゃあ、驚くわよ。あんた、非社交的とは言わないけどさ、少なくとも、自分から積極的に友だちをつくるタイプじゃないでしょ?」

「まあ、否定はしないけど……」

「それが、知りあって二日目の友だちを家につれてくるなんて、前代未聞だもん。どんな異常気象の前触れかと思うわよ」

「ほんと、ひどいなあ。本気でぐれちゃうよ、わたし」

「べつにいいわよ。だってあんた、反抗期もイマイチ歯ごたえなかったからね。楽しみだわ」

 できるものならやってごらん、と言わんばかり。人を見透かしたようなその言い草に、ついまたカチンときてしまうわたし。

「いいもん! そんなこと言うなら、ほんとにぐれちゃうんだからね。美鈴さんの手紙だって、渡さないんだから」

「美鈴の……手紙?」

 その瞬間、母の顔色が変わった。

「うん……わたし、美鈴さんに謎かけをされてたんだ。なのに、その答えが、ずっとわからなかった。でも、ミュウがその謎を解いてくれたの。さっき、ふたりで見つけたんだよ。美鈴さんからの、わたしとお母さんへの手紙」

「そっか……それであんたたち、さっき美鈴の部屋から……」

「ね、きて」

 わたしは、母の腕を両手でつかんだ。

「ちょっと待って……お野菜、冷蔵庫に入れとかなきゃ」

 母が、少し呆然とした様子でつぶやく。

「なに言ってるの。いいわよ、そんなのあとで」

 そのまま、強引に母の腕を引き、美鈴さんの部屋につれていく。

 部屋に入ると、わたしは、畳の上に置いてあった『銀河鉄道の夜』を手にとって母に渡した。

「わたしたちが見つけた、美鈴さんの宝物だよ」

「これ――」

 母の目が、大きく見開かれる。

「裏表紙、開いてみて」

 わたしに促されるまま、裏表紙を開いた母の手が、かすかに震えた。

「それが、美鈴さんからお母さんへの手紙」

 白い封筒を手にとった母は、まだ呆然としたまま、その場にぺたんと座りこんだ。

「ね? わたしが、親思いの素直な娘でよかったでしょ?」

「バカ……」

 そのまま、声をつまらせたように、母は黙った。

「その手紙、手にとってみて」

「ああ……うん」

 母の細い指が、手紙の端に触れた。いつもの冷静な母なら、そのとき、わたしの口もとが、ちょっとだけゆるみかけていたのを見逃したりしなかっただろう。

 母が手紙を手にするのと同時に、その下に隠れていた二枚の写真が、母の膝の上に落ちた。最初、あら、という感じでその写真をとらえた母の目が、眼鏡の奥で大きく見開かれる。

