第三章 花はどこへいった Ⅷ

 クチーナ紫藤を出たのは、三時ちょっと前だった。

 そこから、わたしの家に向かう間、ほとんどわたしが、どうということもない話をしゃべり続け、ミュウはそれを、ただ黙って聞いていた。

 普段、友だちと会話するときでも、こんなにおしゃべりになったことはない。どちらかといえば、わたしは、相槌じょうずの聞き役だった。

 もしかしたら、ミュウは、わたしのことを“なんてよくしゃべる子なんだろう”とあきれているかもしれない。それでも、わたしは、おしゃべりをとめられなかった。言葉をとめてしまったとたん、次々にこみあげてくる思いをおさえることができなくなりそうで、自分でも、どうしたらいいかわからなかったのだ。

 すずしろ台駅までの電車は、意外なほど混んでいて、わたしは、少しだけほっとした。人混みの中の無関心は、なんとなくわたしを安心させてくれる。

 そういえば、ちっちゃなころ、人混みという言葉を“人ゴミ”だと勘ちがいしていて、「ひどい言葉だなあ」なんて、腹を立ててたっけ……。

 そんなことにばかり思いをめぐらせては、とりとめもなくおしゃべりを続ける。

 そのそばで、ドアに寄りそうように立ったミュウは、ときおりうなずきながら、窓を流れていく街の景色を静かに眺めていた。


 ようやく、わたしの心が落ちつきを取りもどしたのは、すずしろ台駅で電車を降りて十五分ほど歩き、通りから入った道の先に、わが家が見えたときだった。

 わたしは、足をとめ、「ごめんね」と言った。

 ミュウが、不思議そうな顔でわたしを見あげ、「なんのこと?」とたずねる。

「だってわたし、ひとりでずっとしゃべり続けて……きっと、あきれたでしょ?」

「いや、そうでもないよ。もしきみが、相手もいないのにしゃべり続けていたのだとしたら、ちょっとくらいはあきれたかもしれないけど。でも、そんなことはないだろ?」

 その言葉に、わたしは、はっと胸を突かれた。

「こうしてふたりで歩くと楽しい。昨日そう言ったのはきみだし、ぼくも同意したはずだよ。それとも、実は、あの言葉はうそでした、とでもいうのかい?」

 わたしは、「そんなことないよ!」と首を振った。

 うそなんかのわけない。わたしがおしゃべりを続けていたのは、ミュウがいたから。ミュウという、わたしの話を聞いてくれる人が、ずっとそばにいてくれたから。

そして、それが、とてもうれしかったから。

 そう、わたしは、無関心という孤独の中にひとりぼっちでいたわけじゃなかった――そんな、当たり前のことにも気づかず、勝手に壁をつくって、自分は孤独なんだって思いこんでた。

「ありがと、深雪」

「ん? ごめんの次は、ありがとう、かい? さっぱりわからないな。それこそ、きみに感謝されるようなことを、ぼくがいつどこでしたのか、ちゃんと教えてもらえるとうれしいね」

「だ~め、教えない」

 わたしは、ぺろっと舌を出し、わが家の玄関に向かって走りだした。背中で、ミュウが「やれやれ……」とため息まじりにつぶやいているのが聞こえる。

 ははは……ほんと、よくわからないグダグダな子でごめん。

 でもね、ほんとにわたし、感謝してるんだよ。ありがとね、ミュウ。


「ここが、わたしの家。ボロ家でびっくりしたでしょ?」

「そんなことはない」と首を振ってから、ミュウは「むしろ、どこか懐かしさを誘う質朴なたたずまいと言ったほうがいいね」とつぶやいた。

 しつぼく? よくわからないけど、ミュウが言うのだから、きっと悪い意味ではないのだろう──そう勝手に納得していると、ミュウがクスッと笑った。

「それより、ボロ家って言葉、今日日(きょうび)なかなか聞かないよね」

「どうせわたしは、イマドキのギャルじゃないですよお」と舌を出したあとで、そういえば、いつか美鈴さんにも同じように口答えしたっけ……と、思い出す。

 それと同時に、心の中で「さっきはひどいこと言ってごめんなさい……」と大家さんに手を合わせた。

 ミュウが、そんなわたしを見て、もう一度クスッと笑う。

「安心していいよ。ほくだってイマドキのギャルじゃないからね」

 わたしも「うん、安心した」と笑った。

 あらためてながめるわが家は、ボロ家といわずとも、やっぱり古い。

 なにしろここは、わたしが生まれる前、父と母が結婚したときから住まわせてもらっている、古い借家だ。ほんとうは、父が死んだとき、ふたりで住むには広すぎるこの家を引きはらって、小さなアパートに移るつもりだった――母が、わたしにそう打ちあけたことがある。

