第三章 花はどこへいった Ⅲ
「さっき、ぼくにはわかってるのか、ってきいたよね」
不意の問いかけに 、わたしは、うろたえながら「あ、うん」と答えた。
「結論から言えば、わかっていることもあれば、わからないこともある。今まで、ずっとそれを整理してたんだ」
「さっき言ってた、可能性の取捨選択をしてた、ってこと?」
「そう。きみと話をすることで、頭の中をかなりクリアにできたよ。実際に言葉にして、議論の俎上にのせてみると、これまで見えていなかった問題の所在がはっきりしたり、これかと思ったヒントの先に、それ以上の発展性がないことがわかったりするからね」
「へえ……深雪ってほんとにすごいよ」
ただ右往左往していただけの探偵助手も、そういう意味では、ちゃんと役に立った――ってことでいいのかな?
「じゃあ、整理のついた部分を話そうか」
「うん、お願い」
「そもそも、なぜきみは、メッセージの謎解きをぼくにしてほしい、と思ったんだい?」
「えと……それは……深雪だったら、きっとって……」
「でも、トリガーになったのは、これ、だよね」
ミュウの指が、ハチミツの入ったガラス瓶の縁(ふち)をかちん、とはじいた。
そうだ、アカシヤのハチミツ。わたしの前に、突然現れた「アカシヤ」という符号。
「インスピレーションの出発点には、それなりの必然性があるものなんだ」
「じゃあ、ほんとうにこのハツミツが、美鈴さんのメッセージの鍵だってこと?」
半信半疑でたずねるわたしに、ミュウは、いともあっさり、まあね、と答えた。
「このハチミツ、産地はどこだったか、覚えてるかい」
「ええと……イタリア、だよね」
そう答えてから、わたしは「え?」と間の抜けた声を出してしまった。「じゃあ……」
「そう、肝心なのはそっちのほう。イタリア、だよ。思い出してごらん、きみが話してくれた美鈴さんのこと。あちらこちらに、イタリアが顔を出していたはずだ」
「イタリアへいきたしと思えども……?」
「うん、あのときの美鈴さんは、これ以上ないくらい、正直に自分の気持ちを言葉にしてたんだと思うな。彼女は、ほんとうにイタリアへいきたかったんだ」
そういえば、下田では『ローマの休日』を気どったりしてたっけ。でも、それだってわたしは、美鈴さんのいつものジョークくらいにしか思ってなかった。
「それと、美鈴さんが、ジャングルジムできみに話してくれた『木のぼり男爵』というのは、二十世紀のイタリア文学を代表する作家、イタロ・カルヴィーノの小説なんだ」
「えっ? 童話じゃなかったの?」
いくら児童文学コーナーをさがしても、見つからないはずだ……。
「カルヴィーノは、グリムにならってイタリアの民話収集をしてるし、『木のぼり男爵』をはじめとする一連の寓話的作品も、土俗的な民衆の想像力を借りて、物語の再生と解体をもくろんだ作品といえるからね。それを童話と思ったきみの理解は、むしろ正しいんだよ」
う……また、わたしにわからないこと言ってる……。
「カルヴィーノは、日本でも人気のある作家だし、翻訳もたくさん出てる。でも、美鈴さんが好きだと言った小説が、イタリアの国民的作家の作品だったのは、けっして、たまたまなんかじゃない。そう、まさにそれが〈イタリアの小説〉だったからなんだ」
「う~ん……」
「まだ、ピンとこないって顔してるね」
わたしは、正直に「うん……」とうなずいた。
「ところで、カルヴィーノは、よく“文学の魔術師”なんて呼ばれるけど、イタリア映画にも、“映像の魔術師”の異名をもつ、フェデリコ・フェリーニっていう監督がいるんだ」
「映像の魔術師って……あ」
「思い当たったみたいだね。そう、運動会で、デジカメを片手に美鈴さんが口にした言葉だ。もちろん、美鈴さんは、さりげなくフェリーニを気どってみたんだよ。“魔術師じゃなくて、パパラッチ美鈴のまちがいじゃないの”ときみに言われた美鈴さんが、うれしそうにしてたっていうのが、なによりの証拠さ」
「え? それが、どういう証拠になるの?」
「パパラッチという言葉はね、フェリーニの映画『甘い生活』に出てくるパパラッツォっていうカメラマンの名前に由来してるんだ。きみに“パパラッチ”呼ばわりされた美鈴さんは、フェリーニつながりで、言葉がぴったりかみあったから、思わず喜んだのさ」
