第二章 クチナシとアカシヤ Ⅶ
Ⅶ-Ⅰ
もちろん、本番の旅行も、これ以上はないくらい楽しかった。
出発の朝は、信じられないくらいの快晴だった。常日頃「あたいは、天下無双の晴れ女なんだよ」と豪語していた美鈴さんは、その言葉を今回もみごとに証明。「なんたって、あたいはテンポのいい女だからさ」と、例によってよくわからない理屈で、胸を張った。
そして……伊豆をめぐる二泊三日の旅行の間、終始話題――というより騒動の中心にいたのも、やっぱり美鈴さんだった。
まず一日目――最初に寄った熱海城では、見ず知らずの周囲の人に「このお城は、キングコングとゴジラのケンカでぶっ壊されたんですよ」といらぬ解説をし、修善寺では、レンタルした浴衣に大はしゃぎで、のぼせあがるまで温泉めぐりに興じた。
最初の宿は、『伊豆の踊り子』で知られる湯ヶ島温泉。ここで、美鈴さんが『伊豆の踊り子』を、なぜか勝手に「場末の見世物小屋の踊り子さんが男にだまされる話」と思いこんでいたという、とんでもない事実が判明(川端先生、伊豆の皆さん、ごめんなさい)。母は、当然のごとく「吉永小百合や山口百恵が、そんな話のヒロイン、やるわけないでしょうが!」とツッコんだ。
美鈴さんは、宿から出歩いて、もどる部屋をまちがえる(しかも、その部屋でお茶を飲んでくつろいでいるところに、ほんとうの客がもどってきてびっくり仰天した)というベタな騒動まで引き起こし、宿の人たちから白い目で見られた。
わたしはあらためて知った。財布を忘れて街まで買い物にいってしまうサザエさんなみにベタな、マンガやアニメの中にしか存在しないような失敗を、この日常においてあたりまえに起こしてしまう、そんなやついるか!という人間が、だがしかし、まちがいなくこの世界に、リアルに存在しているのだという事実を。
そして、二日目――浄蓮(じょうれん)の滝では、「天城越え」の歌碑を見ていきなり歌いだし、大顰蹙(だいひんしゅく)かと思いきや、まわりの人の拍手喝采をあび(母とわたしは、その間ずっと他人のフリをしていた)、途中で乗ったタクシーでは、降りたあとに「今のタクシーに財布を置き忘れた!」と言い出して大騒ぎになった(結局、財布はバッグの底に埋もれていた)。親切に連絡をとりあってくれたタクシー会社の皆さん、ほんとうに申しわけありませんでした……。
下田の海中水族館では、イルカとアシカのショーに出ていたアシカたちに「おおい、おまえたち元気だったかあ」と手を振り、ここでも母から、「あんたがアシカショーで働いてたの、箱根とか言ってなかったっけ?」と、鋭くツッコまれた。
かと思えば、泳ぎながら貝を割るラッコにわたしが歓声をあげていると、「あ、ラッコの毛皮」と、不謹慎きわまりないことをつぶやいた。あわてて口をおさえたものの、わたしと母のふたりから白い目でにらまれた美鈴さんは、さすがにしょぼんと縮こまった。
しかし、美鈴さんは、立ちなおりも世界一早い。水族館を出たあと、ペリーロードを、アイスクリーム片手に気どって歩きながら、「ちょっとローマの休日みたいだろ」などとふざけたことをのたまうので、「あと三十年たったら、まちがいなく老婆の休日だけど」と言ったら、かなり本気の蹴りを食らった。
その日は、そのまま下田で宿泊。
なんといっても美鈴さんの独擅場(どくせんじょう)は、夕食時の宴会だった。
……といっても総勢三人なので、そもそも宴会もなにもないのだけれど(しかも、ひとりは中学生である)、ほとんど約一名のおかげで、単なる「楽しい夕食」が、「飲めや歌えの大宴会」と化してしまったのだった。
美鈴さんはこの「大宴会」のために、一日目と二日目、どちらの宿でも、夕食のための小座敷をちゃんととっていた。その理由はもちろん、「部屋での食事だと、気がねなく大騒ぎができないから」だ。そういうところは、ものすごく抜かりない人なのだった。
しかも、二日目の料理は、美鈴さんいわく「世紀の大奮発」。活魚の舟盛りにイセエビとカニづくしの豪華コース。卓上埋める、ふだん見慣れない料理のまぶしさに、ついつい腰が引けてしまうわたしたち母子。それを尻目に、美鈴さんは「うおりゃー! カニ成敗じゃ!」と奇声をあげながら、カニの足と格闘をはじめる。
「あんたら、なにやってんの。これ、ただ眺めるためにたのんだわけじゃないんだよ。こういう贅沢こそが旅の醍醐味なんだからさ」
「そ、そうだよね」と答えながらも、母は、まだ及び腰だ。