 そうしなかった理由は、大家さんがとてもいい人で、家賃も格安に据え置いてくれたことがひとつ。そして、もうひとつの理由は、美鈴さんがこの家に通ってくるようになったこと。母は、そのときこう言った。「あの子が帰ってくる家は、やっぱりここって気がするの」と。

 玄関の引き戸を開け、ミュウを中に通す。

「さ、あがって」

 ミュウは、「おじゃまします」と頭をさげ、脱いだ靴をくるりと返してから土間にそろえた。なんだか、妙なところできちんとしてる子だ。

 廊下の奥にある、美鈴さんの部屋に向かって歩きながら、もしかしたら、友だちをこの家にあげたのって、小学校を卒業してからはミュウが初めてかもしれない、と思った。

 美鈴さんが使っていた部屋は、廊下の突きあたり、左側の和室だ。

 部屋を見わたしたミュウは、ふうん、と息をつき、「美鈴さんをさがせ、か。なんだか、ウォーリーをさがせ、みたいだな」と、例によって、わかるようでわからないことを言った。

「きれいに、手入れされているんだね」

 ミュウの言葉に、わたしは、「うん」とうなずく。

 美鈴さんが亡くなってから、母とわたしが、交互にこの部屋を掃き清めることが、決まりごとのようになっていた。ふたりで話して決めたとか、そういうのではなく、気がつくと自然にそうなっていた。そうしたい、と思う気持ちが、ふたりともいっしょだった、ということだ。

「でも、美鈴さんが遺していったものには、いっさい手を触れていないよ」

 四十九日があけるまではこのまま、と母は言うけれど、ではそのあと、どうするかなんてことは、実のところ、ふたりともまだなにも考えていなかった。いや、まだ考えたくなかった、というのが正しい。

 美鈴さんがこの家でわたしたちと暮らしたのは、半年にも満たなかったけれど、実際には、もっとずっと前から、ここは美鈴さんのための部屋になっていた。あの小学二年の夏から数えれば、八年近い。ここは、それだけの時間が刻まれた、美鈴さんの場所だ。

 それを考えると、美鈴さんが持ちこんだ荷物は、驚くほど少なかった。

 衣類ケースなど大きな荷物のほとんどは、ここでいっしょに暮らすことを決めてから持ってきたものだ。その前から、美鈴さんは、本だのラジオだの時計だの、ちょこちょこと自分の物を持ちこんでは、この部屋に置いていたけれど、あらためて見ると、その数はけっして多くない。

 もっと、わが物顔で、美鈴さんの荷物がこの部屋を占領しているイメージがあったのに……。

 確かに、美鈴さんは「あたいは、身軽を信条にしてる女なんだよ」と、日ごろから言っていた。

「ケ・セラ・セラの根なし草だからね。どこでくたばってもいいように、よけいなものは持たないで生きてるのさ」

 そんなことを美鈴さんが言ったのは、病気のことを聞かされるずっと前だったけれど……。

 美鈴さんが「モスボックス」と呼んでいた衣類ケース、古い文庫本が並んだ本棚、小さな化粧台……四畳半の一角を占めるだけの、美鈴さんの愛用品を見つめながら、わたしは、ううん、そうじゃない、と思った。

 この部屋が、がらんとしているのは、荷物が少ないからだけじゃない。

 美鈴さんがいないからだ。

 父の背中がこの家から消えたときも、そうだった。いるべき人がいないことが、こんなにも、この部屋をがらんと寂しくさせる。

 そして、父の背中と美鈴さんの背中がまるでちがうように、その人が今ここにいない寂しさも、ひとつひとつかたちがちがう。だから、その寂しさや痛みを、別のなにかで埋めることなんてできないのだ。

