第四章 はじまりの光、天使の梯子 Ⅰ

 わが愛する弟子、アリ子よ――なあんて。

 今、この手紙を読んでるってことは、あたいの出したクエストを、ちゃんとクリアしたってことでいいのかな。

 クチーナ紫藤は、どうだった? いい店だろ? こんなことにならなければ、ちゃんと案内してあげたかった。もし気に入ってくれたなら、うれしいよ。


 さて……実のところ、この手紙にたどりついてくれたアリ子に、あらためて伝えることなんて、もうほとんどないんだよ。

 せいぜい、あたいみたいなダメな大人になるなよ、ってことくらいだけど、それだって、今さらだよね。

 なにしろあたしは、八年間、あんたが成長していくのを、ずうっとこの目で見てきたんだから。

 アリ子のこれからのことは、なんにも心配してない。ほんと、いい子に育ってくれたね。

 春花は、世界一の立派なお母さんだ。ちゃんと感謝しなきゃだめだよ。

 なによ、そんなことが言いたかったの、って、アリ子は怒るかもしれないけどさ。

 ああ、そうだ。アリ子に伝えとこう、って思ってたこと、ちゃんとあったよ。

 それはさ、ほんとに楽しかったね、ってこと。

 アリ子たちといっしょにいた時間、場所、なにもかもが楽しいことでいっぱいで、いやなことなんて、なにひとつ思い出せない。

 楽しかったのはあんただけだ、なんて、言わないどくれよ。

 この家にふらりとやってきたあたいを、アリ子が玄関で迎えてくれたのは、暑い夏だったね。あの日からあたいは、長い長い夏休みを過ごしてきたような気がするよ。

 あまりに楽しくて、遊びほうけてるうちに、夏休みにはいつか終わりがくるんだってことを、すっかり忘れてた。

 そうしたら、突然、神様に“おい、お前さん。もうそろそろいいだろう”って肩をたたかれちまった。まあ、そんな心境さ。

 まだ、あと少しだけ遊ばせておくれよ、って、駄々をこねたいけど、どうやら神様は、あたいのそんなわがままに、いちいち耳を貸してはくれないみたいだ。

 悟りとかなんとか、そんなもの、あたいには端(はな)から縁がないし、残った宿題の前でもがいてるガキみたいに、最後までジタバタしてやりたい。その気持ちは変わってないよ。

 世の中は、食うて稼いで寝て起きて、さて、そのあとは死ぬるばかりぞ――知ってるかい? あの一休さんが、問答のなかで残した歌っていわれてるんだよ。

「食う・寝る・遊ぶ」で、生きたいように生きて、ここまで達観できたら、それこそ理想なんだろうけど、あたいには、たぶん「園田美鈴は、最後まで往生際の悪い女であった」っていう言葉のほうが似あってる。

 人生は、お祭り――園田美鈴という自分のノートを、とにかくおもしろいことで埋めつくしてやれ、そう思ってあたいは生きてきた。そのノートを、書きかけのページやなにも書かない真っ白なページを残したままで閉じなきゃいけないなんて、やっぱ悔しいさ。浮世の月にかかる雲なし、なんてわけにはいかないよ。

 けど、最近じゃ、気がつくと、少しずつ、心の中の整理みたいなものをはじめちまってる自分もいるんだ。よくいう、走馬燈ってやつなのかな――だいたい、走馬燈なんてもの、見たこともないんだけどね――昔のことばっかり、次から次と思い出しちまう。

 お気楽さだけがとりえの人間だと思ってたのに、そのとりえさえこれじゃあ、実際、ざまあないよね。


 身体だってさ、もちろん、あたいなりに、ちゃんと気をつかってきたんだよ。この八年間、酒の量もほどほどにしてたし、タバコだって、一本も吸ってない。

 この家にくるまでは、“まあ、なるようにしかならない”って開きなおってたからさ、正直言うと、酒も飲みたいだけ飲んでたし、タバコもやめなかった。

 だけど、この家でアリ子が出迎えてくれたあの日――きょとんとしながら、大きな目で、あたいとスイカを交互に見てたおチビちゃんを今でも思い出すよ――そう、あのとき、吸ってたタバコを携帯灰皿に突っこんで、あたいは誓いをたてたんだ。

 これが最後の一本。これっきり、もうタバコは吸わない、ってね。

 まあ、えらそうに言うほど、大げさなもんでもないか。

 なにしろ、この八年間、もう一度タバコを吸いたい、なんて気には、一度もならなかったもんなあ。そんなものより、もっと楽しいものにはまってたからね。

 なんのことかって? そんなの、アリ子のことに決まってるだろ?

