第二章 クチナシとアカシヤ Ⅷ

 それからの一ヶ月半、美鈴さんからの音信は、ほんとうに途絶えた。

 この数年間にも、美鈴さんの足がしばらくわが家から遠のくことはけっこうあった。でも、それが不安を呼ぶなんてことはなかった。

 そういう、なにごとも気分次第なところは、園田美鈴という人の基本属性。いわば、彼女の一部みたいなもの。わたしも母もそう割りきって、それでも、彼女がまたいなくなってしまうなんて、そんなこともうぜったいにないと信じていた。

 わたしたちは、気まぐれ猫のような美鈴さんに日々振りまわされながら、そのすべてを愛していたのだ。それなのに、今度だけは、母もわたしも、心に吹きこんでくる不安という名の風を、どうしても追いはらうことができずにいた。


 季節感のない秋が、いつの間にかわたしたちの町をすり抜け、せわしない冬の足音が、すぐそこまで聞こえていた。

 休日の朝の静けさを破るように、「グッモ~ニィ~ン!」という声が、わが家に響いた。あわてて廊下に走りでると、芥子色(からしいろ)のショートコートに身をつつんだ美鈴さんが見えた。

「なによ、今ごろ――」

 そう言いかけたまま、わたしは、玄関の手前で固まった。

「よう! ひさしぶりだな! アリ子!」

 そう言って笑ったあと、美鈴さんは、わたしの顔を見て「ん? どうした? 鳩が水鉄砲浴びたような顔して」と首をかしげた。

「だって――」

 そこまで言ったきり、わたしが黙ってしまったので、美鈴さんは「だめだろ? 『それを言うなら、鳩が豆鉄砲食らったでしょ』とか、なんとか言ってくれなきゃ」と苦笑いした。

 それから、美鈴さんは、「うん? もしかして、これか?」と、まるで男の子のようなベリーショートになった髪に手をやった。

「どうだい、ちょっといいだろ、これ。セシルカット、っていうやつさ」

「セシルカット?」

「なんだ、イマドキの女子は知らないのか。『悲しみよこんにちは』――と言っても、斉藤由貴じゃないぞ。ジーン・セバーグな。……って、ますますわかんないよな。まあ、あたい的には『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグのほうが好きなんだけどさ」

「だって、わたし――」

 そこまで言って、やっぱりわたしの言葉は、それ以上続かなかった。

 それくらい、ショックだったのだ。本人の口からちゃんと聞いたことはなかったけれど、わたしは、美鈴さんが、長い髪を、すごく自慢にしていることを知っていた。

 まっすぐにおろした髪はもちろん、無造作に編みこんでも、クリップひとつでアップしても、そのどれもがとても自然に似合ってしまうのが、美鈴さんという人だった。そう、わたしは、美鈴さんのきれいな髪が、大好きだったのだ。

 美鈴さんも、わたしの様子を見てとったのだろう。

「そんな驚くほどのことじゃないだろ? ただの気分転換さ。最近じゃこういうの、マニッシュとかいって、別に珍しくもないしさ。長い髪にも、いいかげんうんざりというか、飽きあきしてたしね。切ってみたらさ、超楽チンなんでびっくりしたよ。基本、洗ったまんまほったらかしでオッケーだし。なんでこうしなかったんだろ、っていうくらい、ズボラなあたいにはぴったりさ」

