第三章 花はどこへいった Ⅵ

 そして、翌日――土曜。

 母は、仕事で朝から出ていた。わたしは、母がつくりおいていった食事を朝食兼昼食にして家を出た。時計は、十一時半をまわったところだった。

 制服にしようか、と少し悩んで、結局、私服にした。ギンガムのコットンシャツにサスペンダー付きのカーゴパンツ。女の子っぽいスタイルが苦手なわたしは、出かけようとすると、たいがいはこんな服装になってしまう。

 休日にこの格好で学校にいくのって、ちょっと不思議な気持ちがしたけれど、その不思議さが、なんとなく楽しかった。

 学校についたのは、ちょうど一時間後。知りあいに会ってしまったときは、どう言いわけしようかと思ったけれど、幸い、だれにも会うことがなく、「旧棟」にたどりつけた。

 ヨウム室の鍵は開いていた。中に入ると、部屋にはもう紅茶のいい香りが満ちていて、ミュウが、昨日と同じように本を読み、昨日と同じようにくつろいでいた。ミュウは、制服姿だった。

「もしかして、朝からいたの?」

「まさか。ぼくもそこまで勤勉じゃない。きたのは、十二時ちょい過ぎだよ」

 勤勉というのなら、まず授業にちゃんと出るべきじゃないのかな、と、よけいなことを、つい思ってしまうわたしだった。

「また、むずかしそうな本読んでるね」

「『トリストラム・シャンディの生涯と意見』。作者は、ローレンス・スターン。なかなか手ごわいけど、実にユカイな小説だ。ずいぶん読み進んだのに、まだ主人公が生まれない」

「そ、そうなの」

 とりあえず、わたしに太刀打ちできるような本ではなさそうだ……。

「じゃあ、少し落ちついたら、出発しようか」

「うん」

 ところが、ミュウが紅茶を淹れなおしたり、とりとめもない話に花を咲かせたりしているうちに、気がつくと、時計の針は一時半をまわっていた。

 これでは、なんのために早めにきたのかわからない。

「いけない! もういかなきゃ、深雪」

「おっと、そうしよう」

 そう言いながら、ミュウは、それほどあわてる様子もなく、ゆっくりと紅茶を飲みほした。ようやく立ちあがったミュウは、壁にかけてあった帽子を取ってかぶった。古そうな、灰色がかったキャスケット帽だ。

 セーラー服にキャスケット。不思議なとりあわせなのに、ミュウにはそれが、びっくりするくらいよく似あった。かわいくて、かっこいい。そんな感じだ。

「すっごくいいね、その帽子」

「出かけるときは、この帽子をかぶるって決めてるんだ。儀式みたいなものさ」

「もしかして、それも、用務員さんから?」

「ああ、おいちゃんにねだって、無理やりもらった。形見にくれって」

「え……形見って、用務員さん、亡くなったわけじゃ……」

「生前贈与というやつだ。気にしなくていい」

 あはは……この子の言うことは、どこからどこまでが冗談なのか、ときどきわからなくなる。

 ミュウは、キャスケットのつばに手をやり、あらためて目深(まぶか)にかぶりなおした。

「さて、と。じゃあ、いこうか。夢の花、アカシヤをさがしに」

「うん……ああ、ちょっとドキドキしてきたかも」

「安心していいよ。骨は、ぼくが拾う」

「え? それって……どういう意味?」

「気にしないでいい。ブラック・ジョークだから」

 あの……自分でブラック・ジョークとか言いますか、ふつう。

 とにもかくにも、わたしたちは、美鈴さんに託されたクエストに応えるべく、めざすべき場所――クチーナ紫藤(しとう)に向かって出発したのだった。


 一人坂駅にふたりがついたのは、二時少し過ぎだった。

 同じ市内といっても、わたしの生活圏からは離れているため、この駅で降りるのは、たぶん数年ぶりだ。駅前のペデストリアンデッキに立ったわたしは、その数年で、街がすっかりきれいに変わっていることに驚いた。

 駅から続くメインストリートは、並木道になっている。

 光の季節だ、と思った。石畳になったプロムナードを歩きながら、ついつい、大きく伸びをしてしまう。枝葉をくぐり抜ける五月の陽射しが、とても気持ちいい。見わたした道の両脇には、ファッション関係など、シックな感じのお店が続いていた。

