第三章 花はどこへいった Ⅴ
それは、美鈴さんから、母と美鈴さんの少女時代について話をきいたころで、わたしは、母にも同じようなことをたずねたのだった。
「お母さんと美鈴さんって、友だちだけど、性格とかまるで反対っぽいよね」
母は、少し考えて、「そうね。でも、性格が似ていないから、それでちょうどいい、っていうのもあるんじゃないかな」と答えた。
「ふうん……そういうものなのかなあ」
そういえば、美鈴さんもそんなこと言ってたような。醤油とみりん、だったっけ……。
「あの子は、あたしにないものをたくさん持ってる。そういう美鈴が、あたしは好きなの」
母は、そこで言葉を切ったあと、おまけを足すように笑った。
「そのぶん、ケンカや言いあいもしょちゅうするけどね」
「ケンカするほど、仲がいい、っていうよね」
「あら、生意気な言葉知ってるのね。でも、まあ、そういうことなのかな」
苦笑した母は、洗濯物をたたむ手をふと休め、「でもね」と言った。
「あたしと美鈴、似てないけど似てる。わたしは、ずっとそう思ってるのよ」
「似てないけど、似てる?」
「そう、たとえば、人との待ちあわせ。あたしは、何時に待ちあわせ、って決めたら、必ず誰よりも先にその場所にいく。理由は簡単よ。誰かを待たせてしまう、っていうのがだめなの。小羽子にもたぶん、そういうところあるからわかるでしょ?」
「あ、うん」
「別に、自分が遅れたわけじゃなくても、待ちあわせ場所に、誰かが先にきてたりすると、ああ、しまった、っていう気分になっちゃう。だから、必ずその場所に一番にいく。そうすることで、自然に安心できる。人を待つこと自体は、ぜんぜん苦痛じゃないしね」
実際、わたしもそうだった。人混みの無関心の中に、ぽつんとひとりでいる時間も、どちらかというと、わたしは好きなほうだ。
「万事がそんなあたしは、仲間から、ぜったいに約束を破らない、“しっかりしたきまじめな女の子”と思われてた。でも、美鈴はその逆」
「うんうん、わかる」
「約束の時間ぴったりに、待ちあわせ場所にきたことがない。いっつも少し遅れてくるの。それも、“待たせてソーリー、ひげソーリー!”なんて手を振りながら、悪びれずにやってくる。だから、みんな美鈴のことを、“時間にだらしのないルーズな子”だと思ってた。“あんた、いっそのこと、時計の針を十分くらい進めときなさいよ。それでやっと、ちょうどいいんだから”とか、しょっちゅうみんなに言われてたよ。そのたびに、美鈴は、頭をかいて笑ってたけど」
仲間たちの前で、ペロッと舌を出している、おどけ顔の美鈴さんが目に浮かぶ。
「でもね。あたしには、あの子が時間どおりにこない理由が、なんとなくわかったんだ」
「理由?」
「そう。それはね、あたしにとって人を待たせるのが苦手なのと、ちょうど反対。美鈴は、人を待つことが、苦手だったのよ」
「美鈴さんが、お母さんにそう言ったの?」
母は、「一度も、そんなことは言わないよ」と首を振った。
「でも、あたしには、わかったの。どう言ったらいいんだろう……目の前に鏡があるの。その鏡を挟んで、こちら側にわたしのいる場所があって、反対側の同じ場所にあの子が立っている。理屈とかじゃなしに、それがわかったのよ」
淡々と語る母の目は、とても優しく澄んでいた。
わたしは、気づいていた。美鈴さんに振りまわされているときの母が、あきれたり怒ったりしてはいても、いつだって、これと同じ優しい目をしていることに。
「不思議だった……あの子の気持ちを、まるで自分の気持ちみたいに感じたの。この子は、きっとたとえ数分間でも、ひとりぼっちで誰かを待つ時間の寂しさ、心細さに耐えられないんだ、って。それは、あたしが人を待たせることが苦手な気持ちと、まるで逆なのに、でも、どこか似てる……うまく言えないけど、そんな気がした」
今だったら、母が伝えようとしたことがすごくわかる。でも、そのときのわたしは、その言葉のすべてをきちんと受けとめるには、まだちょっと子どもすぎた。
「美鈴は、あたしなんかよりずっと繊細で、寂しがり屋なのよ。繊細だから、ズボラな態度をとる。寂しいから、自由気ままに振るまう。そうしていれば、寂しい想いをしないですむから……。あたしは、ずっとそう思ってきたし、今も思ってる」
繊細だからズボラな態度をとる。寂しいから自由に振るまう、そういうことも、当時のわたしには、よくわからなかった。それでも、母が美鈴さんを見る優しい目の理由が、ほんの少しだけわかった気がした。
「ところがね、あるときから、美鈴が待ちあわせの時間に遅れなくなったの」
「え、そうなんだ……それって、ちょっとびっくり」
「みんなも、天変地異の前触れじゃないかとか、好き勝手なことを言ってからかってたわ。けど、美鈴は、あたしにだけ、こっそり教えてくれた」
「ね、ね、美鈴さん、なんて言ったの?」
「いつだって、春花がちゃんとそこにいてくれることが、わかったからね、って」
