第四章 はじまりの光、天使の梯子 Ⅱ

 最後に残されたのは、美鈴さんから母への手紙。

「この手紙は、どうしたらいいのかな」

「悩むことはないさ。きみからお母さんへ渡せばいい」

 いつものようにあっさりと、ミュウが言った。

「きみとお母さんが美鈴さんの遺品の整理をはじめれば、いつかはきっと天袋の箱にも気づいて、ふたりへの手紙を見つけていただろう。でも、美鈴さんは、できればきみに手紙を見つけてもらいたかった。そして、お母さんへの手紙も、きみの手から手渡してもらいたかったんだ」

「そうなのかな……」

「そうさ。だからこそ、こんなクエストを思いついたんだよ。きみをこの手紙へ導くためのクエストをね」

 わたしは、小さく「うん」とうなずいた。

 ほんとに……美鈴さんらしい。いたずらと楽しいことが大好きで、人をびっくりさせることが大好きで、そのくせ、だれよりも繊細で照れ屋さんで……。


 ふと時計を見ると、もう五時をまわっている。確か、母は、今日早番だと言っていた。買い物を済ませてきたとしても、もうそろそろ帰ってくる時刻だ。

「じゃあ、今度こそ、ほんとうに失礼するよ」

 腰を浮かせたミュウを、あわてて押しとどめる。

「あ! まだ……待って」

 ミュウは、手にした帽子をパタパタとはたいた。

「どう考えても、これ以上、ぼくがここですることはない」

「もうすぐ、お母さん、帰ってくるから……それまで……」

「どうしてそれを早く言わないんだ。それこそ、さっさと退散すべし、ってことじゃないか」

 ミュウの動きが、にわかにスピードを増す。

「待って! ねえ、ミュウ、待ってよ!」

 思わず「ミュウ」と呼びかけてしまったけど、ミュウは、それも気にとめていない様子だ。しゃかしゃかとした気ぜわしい足どりで、部屋を出ていこうとする。

 そのときだ。玄関から「ただいまあ」という、母の声が響いてきたのは。

 ミュウは、そのまま、しっぽを引っぱられたドラえもんみたいに動きをとめた。

「あはは、帰って……きちゃったね」

 笑いかけても、ミュウは微動だにしない。

「あら、だれかきてるの? まあ! もしかしてお友だち!?」

 あ、そうか。玄関にあるミュウのローファーを見たんだ。

「これはもう、観念するしかないよ」

 まだかたまっているミュウを追いこし、わたしは廊下に出た。

「おかえりなさい」

 母は、買い物でふくらんだ愛用のエコバッグを、玄関の上がり口に置いたところだった。

「だめじゃない、小羽子! お友だちを呼ぶのなら、ちゃんと言っといてくれなきゃ」

 わたしを見るなり、母は、そう言って唇をとがらせた。

「ごめん……」

 謝るわたしの脇から、ミュウが、おずおずと顔を出す。

「あら! まあまあ!」

 裏がえった声をあげる母に、わたしは、すかさず切りかえした。

「なによ、そのリアクション。友だちに失礼でしょ」

 母の目の輝きは、まさしく、かわいい愛玩動物を見つけたときのそれだった。

「ごめんなさいね。この子が、家にお友だちをつれてくるだけでも珍しいのに、それが、こんなにキュートなお客様だなんて、もうびっくりしちゃって」

 わが母ながら、ちょっとひどくないですか、その言いかた。ていうか、わたしのほかの友だちに、かなり失礼なんですけど……。

 ミュウは、さっきまでしゃかしゃか退散モードだったことはおくびにも出さず、にっこり笑って、「天坂深雪です。おじゃましてます」と頭をさげた。

「天坂さん……すてきな名前ね。今日は、ありがとう。きたない家で驚いたでしょう?」

 親子そろって、ボロ家とかきたないとか、そんなところばっか強調しなくてもいいのに……。

「それから、この子、人づきあいとか、ほんとダメな子だから、愛想尽かさないで、仲良くしてやってね」

「やめてよ。わたしが、友だちのいない寂しい子みたいじゃない」

「あら、そうじゃないの?」

 ひ……ひどい。なんだか、母がわたしに向ける言葉の仕打ちが、どんどんひどくなっている気がする。昔は、人前でこんなことを言える母じゃなかったのに……。