 そんな……そんなはず、ないのに……。

 わたしは、わざと怒ったような声で「それで、一人旅は楽しかった?」とたずねた。

 美鈴さんは、屈託のない顔で「けっこうおもしろかったよ。途中からちょっと飽きたけどな」と笑い、提げていた紙袋を目の前にかかげた。

「ほら、おみやげ。かるかんじゃ」

「かるかん?」

「おうよ。それも、元祖、明石屋のかるかんじゃっど~」

 わたしも、それが、鹿児島名物のお菓子だということくらいは知っていた。

「それじゃ、鹿児島に帰ってたの?」

「ああ、とはいっても、この何日かの間だけどな。たまには、いなかの墓掃除くらいしないと、罰が当たると思ってね」

 わたしの父母にも、美鈴さんにも、もう鹿児島には直接の身寄りがない。

 そういえば、高校を卒業して故郷を飛びだしてから、美鈴さんが鹿児島に帰ったという話は、母からも美鈴さんからも、これまで聞かされたことがなかった。

 とまどいが、不安に向かって加速していく。

「美鈴!」

 玄関に遅れて出てきた母が、声をあげた。

 振りむくと、母の目もまた、メガネの奥で大きく見開かれているのがわかった。

「よう、虫めがねくん、おはよう」

 美鈴さんが、片手をあげ、母に笑いかける。

 あふれかえる感情のすべてを押し隠すようにして、母は、答えた。

「おかえりなさい」

 美鈴さんは、ふっと笑って「ただいま」と答えた。


「ああ、やっぱ、この家は落ちつくな」

 居間のソファに身を投げだして、美鈴さんは、懐かしそうに部屋を見わたした。

「勝手にどっかいっちゃって、連絡もなし。突然もどってきて、くつろぎ放題。いい気なもんね」

 母の辛らつな言葉に、美鈴さんは、肩をすくめ、小さく舌を出した。

「ま、放蕩娘の帰還、みたいなもんかな」

「一応、自覚はあるってことね」

「自覚だけだったら、昔からたっぷりあるよ」

 いつものように頭をかき、いつものように笑う美鈴さん。でも、その笑いに、わたしは、いつもとちがう翳(かげ)りを感じずにはいられない。

「なんだか、ほんとうに、もう何年もこの家から離れてたような気がするな」

「なに? カニ成敗のついでだとかなんとか言ってたけど、竜宮城にでも招待されてたの?」

「まあ、確かに三食昼寝つきではあったけどね。残念ながら、タイやヒラメの舞い踊りはなかったな。考えてみりゃ、タイもヒラメも、宴会であれだけ食いまくっちまったんだから当然か」

 美鈴さんは笑ったが、母は笑わなかった。

 三食昼寝つきってどういうこと? わたしが、そうたずねようとしたとき、母の声が、それをさえぎった。

「病院に入ってたのね」

 美鈴さんが「ああ」とうなずく。

 病院? わたしは、驚きのあまり、母と美鈴さんの顔を交互に見る。それでも、まだ事態が飲みこめない。

「たちの悪いガン細胞の野郎に、骨まで愛されちまった。そんなに愛してくれなんて、言った覚えはまるでないんだけどな」

 ――え? 美鈴さん、今なんて言ったの?

「わかってたのかい?」

 美鈴さんの問いに、母は首を振る。

「病名までは……。ただ、あんたが言いださないのは、それが……重い病気だからなんじゃないか、とは思ってた……」

「そうか……やっぱり、春花の目はごまかせない」

 やわらかな朝の陽射しにつつまれた部屋に、沈黙の時間が流れた。

 一分だったのか、五分だったのか、わからない。ただ、わたしには、それが、このまま永遠に続く時間のように思われた。そして、たぶんわたしは、そうであることを心のどこかで望んでいた。

「それで――」

 母が、決意したように口を開いた。

「お医者さんは、なんて?」

 美鈴さんもまた、決意した人の口調で答えた。

「もって、あと半年らしい」

 ふたたび、深い沈黙が部屋を支配する。

 その場にいた三人の中で、一番混乱していたのは、まちがいなくわたしだろう。

 病院、ガン、医者、あと半年――なによ、それ。いったい、どういうこと?

 まるでわからないよ。なにがどうなってるの? なにひとつ、理解できない。

 わかっていた。理解できないんじゃない。心が、理解を拒絶していたのだ。

「ねえ! いつもの冗談だよね!」

 気がつくと、わたしは叫んでいた。

「どういうオチなわけ? あ! わかった! 友だちのペットとか、そういうのでしょ! ね、あたり? あたりだよね?」

 美鈴さんは、首を振った。

「こういうことで、アリ子に嘘や冗談は言わない、って約束しただろ」

「嘘よ! いつも約束なんか、ろくに守らないくせに!」

 なに言ってるんだろう、わたし。あの日、「ぜったいのぜったい」と言って、美鈴さんに約束を迫ったのは、わたしなのに……。

「ほんとにほんとのことだ」

 わたしの目を見ながら、美鈴さんが言った。

「だれのことでもない。あたい自身のことだ。あたいが、医者から宣告されたんだ。転移も進行しちまってる。それを確かめるための検査と治療の入院だった」

「あと半年だの、どうにもならないだの、そんなのわからないじゃないの!」

 そう叫んだのは、母だった。

「あと数ヶ月とか言われて、何年も長生きした人の話なんて、いくらでもあるじゃない! 今は、医療技術だって発達してるわ! ガンなんてもう、不治の病でもなんでもないんでしょう!」