そう言ったときの母のうれしそうな顔――それは、あの日からずっと、わたしの中の一番大切な場所で、淡い光を放ち続けている。
「そんなこと言われたら、ますます待ち合わせに遅れていけなくなるね」
わたしが笑うと、母は「そうね、かなりの重責」とうなずいた。「でも、すごくうれしい重責」
それから母は、「似てないけど、似てるって、そういうこと」とつぶやき、くすっと笑った。「小羽子には、まだちょっと難しいかな」
「うん……」
わたしは、母の言葉に素直にうなずくしかなかった。
「じゃあ、きいてもいい? 小羽子は、美鈴のこと、好き?」
「うん、好きだよ」
「小羽子は、どうして美鈴を好きなのか、なんて考えたことある?」
わたしは、「ううん、ない」と首を振った。
「でしょう? でも、それでいいのよ。大事なのは、理由じゃなくて、好きっていう、その気持ちなんだから。どうしてか、なんて、結局あとから考えることだもの。あたしは、美鈴が好き。あたしにとって、それが一番大切なことなの。それは、今も昔もずっと変わらないわ」
そう言ったあとで、母は、はっとしたように、ほんの少し頬を赤らめた。
「いい年して、好き好きって、なんだかはずかしいね」
わたしは、思わず「むふふ」と笑う。
「なによ、変な笑いかたして」
「だって、お母さん、ほんとに美鈴さんのこと、好きなんだなあって」
「ああ、しまったな……お願いだから、美鈴には、このこと話さないでね」
「え? どうして」
「だって、ほら……あの子、すぐ調子に乗るから」
「そうだね。お母さんに抱きついて、そのままダンスおどっちゃうかもね」
「でしょ? だから、ぜったい言っちゃダメよ」
「うん、わかった」
このときの母との約束も、わたしが、ちゃんと守りとおした約束のひとつだ。
相手が母だったから、なんてことはぜんぜんなくて、いつ美鈴さんに言っちゃおうかな、と機会をうかがっているうちにタイミングを逃してしまった、というのが、たぶん正しい。
そして、そのことを、わたしは今でも少し残念に思っていたりする……。
そうか……ミュウも美鈴さんと同じなんだ、とわたしは思った。
「うん、じゃあ、そうしよ」
「そうしてもらえると、助かる」
「考えてみたら、ここから出発したほうが、さあ、冒険に出発するぞ!っていう気分になれるもんね。それにさ――」
「それに?」
「感謝しなきゃいけないのは、わたしだもん。こんなにいろいろ考えてくれて、深雪にここで『あとは、もう、お前だけでがんばれ』って言われたって、わたし、それ以上なにも言えないよ」
「ん? じゃあ、いっしょにいかなくていいのかい」
わたしは、あわてて首を振る。
「もちろん……いってほしい」
「よろしい。まあ、ここで冒険のクルーをはずされて、ルイーダの酒場送りにされたら、ぼくのほうから抗議をするところだけどね」
「ルイーダの酒場? それってなに?」
わたしを見るミュウの顔が、ちょっとだけあきれモードになった。
「驚いたな。きみは、あの国民的RPGを知らないのか」
「RPGって……もしかして、テレビゲーム? ごめん、わたし、ゲームとかぜんぜん知らないんだ」
「でも、ケータイでも、ゲームってできるんだろ?」
ケータイ持ってないのに、そういうことは知ってるのか、この子は……。
「ゲームのアプリとか、けっこうお金かかるんだよ(たぶん)。通信料とかもバカにならないし(たぶん)。家(うち)は貧乏だから、そんなお金、出してもらえないの」
「そうなのか。まあ、忘れてほしい。ほんの少しびっくりしただけだ」
う……そんなにびっくりされるようなことだったのかな。
だいたい、わたしの中では、ミュウとテレビゲームのイメージを結びつけることのほうが、よっぽど難しいんだけど……。ていうか、ミュウに“きみって、時代についていってないね”みたいに言われると、なんかすごくダメージが大きいぞ。
「とにかく、明日にそなえて今日は撤収ね。駅までいっしょに帰ろ」
わたしは、気を取りなおして言った。
「いや、ぼくは片づけがあるから、先に帰っていいよ」
「じゃあ、いっしょに片づけようよ。ふたりで、チャッチャとやっちゃお」
「でも、あまり遅くなると、きみの家族が……」
「家(うち)は、このくらいの時間なら、ちゃんとメール打っとけばだいじょうぶだよ。わたし、けっこう親から信頼されてるし。それより、深雪はどうなの?」
「ぼくのことは、いい。まだ早すぎるくらいだから」
「早すぎる? それって……」
ミュウは、わたしの言葉を無視するように、カップを持って立ちあがった。
「もしかして、いつも、もっと遅い時間までここにいるの?」
「ここにいるときは、ね。ぼくの場合、心配して待っている人間もいないから、別にいいんだ」
「そんな……」
なにをどう言ったらいいのか、とっさに次の言葉を見つけることができなかった。
「とにかく! いっしょに帰ろ! もうわたし、決めたから!」
