第三章 花はどこへいった Ⅸ

 ミュウが取りだした古い本――それは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。

 裏表紙と遊び紙の間がふくらんでいて、なにかが挟まっているのがわかる。

 ミュウが、その本をわたしに向かって差し出す。わたしは、「うん」とうなずいて、本を受けとった。その場で割り座をし、膝の上で本の裏表紙を開く。

 現れたのは、クチーナ紫藤で見つけたのと同じ、白い封筒がふたつ。それぞれの宛名は、わたしと母だった。封筒はどちらも、クチーナ紫藤にあったものよりもずっと厚い。

 ふたつの封筒を取りあげたわたしは、はっとしてその手をとめた。

 封筒の下に隠れるようにして、二枚の古い写真が挟まっていたのだ。

 ふと気づくと、わたしは、写真を見つめながら、にこにこ微笑んでいた。そうか。この二枚の写真は、きっと、この本とひとつになった宝物なんだ……。

 わたしは、母への手紙を、もう一度写真の上に重ねて本を閉じた。

 ゆっくりと顔をあげ、ミュウを見る。

「ミュウには、わかってたの? ここにあるのが『銀河鉄道の夜』だって」

「見当は、ついていたよ。そこから、なにが出てくるのかは、ともかくね」

「どういうことか、教えてくれる?」

 ミュウが、「オーケー」とうなずき、わたしの横に座った。

「スタート地点は、わたしをさがせ、という美鈴さんのメッセージだった。これは、いいね」

「うん……」

 でも、わたしには、そもそもその意味が、まったくわからなかった。

「きみは、『銀河鉄道の夜』に出てくる、ふたりの少年の名前を知ってるかい」

「確か、ジョバンニとカムパネルラ……」

「そう、主人公のジョバンニを銀河鉄道の旅に導く親友が、カムパネルラだ。その名前は、イタリアの思想家、トマソ・カンパネッラからとられたと考えられてる」

 もちろん、そんな名前の思想家がいたなんて、今初めて知った。

「ところで、カンパネッラというイタリア語には、本来の意味がある。それは、小さな鐘とか鈴という意味なんだ」

「鈴!? じゃあ、美鈴さんは……」

「そう。美鈴さんは、自分と同じ“鈴”という名前をもつ人物、カムパネルラをさがしてごらん、と言いたかったんだ。それは、つまり『銀河鉄道の夜』をさがせ、ということさ」

 ミュウの推理に感嘆しつつも、わたしの頭は、まだ疑問符の嵐だ。

「『銀河鉄道の夜』は無国籍――あえて言えば、賢治にとっての心願の国イーハトーブが舞台の物語だけど、登場人物の名前をはじめ、イタリア的なイメージがちりばめられてる。ぼくは、美鈴さんにとってのイタリアの原点も、ここにあるんじゃないか、と考えてるんだ」

「でも、“わたしの名前をさがしてごらん”なんてメッセージだけじゃ、ふつうは、そんな簡単に『銀河鉄道の夜』にたどりつけないよ」

「確かにちょっと、それだけじゃ難易度が高すぎだね。でも、ヒントはちゃんとあったんだよ」

「ヒント? どこに?」

「そりゃあ、もちろん、きみの話の中さ」

 そう言われても、わたしには、まるでぴんとこない。『銀河鉄道の夜』のことなんて、ひとこともミュウに話した覚えがなかった。

「狐につままれたような顔をしているね。じゃあ、説明するよ」

 ミュウが、苦笑をおさえるように言った。たぶん、わたしは、相当に間抜けな顔をしていたのだと思う。

「きみたちの伊豆旅行の最後の日、稲取のアニマルキングダムにいったね」

「うん」

「そのとき、美鈴さんのリクエストで、おもちゃのような汽車に乗った」

 そうだった。わたしは、美鈴さんが、なぜその汽車に乗りたがったのか、結局のところよくわからなかった。 

「ぼくも、その点がちょっと引っかかってね。今日、ここにくる前、本屋に立ち寄ってさ、伊豆関連のガイドブックをあれこれ漁(あさ)ってみたんだ。それで、“ああ、そうなのか”と思った。その汽車のアトラクションはね、“銀河鉄道”という名称だったんだ。それが、他愛のないアトラクションに、美鈴さんがこだわった理由なんだよ」