 どんどん大きくなって、ものすごいスピードで先に走ってくアリ子のあとを、必死に追いかけるのが、楽しくて楽しくてしかたなかったんだ。

 やっと一息ついて、あと何年かしたら、アリ子を入れて、春花と三人でいっしょに酒が飲めるかな、なんて、指折り数えはじめてたところだったのに……。

 覚えてるかい? 伊豆旅行のとき、下田で、アイスクリームを食べて気どってるあたいを「老婆の休日」だとか言って、笑ったよね。

 でも、それがあたいの夢だったんだよ。

 婆さんになって、あんたと春花と三人で、ずっと憧れてたイタリアにいく。ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ラグーザ……もちろん、いく先々でおいしいものを食べまくって、あたいと春花、ふたりで年寄りのわがままを、アリ子に言いまくる。

 どうだい? 最高にイケてる夢だろ? 老後の楽しみに、ずっととって置いたのにさ……。

 老後どころか、ほんとに遠い夢になっちまった。イタリアにいきたしと思えども、だよ……。

 せめて、三人でいっしょに旅行にいく夢だけは、かなえたかったんだ。

 それが、あの伊豆旅行さ。勝手にイタリア旅行気分になって、やりたい放題やって……ぜんぶ、あたいのわがままをかなえるための旅だった。

 三人で酒を飲む夢も、こっそりかなえちまった。まあ、あれは悪かったと思ってるよ。ごめん。

 それにしても、あんたら母子が、酔っぱらいかたまで似てるのには、笑ったね。

 ……え? ぜんぜん反省してない? そりゃあ、美鈴さんにまともな反省を求めるアリ子がまちがってるぞ。はっはっはのは。

 あの旅行の最後の日、ふたりで海からの日の出を見たね。春花には申しわけなかったけど、アリ子とふたりきりの思い出をつくれて、あたいはうれしかったよ。

 アリ子といっしょに温泉に入ることなんて、この先もう二度とないのかな、って思いながら、朝はどこからくるのか、とかなんとか、われながら恥ずかしい話をしてたら、急に目からお湯が漏れてきた。あわてて顔に温泉をかけたよ。ああいうとき、まわりがお湯だらけってのは、けっこう助かるね。

 あの日、まぶしい朝陽を全身に浴びながら、この光の中で、新しい自分に生まれ変われるなら、って思ったよ。それが、せんない願いだとわかっていてもね。

 あと少し、少しだけ、この子のそばで、この子をこんなふうに見守る時間をもらえたら――そう祈らずにはいられなかった。

 でもね、あのとき、もうひとりの自分に言われたんだ。“バカだね。おまえさんのよけいな心配なんて、もうこの子にはいらないってことくらい、わからないのかい”ってね。

 そのとおりだったよ。ちっちゃなバンビーノ、あたいを不思議そうに見あげてた、アリンコみたいにちっこい女の子は、いつの間にかあたいと変わらない背丈の、いっぱしの大人になってた。

 まあ、その……胸はともかくね。

 なんだか、肩に入ってた力がすとんと抜けちまった。うれしくて寂しいってのが、ほんとにあるんだな、と思ったら、また、お風呂の助けがいりそうになったよ。

 それから、“オバハンになるってのは、こういうことをいうのか”なんて、 ぜったいこれだけは思っちゃいけない、と肝に銘じてきたことをさ、不覚にも、しみじみ思っちゃったわけだ。

 気がゆるむってのは、つくづく恐ろしいね。

 まあ、そういうわけだから、ここから先は、ダメな大人代表、反面教師からの最後のアドバイス、ってことにしといてほしい。ほんとにいらないお世話、オバハンの心配ってやつさ。