「それ、立派な言葉の児童虐待だよ」

「バカね、児童っていうのは、小学生までなのよ。あんたは、もう児童じゃないの」

「ああ! またわたしのこと、バカって言った」

 だいたい、なんでこんな恥ずかしい母子(おやこ)のやりとりをミュウに聞かせなきゃいけないの? ほんと、目の前に穴があったら今すぐ飛びこみたいよ。

 その恥ずかしい会話を黙って聞いていたミュウが、すっと割って入った。

「お母さんがおっしゃる“児童”の定義は、あくまでも学校教育法に基づくものですね。日本の法制度に限ってみても、児童という概念は、とても多義的です。単に学制や年齢では、範囲づけができない部分もあります」

「あら! まあまあ!」

 目を丸くした母が、ふたたび裏がえった声をあげる。

「すごいわ、天坂さん。小羽子、あんたもたまには、天坂さんみたいに理路整然とした受け答えをしてみなさい」

 え……お母さん、いつもは「大人のまねして、変な屁理屈をこねるんじゃないの」とか、わたしに言ってない?

 ミュウが、ちらっと腕時計を見た。たぶん、もうこれ以上、すさんだ母子の会話に加わるつもりはない、という合図だ。

「じゃあ、これで失礼します」

 ふたたび、しゃかしゃかと玄関へ向かって動きだしたミュウに、さすがの母もあわてた。

「天坂さん、待って! あ、そうだ、小羽子、ちゃんとおもてなしはしたの?」 

「え? おもてなし?」

 わたしは、一瞬たじろいだ。

 そういえば、わたし、ミュウにお茶すら出していない。

「ああ、やっぱり! あんた、ほんとにそういうところがダメなんだから! ねえ、天坂さん、よかったら、もう少しくつろいでいって。あ、そうだ! お夕飯、いっしょにどうかしら。ね、そうしていって」

 ミュウは、丁重なお断りモードで頭をさげた。

「ありがとうございます。でも、今日はほんとうにもう、失礼しないといけないので」

「そう……残念だわ。これに懲りず、また遊びにきてやってね」

 なんなの、その、「これに懲りず」って……。

「はい」と答えながらも、ミュウは動きをとめない。

 わたしは、はっとわれに帰り、あわててミュウのあとを追った。

「待って!」

 玄関の上がり口の手前で立ちどまったミュウが、鳶色の瞳をわたしに向ける。

「なんだい?」

「あの……ほんとに、ありがとう」

 結局、出てきた言葉は、それだけだった。

「だから……ぼくは、ほんとになんにもしてないよ」

 ミュウの答えに、わたしは、大きく首を振った。

「深雪がいなければ、わたしはずっと、迷子のままだった」

 闇の中から扉を押し開くように、ミュウは、わたしに光をくれた。わたしは、その光に導かれるまま、ここまで歩いてきただけだ。

 ミュウは、気のないそぶりで髪をかきあげる

「礼を言われるほどのことじゃない。それに――」

「それに?」

「けっこう、楽しませてもらった」

「うん……そうだね、楽しかった」

「ああ、それと」

「なに?」

「きみのお母さんも、やっぱりおもしろい人だね。なんていうんだっけ、確か……あ、思い出した、ツンデレだ」

 わたしは、噴きだした。よりによってなんでこの場面で、そういう変な知識を発動するのかな。ていうか、お母さんってツンデレなの?

 とりあえず、この発言は、母にはないしょにしておいたほうがよさそう……。

「それじゃあ」

 土間に降り立ったミュウが、ガラス戸を引く。黄昏(たそがれ)を告げるレモン色の光が流れこんで、ミュウの全身をふわりと包んだ。

 その瞬間、ミュウが、天界に帰っていく天使に見えた。

 まるでもう、このまま二度と会えないような――

 待って、いかないで――そう叫びたかった。なのにその言葉は、声になってくれない。

「じゃあ、また」

 やっと言えたのは、その一言だった。

「うん、じゃあ、また」

 にっこり笑ったミュウは、そのまま立ちどまることなく、あふれる光の海へ泳ぎ出ていった。

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