「うわあ、一人坂って、こんなにおしゃれな街になってたんだあ」

「特に駅前は、この何年かの再開発事業で一気に整備が進んだからね」

「そうだったんだ。ぜんぜん知らなかった」

「ところで、あまり、きょろきょろしないほうがいい。まるでおのぼりさんに見えるよ」

「え……」と言葉をのんでしまう。同じ市内に住んでいるのに、おのぼりさんなんて、なんかすごくいやかも。とりあえず、きょろきょろするのは、やめよう。

 それでもやっぱり、わたしは、感嘆の声をあげてしまう。

「すごい……花がきれい」

 並木には、白い房になった花が、今を盛りと咲いていた。

 わたしの少し先を歩いていたミュウが、振りかえって笑った。

「これが、アカシヤだよ」

「え!? そうなの!?」

 びっくりして、その場に立ちどまる。

「正確には、ニセアカシヤ。和名はハリエンジュ。日本でアカシヤの並木といったら、たいがいは、このニセアカシヤを指すんだ」

「ニセアカシヤ……あ、確か、あのハチミツも……」

 ミュウがうなずく。

「よく覚えてたね。そう、ハチミツをとるのも、このニセアカシヤだ」

「わたし、記憶力には自信があるの」

 ささやかでも、自慢できることは、しっかりと自慢しておこう。

「昨日の話を聞いても、きみの記憶力とその再現力は、大したものだよ」

「あ、ありがと」

 ミュウにほめられると、なんだかすごくうれしい。

 わたしは、あらためて花を見あげた。

「そうか。これが、アカシヤの花……」

 まっすぐに続くアカシヤの並木、静かにゆれるたくさんの花が、「さあ、ここを通っておいで」と、わたしたちを導いてくれているような、そんな気がした。

 少し強い風が吹くと、その花びらが舞い散った。まるで雨のように降る花が、緑の風の中で、陽の光を受け、きらきらと輝く。

「アカシヤ・ロードに花吹雪、か」

 ぽつり、とミュウが言う。つられるように、わたしも「ああ」と、声を出していた。

「光の雨……アカシヤの雨だね」

 それを聞いたミュウの口もとから、くすっ、という笑いが漏れた。

「あ……わたし、また変なこと言った?」

「知ってるのかな、と思ってさ。アカシヤの雨って……昔の歌にあるんだけど」

 もちろん、そんな歌のことなんて知らなかった。

「そうなの? ねえ、それ、どんな歌?」

「ううん……まあ、きみが知る必要はないね」

 まるで、子どもは知らなくていい、というような口ぶりだ。

「えー? なに? その、上から目線」

「ぼくは、このとおりのチビだからね。上からものを言ったことなんて、これまで一度もないけど」

 いやいや、そういうことじゃないでしょ。ていうか、もしかして、ミュウって、背が低いことを気にしてるの?

「ただ、この場合は、ぼくのほうが年上だからしかたない。長幼の序だ」

「は? それってずるくない? こういうときだけは年上モードなわけ?」

 昨日は、たった数ヶ月ちがいの同い年だって、自分で言ってたくせに……。

 まあ、見た目や年齢以上に、わたしたち、知識や頭脳の差は歴然としてるから、しかたないのはわかってるけど、それにしたって、ブツブツ……。

 すでにわれ関せず、という顔で歩いていたミュウが、不意に足をとめた。

「――時は今、雨が下知る五月かな」

「……それは、なに?」

「明智光秀が、本能寺の変の前に詠んだという連歌の発句さ」

 レンガのホック? ていうか、明智光秀? 本能寺の変? それって確か、織田信長を相手に謀反を起こして、最後は殺されちゃった人だよね。

「どうしてきみは、こういうときに、そういうことを言うかなあ」

 わたしは、じろりとミュウをにらむ。

「だからさ、目的地についたんだよ。きみがすねている間にね」

「わたし、別にすねてなんか……え?」

 びっくりして、顔を横に向ける。

 目の前には、ブログで読んだとおりの、落ちついた感じの料理店があった。

 レンガ調のシックな外壁。大きめの窓には、蔦を模したロートアイアンの面格子(めんごうし)。そして、鮮やかなステンドグラス風の飾りガラスをはめこんだドアの上には「CUCINA SHITO」の文字があった。

 クチーナ紫藤(しとう)――美鈴さんが、わたしに伝えようとした場所。

 感動もつかの間、わたしは、あれ?と首をかしげた。

 窓のカーテンが、閉じられているのだ。まさか、お休み? 