「その……もう、あっちこっちに転移しちまって、どうにもならないんだよ。あたいは、このとおり、身寄りもない独り身だから、いざというときは、包み隠さずぜんぶ話してくれって、前々から医者には言ってきたんだ」

「身寄りがないってなによ!」

 母が、美鈴さんに詰め寄った。

「いつもいつも、“親友”だの“もっとたよりにしろ”だの、勝手なことばかり言って! こういうときは、自分ひとりになるの? じゃあ、あたしたちは、あんたのなんなのよ!」

 美鈴さんは、その言葉になんの反論もせず、深く頭をたれた。

「ごめん、親友失格だよな」

「なんで、そんなこと言うのよお!」

 母は、美鈴さんの身体にしがみつき、その胸をこぶしで叩き続けた。

「なんで、なんでよぉ!」

「お母さん、やめて!」

 母をなんとか離そうと近づくと、美鈴さんは、わたしを見て首を振った。

 そして、なおも美鈴さんにこぶしをあげ続けながら、彼女の胸に顔をうずめて嗚咽(おえつ)する母を、美鈴さんは、両腕でそっと抱きしめた。

「約束、したじゃない……もう、ひとりで勝手にどこかにいかない、って」

「ああ、ずっと忘れてない」

「なんで……なんでなの……」

 美鈴さんは、泣き続ける母に顔を寄せ、髪に手をやった。

「ごめん……春花……ごめん」

 そんなふたりを、ただ見ているしかない自分の無力が、とても悲しかった。


「うろたえたりして、ごめんなさい」

 なんとか落ちつきを取りもどした母、そしてわたしは、美鈴さんの左右から身を寄せあうように、ひとつのソファに腰をおろした。

「あんたが、なにかずっと隠してるの、ずっと前から気づいてた」

 そうか……母にはわかっていたんだ。でも、わたしは……。

「でも、いつか話せるときがくれば、美鈴はちゃんと話してくれる……そう信じてきたんだよ」

 美鈴さんは、ただ黙って母の言葉を聞いていた。

「なんでよ? なんで言ってくれなかったの? あたしたち、友だちじゃなかったの?」

「友だちだから――」

 ようやく振り絞るように美鈴さんは、言った。

「友だちだから、言えなかった」

 母は、「バカ」と小さくつぶやいた。美鈴さんがそれに「そうだな、バカだ」と答えると、母は、今度は「大バカ」とつぶやいた。すると、美鈴さんもまた「ああ、大バカだ」と笑った。

 今度は、わたしがたずねなければいけない番だ、と思った。

「教えて、美鈴さん。その……病気は、いつごろからなの?」

 美鈴さんが、耳もとの髪をくしゃっとかきあげる。

「最初の病巣が見つかったのは、八年前の夏、かな」

 そんな……八年前の夏って……この家にやってくる一年前じゃない……。

「なんとなくだけど、体調が気になって検診を受けたらさ、結局、精密検査まで受けて、ちゃんとした手術が必要だ、って言われたときは、面食らったね。うそじゃろ、って思ったよ」

 髪に手をやったまま、美鈴さんは、はは、と笑う。

「だけど、それほど深刻に落ちこんだりしたわけでもないんだ。なるようになる、なるようにしかならない。それが、あたい流にいきついた覚悟さ。……まあ、世間一般には、開き直りっていうんだろうけど。これでも、一応は薩摩おごじょの端くれ。なんたって、転んでもただじゃ起きない美鈴さんだからね」

 美鈴さんは、腕まくりするようなポーズをとった。いつか、小さな力こぶを作って見せてくれた美鈴さんを思い出す。

「医者からも、前向きに考えていきましょう、って言われたけど、ぜんぜんオッケーです、あたいは、振りむかない女ですから、なんてⅤサイン出しちまった。人間、前を向いてしか歩けないようにできてるし、今までそういう生き方しかしてこなかったから、ってね。ま、そのお医者さんも、患者にⅤサインされたのは初めてだって、ちょい、あきれてたよ」

 その日の光景を思い出すように、美鈴さんは笑う。

「ところがぎっちょん、こいつがまた、なかなかタフなやつでね。、患部を切除してハイおしまい、かと思ったら、さにあらず。そうそう簡単には、あたいに愛想を尽かしてくれないということもわかってきた。そこからは、もう一度腹のくくりなおしさ。こうなったら、最後の最後、むこうから“参りました”って言わせるくらい、とことんつきあってやろうじゃないか、ってね」