わたしは、自分のカップを手にとって立ちあがると、流し台に向かうミュウを、ズンズン追い越した。背中に、ミュウの声がかかる。
「きみって、意外に頑固なんだな」
「知らなかった? わたし、頭のかたさなら、だれにも負けないよ。あ、頭突きが得意とか、そういう意味じゃないからね」
カタッという音がして、思わず振りむくと、カップを持ったまま、必死に笑いをこらえているミュウがいた。
「きみは、やっぱりおもしろい」
「ありがと」
わたしは、心をこめて、そう言った。
駅までの帰り道、校門を出てから、十分程度の道のり。やわらかな温もりを帯びた五月の夜は、リンネルのように優しく、わたしたちのいく道を包んでいた。
ミュウは、途中にあったポストに、一通の手紙を投函した。
そうか、ミュウが、わたしを“ポスト”呼ばわりしたのは、この手紙のことがあったからなんだ――それにしても、あのときの会話、今思い出しても、笑っちゃうやりとりだったな。
「なんだい、ひとりでニヤニヤしちゃって、なんか気持ち悪いな」
「え? だってさ、ふたりでこうやって帰るのって、なんか楽しくない?」
ごまかしたわけじゃなく、それは、そのまま、わたしの素直な気持ちだった。
「うん……まあ、そうだね。悪くはない。ポストといっしょにいるよりは、ずっといい」
え? もしか、ポストのこと考えてたって見抜かれたの? 驚いて、足をとめてしまうわたし。いやいや……いくらミュウだって、まさかだよね。
「だって、ポストをからかっても、きみほどおもしろい反応はもらえそうにないし」
ニヤッと笑い、すたすたと先に歩を進めるミュウ。わたしは、あたふたとそのあとを追った。
「ちょっと待って! 今のひどくない?」
ミュウが、立ちどまって振りむく。
「あれ? どうしたのかな、真っ赤な顔して。ポストが歩いてついてきたのかと思ったよ」
「ポストは、歩かないし、しゃべらないもん!」
そのとたん、笑いをこらえるように、ミュウが、手のひらで口をおさえた。
「な、なによ。わたし……そんなに変なこと言った?」
「ああ、ごめん。“そういえば、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに、街角の赤いポストが、突然ごそごそと動き出す場面があったな”なんて、急に思い出しちゃったからさ」
「へ? そ、それって、もしかしてホラーなの?」
そのシーンをリアルに想像してしまったわたしは、ぞくっとして唾を飲んだ。
「うん、しかもね……郵便物の差し入れ口の奥で、きらっと目が光る」
「えええ!?」
「ははは、そうじゃないんだ。そのポストの正体は、なんと、怪人二十面相なんだよ。もっとも、そのお話の二十面相は、おれの変装は、もう二十面相なんてもんじゃない、パワーアップして四十面相になったぞ!って豪語してるんだ。それって、なんだか、かわいくないかい? おまけに、その変装が街角のポストなんだからね。お茶目すぎるよ」
わたし的には、動くポストを「お茶目」と言いきっちゃうミュウのほうが、よっぽどお茶面なんだけど。ていうか、お茶目って言葉、すごく久々に聞いた気が……。
「あ、そうそう、それを追いかける小林少年も、百科事典に変装しちゃったりするんだよ」
「あはは……す、すごいね」
笑って、ミュウの隣を歩きながら、わたしは、胸のうちでつぶやいた。
――うん、やっぱりミュウといっしょにいると、すっごく楽しい。
気がついたときは、もう、駅の明かりがすぐそばに見えていた。
それから、改札を抜けるまでの間は、わたしが一方的に、学校の噂とか、ほとんどどうでもいいことをしゃべり続けた。ミュウは、その間ずっと、愉快そうにそれを聞いていた。
ミュウの乗る電車が先にきて、わたしたちは、手を振って別れた。
人気(ひとけ)のないホームにひとり、ぽつんと残されたわたしは、電車を待ちながら、今別れたばかりのミュウのことばかり、ずっと考えていた。
先輩だけど、同い年の同級生。開かずの旧棟を管理?する、鳶色の瞳の不思議な女の子。ミュウの中には、堅く閉ざされたまま、ノックすることすらまだかなわない扉がたくさんある。
でも、急ぐことはないよ、と、わたしは、自分自身に声をかける。
だれにも見せず、鍵をかけたままの扉なら、わたしの中にだっていっぱいある。
今日ひとつ、開くはずのない扉が開き、すべてがはじまった。この小さなはじまりを大切に育てていこう。少しずつ、たがいの扉を開いていこう。ゆっくり、あせらず、友だちになろう。
煌々と輝く電車のライトが、速度を落としながら近づいてくる。
その光に向かって、祈るように、わたしは目を閉じた。
街角でミュウを待つわたし。いつものポーカーフェイスで、ゆっくり近づいてくるミュウ。それに気づいたわたしは、手を振ってその場を駆けだす――いつか訪れる、そんな未来を、心に思い描きながら。
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