 あのとき、アリ子にこう言ったね。アリ子は、一番素直にならなきゃいけないだれかさんに、素直じゃない、って。

 アリ子なら、その意味はとっくにわかってると思う。

 そう、それは、アリ子自身だよ。

 アリ子は、他人よりも、自分に対して変に身がまえちまってるところがある。自分で自分を縛って、わたしはこういう人間だ、ふつうで目立たない中くらいの人間なんだって、端(はな)から決めつけちまってる。

 あたいから言わせると、それって、ちょっと楽をしすぎだ。

 どんなことでも、一回型にはめて“これはもう、そういうこと”にしちまうと、すごく楽ちんなんだ。あとは、もうなんにも考えなくたって済んじゃうからね。

“わたしは、自分を客観的に見て、ちゃんと肯定してる。それのどこがいけないの?”って、アリ子は言うかもしれない。だけどそれは、ちゃんと自分を肯定することになってるかい? アリ子がつくった型枠に自分をはめこんで、放ったらかしにしてないのかい?

 勘違いしないでほしいんだ。あたいは、ふつうがいけないいとか、もっと個性的になれとか、そんなことを言ってるわけじゃないんだよ。

 よく、自分さがし、とかいうね。ここじゃないどこかにほんとうの自分がいる、とかさ。だけど、ほんとうじゃない自分って、なんなんだろうね。

 どこまでいったって、どんなふうに生きたって、結局、人は自分以外の誰かになれないし、自分としてしか生きられない。だから、ひたすら自分の中でもがく。

 人間は、そうやって、一生自分を相手に、おろおろジタバタし続けるんだよ。悩んで、迷って、ヘタレて、まごついてさ。

 今のアリ子は、そんなふうにジタバタしてるかい? 生身の自分と真剣につきあってるかい?

 ありふれた自分を、ほんとうにちゃんと愛してやってるかい?

 あたいには、そうは見えないんだ。アリ子は、自分をちゃんと正面から見てあげてない。

 一番素直にならなきゃいけない相手に、素直じゃないってのは、そういうことさ。

 背伸びして、大人ぶらなくたっていい。まだ子どもの自分、発展途上でうろうろしてる未完成な自分を、ちゃんと認めてあげてもいいんだよ。駄々をこねて、ほしいものをねだって、だれかに泣きついて、ときには、子どもでなにが悪いの、って開きなおったっていいんだ。

 今、アリ子は、自分を窮屈な鳥かごの中に押しこんで、鍵をかけたまま、目をそらし続けてる。そのままの自分にも、どんどん変わってく自分にも、気づいてあげてない。それって、ちょっとかわいそうだと思わないかい。

 あたいは、あのとき、こうも言ったはずだよ。一番大切な答えは、アリ子にしか見つけられないって。アリ子を、その小さな鳥かご――自分に与えられた住処(すみか)だと思いこんでる世界から解き放ってやれるのは、アリ子だけなんだ。

 そして、そのための羽を、アリ子はちゃんと持ってる。

 大事なのは、その小さな羽の力を、アリ子がちゃんと信じてあげることさ。

 大きく深呼吸して、少しだけ助走をつけて、思いっきり羽ばたいてごらん。

 うまく飛ぼうなんて、かっこつける必要はないよ。

 自由に、思うままに、なんて、口で言うほど簡単なことじゃない。

 鳥だって、たぶん、自由自在に、思うまま空を飛んでるわけじゃないんだ。

 それでも、アリ子が、自分の羽の力を信じるなら、その羽は、いつかアリ子を、まだ見たことのない世界、少しだけ自由な空へつれていってくれるはずさ。

 だいじょうぶ。ほんとうの魔法は、いつだってアリ子の手の中にあるんだよ。


 なんだか、いろいろくだらないことをグダグダ書きすぎたね。

 きりがないから、もうこれで終わりにするよ。

 つきあってくれて、ありがとう、アリ子。

 ここで過ごした八年間、ほんとにあたいは幸せだった。

 アリ子、これだけはぜったいに忘れないでほしい。その幸せの中心には、いつだってアリ子がいたんだよ。


 そうそう、あたいのほうこそ、忘れちゃいけない大事なことがあった。。

 アリ子への入学祝い。まだ、渡してなかったよね。化粧台の一番下の引き出しを開けてごらん。

 そこに一冊のノートがある。それが、あたいからのお祝いだよ。

 なんにも書いてない、ほんとにただのノートさ。

 その真っ白なページは、今、アリ子の前に広がってる未来だよ。これから三年間かけて、アリ子自身の手で、そのページをいっぱいに埋めてごらん。たくさんの出会い、楽しいこと、つらいこと――どんなことでもぜんぶ、ノートの上に書きしるしてごらん。