 あわてて、ドアに目をやったわたしは、呆然とした。そこには「準備中」と書かれたプレートがかけられていたのだ。

 壁に掲げられた案内板を確認する。そこに表示されたお店の営業時間は、ふたつに分かれていた。午前十一時から午後二時、午後五時三十分から午後十時。

 ああ、そうか。こういう本来夜の営業がメインの料理店は、ランチタイムのあと、いったんお店を閉めるんだ。

 どうして、事前に確認しなかったんだろう。いや、それよりも、どうしてヨウム室で、だらだら時間をつぶしてしまったんだろう。予定の時間にちゃんと学校を出ていれば、二時までには、充分間にあったのに……

 いきなり出鼻をくじかれ、わたしは、すっかりしょげてしまった。

「どうしよう……出なおそうか」

 ところが、ミュウの表情には、動揺のかけらもない。

「いいんだよ、これで」

「え?」

 そのあまりの落ちつきに、きょとんとしてしまうわたし。

「ランチタイムなんて、人気の店なら、てんてこ舞いの真っ最中だよ。それこそ、ぼくたちは、はた迷惑なオジャマ虫にしかならない」

「ちゃんとそのことを考えてたの?」

「もちろん」

「でも、じゃあ、わたしたち、どうしたらいいの」

 だって、結局、お店の迷惑にならない時間なんてないことになってしまう。

「当然、こうするのさ」

 ミュウは、ドアノブに手をかけて押した。

「え!? だって、準備中だよ!?」

「準備中だから、いいんだよ」

「そ、そんな……」

 ミュウには、まるで臆するところがない。あわてふためくわたしを尻目に、平然とお店の中に入っていく。

「ちょ、ちょっと! 待ってってば!」

 あたふたとあとに続きながら、わたしは、しがみついてくるとまどいを追い払った。こうなったら、いくっきゃない。あとは野となれ山となれ、だ。


 初めて足を踏み入れたクチーナ紫藤。

 すでに、ランチタイム後の片づけも終えたのか、店内は、ほの暗い照明の下で整然と静まっていた。人の姿はない。店の奥は、たぶん調理場になっているのだろう。ここからは、のぞくことができなかった。

 ミュウが、「こんにちは!」と声をかける。

 それにしても、この子は、肝がすわりすぎだと思う……。

 とたん、奥からすっと人影が現れ、わたしたちにむかって頭をさげた。

 清潔そうな、真っ白い調理服に身をつつんだ女性だった。すらりと背が高く、短めの髪をオールバック風に撫でつけている。きりっとした顔立ちで、瞬間的に、タカラヅカの男性役を連想してしまった。

「申しわけございません、お客様。ただいまの時間、当店は――」

 その刹那、わたしは小さくなって、ミュウの背中に隠れたくなった。すでに、さっきの覚悟は吹き飛びかけている。ああ……もう、しっかりしなさい、小羽子!

 顔をあげた女性が、「あら?」と、少し驚いたような声を出し、それから、きりりとした顔を、ふっとやわらげた。

「ずいぶん、かわいいお客さまね」

「実は、ぼくたち――」

 説明をはじめようとするミュウの一歩前に、わたしは、すっと立った。

「あの……お休みの時間に突然やってきて、すみません。わたしたち、ある人の残したメッセージを追っていて、それで、このお店にたどりついたんです」

 女の人は、不思議そうな顔で、じっとわたしを見ている。意味不明の説明であることは、自分でも承知していた。それでも、なんとかわかってもらうしかない。

「あ、そうだ」

 わたしは、肩にかけたキャンバス地のトートバッグから、一枚の写真をとりだした。去年の旅行のとき、伊豆高原で撮った写真――近くにいた人にたのんで撮ってもらった、三人いっしょの写真だ。