「あの汽車が、銀河鉄道……」

 まさかあのかわいらしい汽車に、そんな名前がついていたなんて……。そういえば、わたし、アトラクションの名前なんて、まるで気にしてなかった。

「それから、きみたちは、伊豆高原へいって散策をしたね」

「あ……うん」

「そのとき、美鈴さんは、こう言ったんだね?『ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ』」

「うん、そうだよ」と、わたしは、うなずいた。

「ここを読んでごらん」

 ミュウは、わたしの膝の上にあった『銀河鉄道の夜』のページを繰った。

「さあ、ここだよ」

 言われるまま、ミュウの指がさす行を読んでみる。

「『ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ』……ええ!?」

「わかったかい?」とわたしの顔をのぞき見るミュウ。「そう、美鈴さんは、そっくりそのまま『銀河鉄道の夜』の中のカムパネルラの言葉をつぶやいていたんだ」

 あまりの驚きで、とっさに声が出ない。

「どうしたの?」

「ちょっと……びっくりしすぎて……」

「ぼく的には、きみの正確な記憶再現力にあらためて驚いているけどね」

「ただ、暗記が得意っていうだけだよ」

「自分の力を、もっと客観的に評価したほうがいいな、きみは。まあ、いい。美鈴さんが、そう言ったあとで、きみのお母さんは『もっと奥にくるみの実をさがしにいこうか』と言った。まちがってないね?」

「うん、まちがいないよ」

「じゃあ、今度は、このあたりを読んでごらん」

 ミュウが開いたページを、ゆっくり、確かめるように読む。

「『くるみの実だよ。そら、沢山(たくさん)ある。流れてきたんじゃない』……これって……」

「ご覧のとおりさ。白鳥停車場に降り立ったカムパネルラとジョバンニは、プリオシン海岸というところで、黒いくるみの実について会話を交わす。きみのお母さんは、その会話を念頭に置いて、“くるみの実をさがしにいこうか”と言ったんだ。それは、つまり――」

「お母さんには、わかってた……」

 ミュウが、うなずく。

「そういうことだね。お母さんには、美鈴さんのつぶやきが、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラの言葉であることがわかってた。たぶん、アニマルキングダムのアトラクション名が“銀河鉄道”だったことにも、気づいていたと思う。だからお母さんも、『銀河鉄道の夜』から“くるみの実”という言葉を引いて、それをさがしにいこう、と言ったのさ。それは、“ちゃんとわかっているよ”という、お母さんから美鈴さんへのメッセージでもあったんだ」

「それって……『銀河鉄道の夜』が、ふたりにとって、共通の“大切なもの”だった、っていうことだよね」

「うん。そうだと思う。あの日、きみのお母さんと美鈴さんは、『銀河鉄道の夜』を通じて、同じひとつの想いを確かめあってたんだよ」

 それから、ミュウは、開いた本の一節を読みあげた。

「ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走っていくのでした……」

 静かに本を閉じて、ミュウはわたしの顔を見た。

「あの日、ふたりは、こんなふうに、銀河鉄道にゆられていっしょに旅をする、ジョバンニとカムパネルラだったんだ」

 銀河鉄道にゆられて旅をする、ジョバンニとカムパネルラ……。

 わたしは、おもちゃのような汽車の上で、子どもみたいにはしゃいでいた美鈴さんと、その美鈴さんを見守るように、ずっと微笑んでいた母を思い出していた……。


「そういえば、下田の水族館で、きみがラッコに大喜びしたとき、美鈴さんは『あ、ラッコの毛皮』って言って、あわてて口をおさえたんだよね」

「うん、確かにそう言ったけど……」

「ジョバンニの父親は、長い間音信が途絶えていて、ラッコの密猟で監獄に入っているとか、悪い噂をたてられてる。そのせいで、級友のからかいを受けたりするんだ。ラッコを見た美鈴さんの脳裏をそのことがかすめ、それをとっさに冗談っぽく、『ラッコの毛皮』というつぶやきにしたんだろうね。でも、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラは、けっして父親のことでジョバンニをからかったりしない、ただひとりの少年なんだ。だから、美鈴さんは、あわてて口をおさえた」

 だから、あのとき美鈴さんは、しょぼんとしてしまったんだ……。

「それから――美鈴さんが、旅行のあと、音信を絶ってから一ヶ月ぶりにきみの家にやってきたとき、美鈴さんは、きみのお母さんに『よう、虫めがねくん、おはよう』と声をかけたね」

「え? じゃあ、それも――」

「『銀河鉄道の夜』の中のセリフさ。ジョバンニは、家計を助けるために活版所で活字拾いの仕事をしてる。『よう、虫めがねくん、おはよう』というのは、活版所でジョバンニが、からかいぎみにかけられる言葉なんだ。美鈴さんが、ふざけぎみにこの言葉をお母さんへのあいさつにしたのは、“これは、あの旅の続きだよ”ってことを、最初に告げたかったからじゃないかと思う」