 いつかきっと、そのすべてが、アリ子にとって、かけがえのない宝物になるはずだから。


 ああ、そうだ。ノートには、番人役もちゃんとつけといた。けなげでかわいい奴だから、そいつもいっしょにもらい受けてくれるとうれしいよ。


 この手紙を見つけてくれて――あたいを見つけてくれてありがとう。


 小さな羽を持った、あたいの、こまんかむぜおごへ

 美鈴おねえさんより、ありったけの愛をこめて

 

  *  *  *  *  *  *


 わたしは、読み終えた便箋を、静かに膝の上へ置いた。

 どうしてだろう。今になって、肩が震えるのをおさえられない。

 美鈴さん、美鈴さん、美鈴さん――心が、その名を呼んでしまいたくなる。

 あなたは、こんなにも、こんなにもわたしを愛してくれていたんだね。


 もし、美鈴さんがいなかったら――美鈴さんといっしょにいたときは、考えもしなかったことが、この一ヶ月、ふとした拍子に頭をよぎるようになっていた。

 母とわたしは、かたくなで、案外不器用なところとか、いちいちよく似ていた。

 似たものどうしのわたしたちは、たがいの垣根を軽々と飛びこえたり、じょうずにぶつかったり離れたりすることが、なにより苦手だった。

 たとえば、母は、懐にかき抱(いだ)くようにわたしをかわいがることができない人だったし、わたしはといえば、母の懐へ飛びこむように甘えることができない子どもだった。

 母子(おやこ)なのに、じゃなく、母子だから、他人のようにはうまく距離を置けないから、たがいの身のかわしかたも、ぶつかりあいかたも、かえってよくわからない。だからわたしは、母の前でも、可もなく不可もない優等生、という他人向けの衣装を脱ぎすてることができなかった。

 もしこの八年間、母とわたし、ふたりだけだったら、たぶん、腫れ物を避けあうみたいに、たがいがぎくしゃくと距離をとりあい、挙句、逃げ場のない衝突をして、そのままばらばらになっていたのじゃないか――大げさじゃなくそう思ってしまう。

 わたしたちが、ときにはぶつかりながらも、ちゃんと言いたいことが言える関係を保つことができたのは、まちがいなく美鈴さんのおかげだ。

 美鈴さんがいたから、わたしたちは、母子でいられた。

 どんなことがあっても、美鈴さんが笑えば、わたしたちも笑った。深刻に考えこんでいたことが、次の日には、ただのネタ話になった。肩肘を張りそうになったとき、いつだって、その肩をポンとたたいて、もっと気楽にいこうぜ、と言ってくれるのが、美鈴さんだった。

 ちゃんとわかってるつもりでいたんだよ、美鈴さん。

 だけど、そうじゃなかったんだね。

 あなたがわたしたちに与えてくれたのは、もっともっと大切なものだった。

 あなたは、わたしたちに絆をくれた。手を結ぶことの温かさをくれた。あなたがいたから、わたしたちは、母子――ううん、家族でいられたのだ。あなたの強さと大きさと優しさが、わたしたちをひとつにしてくれた。