 わたしは、すばやく母の胸もとに顔を寄せた。

「へえ~、写真だ」

 一枚目の写真は、少し色あせたスナップ。

 写っているのは、深い紺色のセーラー服を着たふたりの少女だった。

「ね、ね、これって、もしかして、高校のときのお母さんと美鈴さん?」

「美鈴ったら、なんでこんなもの――」

 母が、微笑とも苦笑ともつかない顔で、額に手をあてた。

 写真の中のふたりは、シュロみたいな木を背にして、肩を並べている。右に立つ女の子は、きっちりとした三つ編みで眼鏡をかけ、まっすぐに正面を見ていた。

「お母さん、ほんとに優等生の鑑(かがみ)って感じだね~」

 あまりにも、いつか美鈴さんが話してくれた高校時代の母のイメージそのままで感心してしまう。

「だけど、お母さん、これ、スナップでしょ? なんで証明写真みたいにかたい顔してるの?」

「しかたないじゃない。このころのあたし、カメラの前で笑い顔をつくるのが、どうしてもダメだったのよ」

「わたしも、その血をしっかり引いてる人間だけど、ここまでひどくはないなあ……」

「いいわよ、いくらでも言ってくれて」

「それにくらべて――」

 母の両肩に手を乗せ、カメラ目線でにっこり笑っているのは、言うまでもなく美鈴さん。なんていうか、まるで、天使のほほえみだ。

「……美鈴さん、ほんとに美少女だよねえ」

 さらさらストレートのロングヘアも似あいすぎだし、おしとやかなお嬢様と言われれば、まちがいなくそのまま信じてしまう。

「それに、すごくまじめそうな感じ」

「意外そうね。もっと、とっぽいヤンキー娘みたいなイメージを想像してたんでしょ」

「ヤンキーは言いすぎだけど……まあ、でも、それに近いかな」

 それよりも、「とっぽい」とか「ヤンキー」なんて言葉が、母の口から自然に出てきたことのほうが、わたしにとっては新鮮な感動だった。

「あたしたちの学校、県下でも有数の伝統校だったからね。なにしろ、『本校は、勉強するところである』が合言葉になってる学校だもん」

「うわ……それって、すごいね」

「でしょ? 伝統を汚(けが)してはいけない、って、みんな本気で思ってたんだよ。もともと女学校の流れを汲んでるから、どちらかというと、女子生徒のほうにそういう意識が強かったかな。校外でのふるまいや服装にも、いちいちちゃんと気をつかってたもの」

「なるほど。そのお手本が、この人ね」

 わたしは、写真の母を指でさした。

「まあ、そういうことになるわね。でも、美鈴は、ちょっとちがってた。なにしろ、なにをやっても目立っちゃう子だった」

「そりゃ、これだけきれいなら、目立つよね」

「それもあるけどね。なんていうのか、人の目を気にしないのよ。本校生はこうあるべし、みたいなのに縛られない。先生にも、ずばずばものを言う。だから、かえって先生にも、一目置かれてるところがあったよ」

「それって、要するに、美鈴さんは、高校時代から美鈴さんだったってことじゃない?」

母が、「そうか。そうね」と眼鏡の奥の目を細める。

「あたしは、そんな美鈴にずっと憧れてた……」

 母は、写真を手にとって、じっと見つめた。

「この写真、二年の秋の文化祭のときだわ。思い出した……美鈴は、写真記録係で、まだフィルムが残ってるからふたりで写真撮ろう、って、たまたま通りかかった一年生をつかまえて、無理やりシャッターを切らせたのよ」

「なんか、そういう強引なとこ、美鈴さんらしいなあ」

「強引も強引。突然腕をとられて、正面玄関前に引っぱっていかれて、いきなり“春花、いっしょに写真撮ろ!”だもん。あたしだって目を白黒させたわよ。このころ、あたし、まだ美鈴と友だちになったばかりだったし。“え? え? いいの? なんであたし?”て感じで、わけわからないうちに、カメラ向けられてた」

 ……そうか、それで、ガチガチの直立不動になってるのか……お母さんのそういうとこ、なんだかちょっとかわいい。

「考えてみたら、美鈴とふたりだけで撮ったこのころの写真って、ほんとにこれだけかもしれない。なにしろ、プリクラも写メもない時代だからね」

「……ということは、貴重なお宝写真っていうわけか」

「やめなさいよ。そういう変な言いかた」

 母にじろりとにらまれ、わたしは、舌を出しながら肩をすくめる。

「でもさ、お母さんと美鈴さんが友だちになったのって、そんなに遅かったの?」

「うん……二年になって同じクラスになったけど、美鈴は、あたしなんかとちがう世界を飛びまわってるような子だったから、声なんてかけられなかったのよ。ようやくふつうに話ができるようになったのは、二学期になってからだった」

「ほんと、奥手だね、お母さん」

「あんたに言われたくない……って返したいたいところだけど、今日のあんた見たら、もう言えないわね」

「母の知らぬ間に、娘はちゃんと進歩してるのよ」

「まだ、あたし的には納得できないんだけど」

 いや、そこは母として、素直に喜んでくれるべきなんじゃ……。

「それから一年半、美鈴には振りまわされることが多かったけど、でも、それが楽しくてしかたなかったな。そうね……あたしのまわりの透明な水が、ある日突然、オレンジジュースに変わったみたい、っていえばいいのかな」

「あ、すごくよくわかるね、そのたとえ」

「美鈴と友だちにならなかったら、あたしきっと、ただのやっせんぼで、ひねくれまじめな優等生のまま終わってたと思うわ」

「やっせんぼって?」

「弱虫、いくじなしってこと。美鈴に会う前のあたしは、臆病な、まじめだけがとりえの女の子だった。優等生って、損な役回りのところがあるでしょ? どんなことでも、きちんとやるのが当たり前。たまに失敗したりすると、なあんだ、っていう目で見られちゃう。それでいいんだ、って思っていても、気がつかないうちに、心のどこかにいじけた芽を育てちゃってる」