「じゃあ、この家を訪ねてきたのは……」

 母の言葉に、美鈴さんは「ああ、ちょうどそのころだよ」とうなずいた。

 あのころも、美鈴さんは病気と闘っていた。それからも、ずっと……美鈴さんは、闘い続けてきた。定期的な検査入院、化学療法――美鈴さんが、しばらくわが家をたずねてこなくなることがあったのは、そのせいだったのだ。

 美鈴さんは、「闘うとか、そんな大仰なもんじゃなかったさ」と笑ったけれど。

「でも、今度ばかりはしくっちまった。つきあいが長くなった分、こっちも油断しちまってたんだ。ここんとこ、妙に落ちついてやがったから、逆に用心しなけりゃいけなかった。いつだって、肝心の詰めが甘いのが、あたいのダメなとこだ」

 美鈴さんは、ひざの上で手のひらを組んだまま、小さく肩をすくめた。

「主治医の先生から、ほとんど宣告に近いことを言いわたされたのは、この夏の終わりさ。ただ、もう一度本格的な検査をする、って言うから、待ってくれ、って言ったんだ。理由はなんだ、って聞かれたから、大まじめに答えたよ。“思い出づくり”をさせてくれ、ってね」

 その思い出づくりが、あの旅行だった……。だとすれば、あのとき、美鈴さんは、進行する病気をひとりでかかえこんだまま、あんなに楽しそうにしていたんだ。

 あの旅行の間、それと気づく兆候はあっただろうか。あったはずだ。ないほうがおかしい。食事のときは? お風呂に入ったときは? 手術のあととか、ぜんぜんわからなかった?

 だめだ。どれだけ記憶をたどってても、明るくはしゃぐ美鈴さんとの楽しい思い出しか出てこない。笑顔の美鈴さんばかり、次々にわたしの中でフラッシュバックして、逆にわたしを苦しめる。なんでだろう。なんで気づかなかったんだろう。あんなにたくさんおしゃべりしたのに。あんなにずっといっしょにいたのに。

 母は、気づいていた。気づいていたけど、それを口に出さず、美鈴さんといっしょに笑っていた。きっと、そうしようと決めていたんだ。美鈴さんが、あの旅行を心から楽しんでいるのがわかっていたから。そして、いつか美鈴さんが、彼女自身の意思で、ほんとうのことを言ってくれる日を待っていた。

 そう、わたしだけがわかっていなかった。わたしだけが、なにひとつ……。

「正直言えば、腹がすわったとか、覚悟がきまったとか、えらそうなことは言えないんだよ。覚悟なんて、なにひとつ決まっちゃいない。座して死を待つ、なんてそんな心境には、とてもじゃないけどなれやしない。心の中じゃ、ぶるぶる震えてるのさ。怖いんだよ。自分の時間が、あとちょっとでぷっつり切れて、真っ暗闇になっちまうのが、怖くて怖くてしかたないんだ」