「そんなこと、ぜんぜん思ってもいなかった……」
「まさに、そこさ」と言って、ミュウは人さし指を立てた。「きみのすごいところはね、まるで意識しないで、無防備な相手に、突然魔法みたいな切りかえしをしてくるところなんだ。実に恐ろしい子だよ」
恐ろしい子、って……わたし、いったい何者なのよ。
「で、そのあと美鈴さんは、“人生はお祭りだ。いっしょに楽しもう” と言って、きみのお尻をたたいた。これもね、フェリーニの『8 1/2』という映画の中に出てくるセリフなんだ。なんというか、すごく美鈴さんらしい言葉だと思うけどね」
「わたしも、あのときそう思ったよ。美鈴さんらしいなあって……」
「たぶん、これって、美鈴さんにとって、とっておきの言葉だったんじゃないかな。その言葉があの場面で飛び出したのは、きみとの間で、フェリーニつながりのやりとりがあったからこそなんだ。もちろん、それだけじゃないけどね」
「それだけじゃない……って?」
「そんなの、きまってるじゃないか。きみやお母さんと過ごす一日限りのお祭りを、美鈴さんが、なによりも楽しんでいたから――それから、きみにも同じくらい、そのお祭りを楽しんでもらいたかったから、だよ」
ミュウは、知らなかったのかい?と言うようにわたしを見た。
わたしは、テーブルに置いたふたつの手をぎゅっとにぎりしめた。
そう、知らないわけがない――ううん、だれよりも知ってる。美鈴さんが、あの運動会、あの一日を、ほんとうに楽しんでいたことを。そして、心の底から大切な思い出にしようとしていたことを。
「さて……どうだい? 美鈴さんが、イタリア文学のみならず、イタリア映画にも、かなりの思い入れをもった人だってことは、とりあえずわかってもらえたんじゃないかな」
「うん……」
「では、ここからは、ミニ・イタリア語講座だ。美鈴さんは、きみの家を訪ねてきたとき、きみを見て、まずなんて言ったっけか」
「え……だから、『アリ子』だってば」
「いや、その前だよ」
その前……わたしは、うーん、と首をひねった。
「あ……そうだ……たしか、『バンビ』って」
「そう、そのバンビさ。バンビは、イタリア語のバンビーノからきている愛称なんだ。ちなみに、赤ちゃん、っていう意味だよ」
赤ちゃん……そうだったのか――美鈴さんがわたしを見て「バンビ」と言ったのは、ほんとうにそのまんまの意味だったんだ。わかってみると、なんだかおかしくなってくる。
「じゃあ、もうひとつ、簡単な例をあげるよ」
例によって、さくさくと講義を進める先生の口調でミュウが言った。
「美鈴さんは、旅行に出発する日、自分はテンポのいい女だから、晴れ女なんだ、みたいなことを言ってた。そうだね」
「うん、そうだけど」
「“テンポ”という言葉が、もともとはイタリア語だってことは知ってたかい」
「え……そうなの?」
「実はね、“テンポ”というイタリア語には、“天気”という意味もあるんだ」
「あ、そうか! 天気(テンポ)がいい……だから、晴れ女」
ミュウが、「そういうこと」とうなずいた。
「次のは、もう少し頭をひねる必要があるよ。旅行が終わったあと、美鈴さんは、これからカンクローに会いにいく、と言った。その意味がわかるかい」
正直、それについては、美鈴さんを担当していたお医者さんの名前かな、程度のところで、思考がとまったままになっていた。
「人の名前……じゃなかったの?」
「あのとき、美鈴さんは、こうも言わなかったかな。『一気にカニを成敗した勢いで』とか」
確かに、その言葉も奇妙だった。なぜそこでカニが出てくるのか、カンクローとどういう関係があるのか、これも、ずっとわからないままだ。
「きみは、蟹座のことを英語でなんていうか知ってるかい」
「えと……たしか、キャンサーだっけ……」
人並み程度には星占いに興味をもっているわたしは、記憶の底の貧しい知識から、その言葉を引っぱりだした。
「そのキャンサーに当たるイタリア語が、カンクロなんだ」
「え!?」
つまり、美鈴さんは、イタリア語の“カンクロ”を“カンクロー”という人の名前にもじって言った、ということ?