 あれ……それってまるで、ここにいるだれかさんのことじゃない……。

「それって、結局自分に自信がないからなのよ。いっつも人の目を気にして、なにかに手を伸ばす前に“どうせ、あたしなんて”ってあきらめちゃう。でもね、美鈴といると、お陽さまに惹かれるみたいに、そのいじけた芽がまっすぐに伸びてく気がした。美鈴は、教えてくれたの。どんな小さな芽にだって、伸びていく先には、ちゃんと光があるよって」

 ああ、お母さん……わたしもそのことを美鈴さんから教わったよ。

「美鈴といっしょに、笑ったり、怒ったり、たくさんのおんなじ時間をすごして……あたしは、数えきれないくらいの大切なことを美鈴から教わってきた」

 母の目が、美鈴さんを見つめるときの、優しい目になっていた。

 その優しい目のまま、母が、膝の上で、もう一枚の写真を手にとる。

 わが家の玄関前、赤ん坊を抱いた若き日の母。そして、その母を、左右から支えるように寄りそって立つ父と美鈴さん。美鈴さんは、お得意の両手Vサインだ。

「これって……」

「初めて美鈴が、この家にきたころね。そうそう、たまたま大家さんが訪ねてきて、美鈴が、どうせだから、記念に写真撮ってもらおうよ、って言いだして……」

 やっぱり、言いだしっぺは、美鈴さんなんだ……。

「お母さん、相変わらず笑顔がかたいなあ。さっきの写真よりは、ずっとましだけど」

「これなんて、当時としては、最上級の笑顔よ」

「そうなのか……」

「それに比べると、この天真爛漫な笑顔ときたら――」

 満面の笑みをたたえ、カメラに向かって手を伸ばしている赤ん坊を母が指さした。

「このころのあんたは、ほんとに天使みたいだったわ」

 ふう、と、かなり本気っぽいため息をつく母。

「子どもはね、いつまでも天使じゃいられないの」

「また、いっぱしのこと言って」

 母の指が、わたしの鼻の先を、つん、とはじいた。

「でも、みんないい顔してるでしょ?」

「うん……」

 ちょっとかたい笑顔の母も、父も、美鈴さんも、そして、もちろんわたしも……

「みんな、とっても幸せそう」

 母が、ふふっと笑う。

「あんた、わかってるの?」

「なにが?」

「その幸せの真ん中にいるのが、小羽子、あんただってこと」

「え?」

 美鈴さんの手紙の中にあった言葉がよみがえる。

 ――アリ子、これだけはぜったいに忘れないでほしい。その幸せの中心には、いつだってアリ子がいたんだよ。

「そう……あんたが、みんなをこの幸せな笑顔にしてるのよ。あんたが生まれて、あたしたちが家族になった日から、ずうっと、それは変わらない」

「ずうっと?」

「そう、ずうっと。あたしたちはね、みんなでその幸せを守ってきたの」

「みんなで?」

「ええ、家族みんなで」

 そっか……これ、わたしたち――家族の写真なんだ。

 小さな写真に向かって、わたしは、そっとつぶやく。

 ――今日まで、ありがとう。

 わたしは、母の背中をそっと抱いた。

「な、なによ、急にどうしたの?」

「いいじゃない。たまには」

 母は、黙ってうなずき、胸にまわしたわたしの手を握りしめてくれた。

「じゃあ、小羽子、あたしからもひとつ、いい?」

「なに? お母さん」

「この手紙ね、小羽子もいっしょに読んでもらえるかな」

「え? だって、それは、美鈴さんからお母さんへの大事な――」

 大事な手紙――そう言いかけて、わたしは言葉をのんだ。そう、さっきわたしは、ミュウにこう言ったんだ。“大事なものだから、わたし、深雪にいてほしい”

「美鈴もね、そうしてほしい、って言ってる気がするの」

「うん……わかった」

 二枚の写真を膝の上で封筒に重ね、母は、静かに目を閉じた。

 それから――ゆっくりと目を開けた母は、心を決めた人の表情で封筒を取りあげた。

 母の指が、封の端にかかる。そうされることをずっと待っていたように、あっけなく開いた封筒から、便箋を取りだす母の手に、ためらいはなかった。

 三つ折りになった青い便箋を、母らしく、ていねいに広げる。

 何枚もの便箋を埋めた美鈴さんの文字。

 まっすぐ、穏やかにそそがれる母の視線。

 そのかたわらに寄りそって、わたしもまた、母と美鈴さんの小さな旅をたどりはじめた。

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