 母がいて、わたしがいて、あなたがいて、かけがえのない家族が生まれた。

 あの日から、わたしたちは、ずっとひとつの家族だったのだ。

 そう、わたしは、父と、母と、あなたに育ててもらった子どもだ。


 かたちにならないままこみあげる言葉を、想いの渦が押し流していく。

 ひどいよ、美鈴さん。

 わたし、もう、なにひとつ、あなたに返すことができないのに。

「どうしたんだい?」

 うずくまるように顔を落としたままのわたしの耳に、ミュウの声が届く。

「わからない……わからないの」

 わたしは、うれしいのだろうか。悲しいのだろうか。

 自分の気持ちが整理できない。

 こんなとき、涙があふれてしまえば、きっと楽なのに……。

「美鈴さんは、きみにどうしろって、そこに書きのこしたんだい?」

 え……? わたしは、顔をあげ、声の先に視線を向けた。

 ミュウは、壁に背を寄せ、体育座りで、きゅっと膝をかかえていた。

 あ、かわいい……いや、だから、そんなことを考えてる場合じゃないって。

 そうだ。美鈴さんは、わたしになにを書きのこしたのか――。

 もっとジタバタしろ。ありふれた生身の自分と正面から向きあえ。

 その背中にある小さな羽の力をちゃんと信じろ。

 答えをもらうつもりだったのに、結局もらったのは、もっとたくさんの宿題。

 しかも、わたし的には、相当ハードな宿題だ。もしかしたらそれは、へたに「自分を変えろ」とか言われるよりも、もっと難しい課題かもしれない。

 美鈴さん、けっこう容赦なく厳しい……。やっぱり、スパルタな人だ。

 でも、わたし、やってみる。ちゃんと信じてみるよ、この背中にある小さな羽を。

 だって、わたし、美鈴さんの愛弟子だものね。

「あ! そうだ」

 突然声をあげたわたしに、ミュウが驚いた顔を向ける。

「なにかあったのかい、急に」

「入学祝い!」

 ミュウが「は?」と首をかしげ、不思議そうにこちらを見る。わたしは、それにかまわず、膝立ちのままで美鈴さんの化粧台に近づくと、大急ぎで一番下の引き出しを開けた。

「あった」

 空色の表紙の真新しいノート。美鈴さんからわたしへのプレゼントだ。

 それから、そのノートの上に、でん、と置いてあるのは――

「フランチェスカ美鈴号……」

 あの運動会以来、美鈴さんが愛用してきたデジカメ。もちろん、伊豆旅行でも大活躍した。

 そうか、きみがこのノートをずっと守っていてくれたんだね……。

 畳に膝をついてにじり寄ってきたミュウが、引き出しをのぞきこんだ。

「もしかして、これが?」

「うん。美鈴さんからわたしへの入学祝い」

 わたしは、デジカメとノートをいっしょに引き出しから取り出した。

 ありがとう――そう声をかけてデジカメを膝の上に置き、あらためてノートと対面する。

 初めまして。待たせてごめんね。

 ぱらぱらとページをめくると、無地の真っ白なページが、目に飛びこんできた。

 ――その白いページを、アリ子の手で、いっぱいに埋めてごらん。

 わたしは、便箋に重ねてノートを胸に抱きしめ、目を閉じた。

 ありがとう、美鈴さん。このノート、ずっと大切にするね。


「あ」と、また声をあげ、わたしはミュウを見た。

「今度はいったい、なにを思い出したんだい」

「ねえ、こまんかむぜおご、ってどんな意味かわかる? ずっと前にも聞いた覚えはあるんだけど……イタリア語、じゃないよね」

「ああ、それは、タガログ語」

「たが……ろ?」

 きょとんとするわたし。八重歯を見せて、いたずらっ子のように笑うミュウ。

「――のわけはない」

「え!? うそだったの!?」

「うそじゃない。ジョークと言ってほしいな」

「もうやめてよ! うそでもジョークでもミュウが言ったら信じちゃうじゃない」

「じゃあきみは、あれはアルデバラン星雲語だって言ったら信じるのか」

「え……」一瞬考えこみ、わたしは「信じるかも……」と答えた。

 ミュウは、軽く両肩をすくめ、ふう、と息をついた。

「ぼくは、高枝切りバサミ大中小セットにブラックパールと金運長財布をセットにして、今すぐきみに売りつける自信があるよ」

「買わないよ! それにそんなお金ないよ!」

 ミュウのニヤニヤした顔を見て、またまた大まじめにトンチンカンな受け答えをしてしまったと気づく。

「もう! だから、その……タガなんとか語じゃなきゃなんなの?」

 頬をふくらませるわたしに、ミュウは、まだ笑いをこらえている顔で「そんなの決まってるじゃないか」と答えた。

「鹿児島弁だよ。意味は、確か……ちっちゃなかわいい女の子、さ」

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