 美鈴さんは、ピースサインを出しながら、母の肩に頭をあずけている。

「この女の人、このお店にきたことがなかったでしょうか」

 美鈴さんを指でさしながらたずねる。女の人の表情が変わった。

「ああ……あなたたち、おねえさんの知りあいなの」

「おねえさん?」

 女の人の口もとが、ほころんだ。

「自己紹介が遅れたわね。わたしは、この店のオーナーシェフ、紫藤(しとう)花散里(かざり)。よろしくね」

 わたしは、大あわてで頭をさげた。

「こちらこそ、名乗りもしないですみません! わたし、本多小羽子といいます。それから――」

「天坂深雪です」

 ミュウが、帽子をとってペコリとおじぎをする。

「あの、わたしたち――」

「美咲ノ杜高校の生徒、ね」

「え? どうして……」

「おどろくわたしの顔を見て、紫藤さんが苦笑した。

「どうして、って、その制服を見ればわかるわよ」

「あ……そうか……そうですね」

 確かに、地元の人なら、ミュウの制服を見ただけで、わたしたちの素性など一目瞭然だ。

「それで……たずねたいのは、この写真の女性のことだったわね」

「あ、はい」

「わたしがこの店をここにオープンさせたのは、五年前。彼女には、そのころから、この店をひいきにしていただいてるわ。ランチだったら、この店で五本の指に入る常連さんよ」

「そんな前から……」

「彼女、イタリアに憧れてる、ってよく言ってた。わたしも、イタリア料理人の端くれだから、そういう人に店を気に入ってもらうのって、すごくうれしいことなのよ。わかるでしょ?」

「はい」

「彼女、クレジットカードとか使わない人だから、ずっと名前がわからなかった。それで、一度だけ『お客様カードをおつくりしますので、失礼ですが、お名前をお伺いさせていただけますか』ってきいたの。彼女がなんて答えたか、わかる?」

 ほとんど答えの予測がついてしまったわたしは、ミュウと顔を見あわせた。ミュウもまた、やれやれ、という顔で笑いをこらえている。

「彼女、こう言ったの。じゃあ、“おねえさん”にしておいて、って」

 ああ……やっぱり。

「もちろん、大事なお客様を、面と向かって“おねえさん”呼ばわりするわけにはいかないわよ。でも、そのときから、わたしたち、この店の人間の間では、彼女の名前は、“おねえさん”ということになったの」

 この店でも美鈴さんは、しっかり美鈴さんだった。

「彼女、この何ヶ月か顔を見せなくなって、どうしたのかな、って気になってたのだけど……」

 言わなきゃいけない。わたしは、決心して、紫藤さんに事実を告げた。

「あの……美鈴さんは……亡くなったんです。一ヶ月前……ずっと病気と闘ってて……」

 それ以上なにも言えなくなって、わたしは黙った。

 訪れた深い静寂――紫藤さんは、中空を見つめて、少しだけ天をあおいだ。

「そうだったの……」

 紫藤さんのまなざしが、ゆっくりと私に向けられる。

「彼女の名前、美鈴さん、っていうのね」

「はい」

「そう……ありがとう。教えてくれて」

「え、あ……はい」

 とっさに言葉が出ず、どぎまぎしてしまう。それでも、このお店にきてよかった、と思った。

「さて、と。それで、あなたたちは、美鈴さんの伝言を追って、ここにきた、ってことね」

「あ、はい」

 わたしは、美鈴さんのメッセージ「クチナシとアカシヤ」をたどってきた、これまでの経緯を簡単に説明した。途中、説明がしどろもどろになりかけると、そのたびにミュウが、横からぽそっとフォローをしてくれた。

「ふうん……」

 話を聞き終えた紫藤さんは、あごに手をあてて考えこんだ。

「すると、残る問題は“アカシヤ”なのね」

「はい、そうです」と、わたしはうなずく。

「アカシヤ……確かに目の前の通りは、アカシヤがシンボルになってるけど……この店は、別にアカシヤを意識してる、ってわけでもないし……」

「そうですか……」

 ここへくれば、魔法のように答えが現れる、なんて、虫のいいことを期待していたわけではないけれど……。

 あらためて、ゆっくりとお店を見わたす。飾らないつくり。ぬくもりのある家具。誠実で優しい(おまけに、かっこいい)オーナーシェフ。美鈴さんがお気に入りにしていた理由が、わかるような気がした。でも、アカシヤは……

 わからなかった。ここまできて、いきどまりなんてことは……

 わたしは、ぶるんと頭を振った。

 そんなこと、あるわけない。だって、ミュウがいるんだもの。

“アカシヤ”の答えは、ちゃんとここで待ってる――ミュウは、そう言った。

 そして、わたしは、そのミュウにゼンプクの信頼を置いたのだ。

 わたしは、そっとミュウを見た。

 ミュウの目が、壁の一点をじっととらえている。 

 え? もしかして――

「……見つけたの?」

「うん、たぶんね」

 うなずいたミュウの、そのまっすぐな視線の先にあるのは、小さな額に入った一枚の絵だった。  

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