「ふうん……」

 不意にミュウの声がして、わたしは、われに帰った。

 ふと見ると、美鈴さんの家財を見わたしながら、ミュウが首をひねっている。

「どうしたの? なにか、気になる?」

「うん……ちょっとね」

「美鈴さんのものに手をつけるの、わたしにだって、ためらいはあるよ。でも、もし、それでなにかわかるのなら、そうすべきだと思う。母には、あとでわたしがちゃんと話すから……」

「いや、そうじゃないんだ。美鈴さんの遺していった品物は、これだけかい?」

「そうだけど……」

 わたしは、念のために押入れを開けた。でも、そこにも布団類以外のものはなにもない。

「どういうことかな……」ミュウは、まだ首をひねっている。「ほんとうに、これだけ?」

「うん。美鈴さん、あまりよけいなものは持たない人だったから。そのくせ、がらくたみたいなものは、捨てられずにずっと大事にしているような人だったけど」

 そこまで言って、わたしは、はっとした。

「そうだ、がらくたボックス……」

「がらくたボックス?」

「うん」と、わたしはうなずく。この部屋にあったはずのがらくたボックス。いったい今、どこにあるんだろう。美鈴さんが処分してしまったのだろうか。

 そんなはずない、と思った。だって、美鈴さんは、言ってたもの。“がらくたっていうのは、宝物のことだと思うんだ。大切だから、捨てられないんだよ”って。

 そう、大切な宝物を簡単に捨てたりするわけない。

 がらくたボックスは、どこかにある。でも、押入れじゃない。だったら、どこ? この部屋以外の場所? 納戸、階段下……すぐには、見当がつかない。

 わたしは、あ、と言って、顔を上に向けた。

「天袋――」

 がらくたボックスは、きっとこの部屋にある。だとすれば、残る場所は、そこしかない。わたしは、台所に走り踏み台をとってきた。

 ミュウは、お手並み拝見、とでもいうように、わたしの行動を見守っている。

 踏み台に乗ると、天袋のふすまに楽々手が届いた。取っ手に指をかけ、力をこめて引くと、ふすまはあっけなく開いた。中をのぞきこむわたしに、ミュウが下から声をかける。

「どうだい? さがしものは、あったかい」

「うん、あった」

 まちがいない。いつか、美鈴さんに見せてもらった、がらくたボックス。わたしは、箱に両手をかけ、そろそろと手前に引きだした。けっこう重さがある。

「深雪、下で受けとって」

「ラジャー」と言いながら、ミュウが両手を差しだす。

「重いから気をつけてね」

 踏み台の上で重心をとりながら、なんとか箱をかかえあげ、ミュウに手わたした。

「うわ、ほんとに重いな」

 ミュウが、受けとった箱を、ゆっくりと畳の上に置く。

「なるほど、これが、がらくたボックスか」

「うん。美鈴さんの宝箱」

 カセットテープ、昔のマスコット、旅先のしおり、映画のチラシ、チケットの半券、古いカレンダー――箱の中には、そんなものが、雑然と詰めこまれていた。たぶん、その一つひとつに、美鈴さんの思い出が刻まれているのだろう。いわば、美鈴さんの分身たち。

 ミュウは、興味深そうに、品物を取りだしながら、箱の中を確かめている。

「へえ……『けんかえれじい』に『幕末太陽傳』のビデオか。お、『馬鹿が戦車でやって来る』もある。うん? こっちは『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、『ルパン三世念力珍作戦』それから『刑事珍道中(デカちんどうちゅう)』……美鈴さん、趣味が広すぎるな。う……なぜ、こんなところにニポポ人形が……。おっと! この本は『けんはへっちゃら』じゃないか」

「それ、なに?」

「ぼくの大好きな絵本だよ。へえ、美鈴さんも、この本が好きだったんだ」

 そんなふうに、品物を手にとるたび、ミュウの目が輝きを増していった。……どうやら、彼女も、がらくた=宝物を愛してやまない仲間のひとりだったらしい。

 不意に、ミュウの手がとまる。箱に注がれた目が、ひときわ、ぱっと輝いたのがわかった。

「お待たせ。最後のさがしもの、見つけたよ」

 ミュウは、表紙がすりきれた一冊の本を箱から取りだした。

「とりあえず、チェックメイトだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る