「ところで――英語のキャンサーには、もう一つの意味がある」
ミュウは、そこで言葉をとめた。
――一瞬、わたしの中の時間もとまった。わたしは、その“意味”も知っていた。美鈴さんが、あんなふうになってから、あれこれ本を読み、学んだのだ。
わたしは、ミュウがもう一度口を開く前に、自分からその言葉を口にした。そうしなければならないと思ったから。
「ガン、だよね」
ミュウは、静かにうなずいた。
「イタリア語のカンクロも同じなんだよ。“ガン”という意味をもってる。共通のラテン語に由来する言葉だから、当然といえば当然なんだけど」
じゃあ……あのとき、美鈴さんは――
「ガンの治療のため入院することを、カニに引っかけてしゃれのめしたんだ」
ガンと向き合う決意と不安。それを、精いっぱいのジョークにして、わたしに告げた美鈴さん。なにも知らず、ただ笑っていたわたし。
知らなければそれで済んだことを、あとから知らされるのは、とても残酷だ。
でも、今わたしは、その残酷さと向き合わなければならない。だって、そのために、今ここにいるんだもの――そう自分に言い聞かせる。
「検証を続けようか」
まだ、感傷に沈むときではないよ、と告げるように、ミュウが言った。
その言葉にうながされて、わたしは、テーブルの上に落としていた視線をあげた。
「うん、お願い。続けて」
「美鈴さんが、きみのお母さんを、こっそり“プリ子”と呼んだことがあったね」
思わず自分にあきれる。わたし、そんなことまで話してたんだ……。
考えてみれば、わたしは、この何時間かのうちに、今までだれにも(そう、母にさえ)話さなかったたくさんのことをミュウに打ち明けたのだ。今日初めてあったばかりの、この不思議な女の子に。
それにしても、本人さえ、言ったかどうか覚えていないようなことまで、ミュウはちゃんと記憶してる。しかも、とりとめもない話の中で、なにが大切でなにがそうでないかをちゃんと理解して、求めている以上の答えをくれる。
ほんとうにすごい女の子なんだ、ミュウは……。
「どうしたの。ぼーっとしちゃって。話が唐突すぎたかい?」
わたしは、あたふたしながら首を振った。
「あ、そうじゃないの。えと、母のあだ名の話だよね。プリ子っていう」
まあ、ミュウの話がいつも唐突なのは確かだけど……。
「きみは、その“プリ子”の由来を考えたことがあるかい」
「由来? それは……いつもプリプリしてるから、って美鈴さんが――」
「もちろん、そこに掛けてあるのは確かだけど、それだけじゃない。きみは、ボッティチェッリの『春』という絵を、知ってるだろう?」
「あ、うん。美術の教科書に載ってた」
「絵の原題は『プリマヴェーラ』っていう。もちろん、“春”という意味だ」
確か、教科書にもそう書いてあったと思う。わたしが覚えているのは、“春”といっても、心が浮き立つような絵ではなく、観る人を、森の奥深く引きこんでいくような、神秘的でちょっと怖い絵だな、ということだった。
「あの絵の中心にたたずんでいるのが、美の女神ヴィーナス。その右には、花の神フローラと、西風の神ゼピュロスによってフローラが化身した春の女神プリマヴェーラが描かれている。眠っていた花々が穏やかな西風によって目覚め、やがて春そのものとなる、そういう寓意だね」
春……花……母の名前だ……。
「プリ子の“プリ”は、春――プリマヴェーラの“プリ”だったっていうこと?」
半信半疑で、わたしは、そう言った。
「あのとき、美鈴さんは、きみのお母さんのことをなににたとえたか、覚えてるかい?」
「そういえば、プリマハムみたいって……」
「いや、そのあとに続けて言った言葉さ」
「そのあと?」
あわてて、記憶の中のテープをたぐりよせる。
「ええと……ミニ樽……だったかな」
「そう、それだよ」
なにが“それ”なのか、わたしにはまだ、ミュウの言わんとするところが見えていない。
「イタリア・ルネサンスの画家たちは、本名じゃなく、あだ名がそのまま通り名になってる場合が多い。ボッティチェッリもそうなんだ。ボッティチェッリというのはね、“小さな樽”という意味なんだよ」
さあ、どうだい?という顔で、ミュウがわたしを見た。
「これを、単なる偶然の符合だと思うかい?」
わたしは、黙って首を振る。
「もちろん、ぼくも同意見だ。美鈴さんがきみのお母さんを“プリ子”と呼んだとき、彼女は、ボッティチェッリの『春』、もっとはっきり言えば、その絵に描かれた“春”の女神プリマヴェーラと“花”の神フローラを心に置いていたんだよ」
プリ子――ふざけて口にしただけだと思っていた母のあだ名に、そんな意味がこめられていたなんて。わたしは、感動よりも、驚きよりも、もっともっと深い想いに打たれていた。
わたしたち母子は、これまで美鈴さんから、数えきれないくらいの愛情をもらってきたつもりでいた。でも、彼女がこんなふうにそっと示してきた愛情を、わたしは、いったいどれくらい、気づかないままやりすごしてきてしまったんだろう……。
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