「やめて!」

 美鈴さんの声をさえぎり、母は、美鈴さんを抱きしめた。

「もう、いいよ。もう……」

「ごめん……」

「お願い、もう謝らないで」

「……うん、わかった」

 美鈴さんは、うなずいた。それでも、母は、美鈴さんを抱きしめた腕を解こうとはしなかった。

 母は、きっと信じたかったのだ。

 そうしていれば、美鈴さんの痛みや苦しみを、母自身のものにできると。

「これから、どうしようなんて、なにひとつ決められやしないけど、それでも、ひとつだけ、こうしたいってことがある」

 美鈴さんの言葉に、母は、うつむいていた顔をあげた。

「だったら、あたしにも、あるよ」

「じゃあ、早い者勝ちで、あたいから言うよ。これから、春花やアリ子と、ここでいっしょに暮らしたい。一分でも、一秒でも、いっしょにいたい」

 美鈴さんは、「さあ、次は、春花だ」と、母の顔を見た。

 母は、なにも言わずに首を振った。

「もう、ぜんぶ言われた」

「そうか……」

 ふたりの傍らでじっと耐えていたわたしは、もうこれ以上こらえきれず、母の反対側から美鈴さんに抱きついた。

「わ! なんだよ、アリ子」

「だって、ふたりだけ、ずるい。わたしをのけものにしないでよ」

「のけものになんかしてないだろ?」

 美鈴さんは、母とわたしをかかえるように両手をかけた。

「……じゃあ、アリ子もいいのか?」

「そんなの、決まってる」

「うん……ありがとな」

 美鈴さんが、わたしたちを引き寄せるように、両手にぎゅっと力を入れてくれたのがわかった。

「こうしてると……すごく気持ちいいよ、美鈴さん」

「そりゃあ、特等席だからな」

 美鈴さんの胸に頭を寄せていると、とくんとくん、という心臓の音が聞こえた。その音を聞いていると、心がとても安らぐのに、それと同じくらい切なくなった。

 いつまでも、いつまでも、ずっとそうしていたかった。このまま、時間がとまってしまえばいいのに……。残酷に過ぎていく時間の中で、わたしは、なんどもそう願い続けた。


「じゃあ、まだいろいろ片づけることやら手続きやらあるから、今日はアパートにもどるわ」

「うん……そうして。あたしのほうも、いろいろ考えとかなきゃいけないことあるから」

 母の言葉にうなずくと、美鈴さんは立ちあがって身支度をととのえた。

「じゃあ……あ、そうだ。かるかん、食べてくれよな」

「これって、どっちかと言ったら、あんたの好物じゃない?」

 母は、ずっとテーブルの上に置かれたままになっている紙袋をちらりと見た。

「今度みんなでいっしょに食べよ。それまで、とっとくから」

「うん、そうしよう」

「あ、そうそう。これ、賞味期限すごく短いんだから。わかってるわよね」

「はいはい、わかってるよ」

「返事は一回、もちろん、三回もダメ」

「あはは、春花は、やっぱり厳しいのぉ。はい、わかってます」

「よろしい」

 美鈴さんは、小さく手を振り、もときた玄関から出ていった。

 とたんに、家の中ががらんとして、空気が抜けたようになった。

 あとは、ほんとうにもう、なにもない一日だった。

 母とわたし、会話を交わした記憶もほとんどない。

 母は、いつもの休日と変わらず、家事や雑用に淡々と精を出し、わたしは部屋で、古いCDを引っ張り出して聴いたり、気の乗らない宿題に手をつけかけては放り出す、そんなことをしながら、この一日が、よけいなことを考えないまま終わってしまうのを待っていた。

 静かなふたりだけの夕食が終わり、わたしはまた、部屋にもどった。

 夜の闇に囲まれてひとりきりになると、おさえていた感情の波が一気に押し寄せてきて、飲みこまれそうになる。わたしは、結局耐えきれなくなって、立ちあがった。

母は、どうしているだろう。そうだ、やっぱり今夜は、母といっしょにいよう……。

 階段をおりたわたしは、はっとして足をとめた。

 明かりの消えた食堂から、声が漏れている。低く、くぐもった、うめくような声だ。

 廊下との仕切りの引き戸が、中途半端に開いていた。声は、そこから漏れていたのだ。わたしは、心を決めて、食堂の前に立ち、中をのぞいた。

 ぼんやりとした闇の片隅に、うずくまる小さな影があった。

 それは、母の背中だった。その背中は、漏れる声にあわせて、上下にゆれていた。

 母は、泣いていたのだ。

 迷子になって、たったひとり、ひざをかかえ、ふるえている子どものように。

「お母さん」

 わたしが近づくと、母は、ひざに顔をうずめたまま、泣き枯らした声で「……なんでなの」と言った。わたしは、その場に立ちすくんだ。

「なんでなのよお! なんで、あたしの大切な人は、みんな、あたしを置いていっちゃうの! なんで? なんであたしひとり置いてけぼりにするの? もうやなの! もうやなのよ! もう、ひとりぼっちはやなの!」

 わたしは、後ろから母の背中を抱いた。

 母は、激しくあえぎながら、なおも泣き叫び続けた。

「ねえ、なんでこんな思い、なんどもしなきゃいけないの? ひどい! ひどいよお!」

 とまることのない涙が、母の頬やあごを伝ってしたたり、母を抱くわたしの腕や手のひらまで、ぐしょぐしょに濡らした。

 こんなに取り乱し、ひとりで泣きじゃくる母なんて、これまで見たことがなかった。父が死んだときでさえ、わたしが覚えているのは、必死になにかに耐え続ける母の背中だけだ。

「あたし……美鈴のためになにもできない……なんにも……いつもたよってばかりで……こんなときも、なんにもしてあげられない……苦しいのは、つらいのは、美鈴なのに……それなのに、ひどいこと言った。美鈴を傷つけた。友だち失格は、あたしなのに……あたしなのに!」

 お母さん……。

「どうすればいいの? ねえ、小羽子、教えてよ! どうすれば、どうすれば美鈴を……」

 わたしには、なにも言えなかった。

 わたしにできるのは、ただ、母の背中を強く抱きしめ続けることだけだった。

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