 あのとき、お母さんは、そんな美鈴さんの思いをすべて受けとめ、「おかえりなさい」という言葉を返した。そんなふうに、ずっと、ふたりの心は通じあっていた。

「ねえ、こういうの……なんていうんだっけ。言葉にしなくても、心と心でわかりあっちゃう」

 わたしの問いかけに、ミュウが即答する。

「精神感応」

 え……そうだっけ。なんとなくちがうような……。

「――でなければ、以心伝心」

「そうそう、その以心伝心。それってさ、なんだか、ちょっとずるいよね」

「どうして?」

「だって、要はこの場合、わたしひとり、のけ者にされてた、ってことだもん」

「しかたないだろう? 美鈴さんとお母さんの友情は、ふたりだけのものだ」

「そんなの、わかってる」

 わたしが入っていけない世界で、お母さんと美鈴さんは、強い絆を結んできた。それが、いやなんじゃない。逆に、すごくうれしくて、うらやましいんだ。

「それに――ミュウは、わたしの話を聞いただけで、ちゃんと『銀河鉄道の夜』にたどりついた」

 なにもわかってなかったのは、結局、わたしがバカだったせい。

「きみの話を聞いたときから、ぼくの中には、美鈴さんとお母さんを結ぶ『銀河鉄道の夜』のイメージが生まれてたんだ。だから、“わたしをさがしてごらん”という美鈴さんのメッセージを見たとき、その“わたし”が、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラをさすことは、なかば確信になっていた。あとは、この家で『銀河鉄道の夜』を見つければいい。それだけだった」

 ミュウの行動にまるで迷いがなかったのは、その確信があったからこそ。

「でも、この部屋で首をひねってたのは、どうして?」

「ああ、それはね――」

 ミュウは、ポリポリと鼻の頭をかいた。

「ここまでのことを考えても、美鈴さんが、ぼくたちがさがしにくいようなところに本を隠す、そういういじわるをするとは思えなかったんだ。たとえば、衣類ケースの奥とか、ぜんぶ荷物を引っくりかえさなきゃいけないような隠し方は、ぜったいないと思ってた。同じ理屈でいけば、この部屋以外の別の場所にこっそり隠してる、なんてこともありえない。正直に言うとぼくは、盲点トリックの王道を予想してた。本棚に、何食わぬ顔で当たり前に置いてあるってやつさ。つまりは、高をくくってたんだ。ところが、本棚や、ぱっと目につく場所を見ても、それらしいものはない。まあ、いきなり出鼻をくじかれたってわけなんだよ」

 そうか……ミュウは、あのとき、そんなにたくさんのことを考えてたんだ。

「結局、ぼくは、肝心なことを忘れていた」

「肝心なこと?」

「これが、きみに向けたメッセージだった、ということだよ」

 あ……わたし自身、ミュウのその言葉に虚を突かれる思いがした。

「ぼくも、きみから“がらくたボックス”の話は聞いていた。でも、今回、うかつにもそこに考えが及ばなかった。『銀河鉄道の夜』は、この部屋のわかりやすい場所にある、という思いこみに取りつかれていたからだ。でも、美鈴さんは、きみならきっと“がらくたボックス”の存在に思いいたってくれるにちがいない――そう考えてた。だから、ちょっとだけいたずら心を起こして、すぐにはそれとわからない場所、けれど、きみが必ず気づいてくれるはずの場所に “がらくたボックス”を隠した。そして――きみは、見事それに応えたんだ」

「結局、わたしがしたことって、その……“がらくたボックス”の場所に気づいた、っていう、それだけなんだけど……」

「それこそが、一番大事なことじゃないか」

「そうなの……かな」

「そうだよ。ぼくが言うんだから、まちがいない」

 なんだか、変な自信の示し方……でも、まあ、いいか。

 そう、ミュウが言うのなら、まちがいない。

「さて、と」

 ミュウが、畳に手をついて立ちあがりかける。

「え? どうしたの?」

「ぼくにできるサポートは、たぶんここまでだ。クエスト完了だよ」

「うそ……帰っちゃうってこと?」

「だって、ぼくはもう、この場に用なしの人間だからね。退散あるのみだよ」

「そんなことない! いっしょにいて!」

 ミュウは、やれやれ、というように、頭に手をやった。

「まさか、ひとりじゃ封筒を開けられない、なんてことはないよね?」

「でも……ここで、いっしょに見てほしい」

「ねえ、その封筒に入っているのは、今度こそまちがいなく、美鈴さんがきみに向けて遺した言葉なんだよ。クチーナ紫藤にあった伝言とはちがうんだ。赤の他人が、見ていいものじゃない」

「赤の他人じゃないよ!」

 わたしを見るミュウの目が、大きく見開かれた。

「ごめん……大きな声を出して」

「別にあやまらなくていいよ」

「うん……ごめん」

「ほら、また」と、ミュウが笑った。

「大事なものだから、わたし、深雪にいてほしい」

「じゃあ……ここにいればいいのかい?」

「……うん」

「やれやれ、困ったバンビーノだね」

 ふっと息をついて、ミュウが、もう一度腰をおろす。

「もう少しだけ、きみのわがままにつきあうよ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 わたしのわがまま、か……。ほんとに、そのとおりだ。でも、ミュウ、わたしは、こんなわがままを、あなた以外の人に言ったりしないよ。

 深く息を吐いて、わたし宛の封筒を見つめる。

 封を開くと、クチーナ紫藤で見たのと同じ、青い便箋がのぞいた。

 美鈴さん、これから会いにいくよ。

 わたしは、取りだした便箋を、ゆっくりと目の前に広げた。

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