こうなれば、気合いよ、気合い。相手は、たかだか切り身になった魚じゃない。わたしは、えいや、とばかりに、ヒラメの薄づくりへ箸を伸ばし、三切れまとめて口に放りこんだ。
「あ、それ、ちょっと大胆すぎるぞ、アリ子」
「もう、おそいよ……むぐむぐ……う」
「ど、どうしたの? 小羽子」
「お……おいひい……おいひいよ~」
「おいおい、泣きながら刺身食うなって」
「だって……スーパーで売ってるパックのおつくりと、ぜんぜんちがうんだもん」
「あったり前じゃないの! もう、なにバカ言ってんのよ、この子は」
そう言いながら、母の箸は、すでにイセエビのお刺身をとらえていた。
「バカバカ言うな~」
泣きながら、タイをごっそりと箸でつかむわたし。
「ああ! だから、それはやめれって」
カニ味噌に伸びかけていた美鈴さんの箸が、負けじとタイを押さえる。
「ええい! こうなりゃもう、腹の虫の加護に身をまかせちゃる! どうりゃあ!」
……そんなこんなで、遠慮とか躊躇とかいう奥ゆかしい言葉は、この時点であっさりと三人から吹き飛んでいた(最初から、そんなものはなかったとおぼしき人もいたけれど)。
そして、秩序ぶっとび状態のまま、流れは、言葉どおりの大宴会へ。
美鈴さんの、演歌、昭和歌謡、アニメ・特撮、八十年代アイドルから、嵐、東方神起まで網羅するカラオケのレパートリー数には、ただただびっくりした。
中でも、ノリノリのハイテンションでフルコーラス歌いきった本田美奈子.の「Oneway Generation」や「んばば・ラブソング」(ダンスつき)には、母とわたしでヤンヤの喝采を送った。
いったい、なんのために身につけているのかまったく不明な、無駄に磨きこまれた宴会芸の数々にも圧倒されっぱなしだった(その中には、以後わたしの前で披露することを、母から永久に封じられてしまった禁断の芸もいくつかあった)。
もうひとつびっくりしたのは、母がけっこうお酒に強いこと(酔っぱらっている母や家でお酒を飲んでいる母を、わたしはそれまで一度も見たことがなかった)、酔った母が、美鈴さんに向かって「つまんない芸を見せるな~、引っこめ~、三流げいにぃ~ん」なんてヤジを、楽しそうに飛ばしていることだった。
……お母さん、なんか解放されてる。
それはそれで楽しかったけれど、さすがに二日目の夜ともなると、ひとり取り残されてしまってる感の強いわたしとしては、けっこうつらいものがあった。
すでにお腹はいっぱいで、さすがにもう卓上の料理には手が伸びないし、美鈴さんと母のテンションが、前日にも増してヒートアップしていく中、ウーロン茶をすすりながら、今日もこのまま、ひとりシラフでいなきゃいけないわたしはどうしたらいいのよ――なんて思っていたら、すわった目の美鈴さんが、酒瓶をかかえながら、ずりずりとにじり寄ってきた。
「なんでひとり、冷静な顔してるんだよお」
う……もしやこれが、噂に聞く宴会セクハラおじさんか……。
「そんなこと言われたって……」
「だいたい、アリ子は、若さがないんだよ。たまにはさ、イマドキのギャルみたいに、キャハ!とか、テヘ!とか言ってみろって」
「わたし、イマドキのギャルじゃないもん」
それに、イマドキのギャルは、キャハ!とかテヘ!とか言わないと思う……。
「あのさあ、そういう後ろ向きな言い草がババくさいんだってば、あんたは。そんなだから、若年寄とかオジンギャルとか言われるんだよ」
いや、だれからも言われてないよ、そんなこと……。
「ね、アリ子、若さってなんだか知ってるかい」
「え? 急に、知ってるかい、って言われても――」
「それはね、振りむかないことさ」
美鈴さんは、ぐっと親指を突き出し、決めポーズをつくった。
「振りむくな、アムロ! きみは美しい! 青春は、ワンウェイなジェネレーションなんだよ!」
もう、なに言ってんのか、ぜんぜんわかんないんだけど、美鈴さん……。
「それと……愛ってのは、ためらわないことだぞ! そこんとこ、よろぴく!」
「うん、わかった」と、もはや生返事をするのみのわたし。
と、そのとき、いつの間にか近くに座りこんでいた母が、美鈴さんに食ってかかった。声が、かなりへべれけな感じで、ろれつがまわっていない。
「なに言ってんにょ! 愛とは、“けひて後悔ひないこと”に、決まってんにゃ!」
「はあ? そうじゃないだろ? 愛は戦いである、だよ」
「もう! だまれ、みしゅじゅ! ちがうって言ってんにゃろ! 愛は心の仕事(ひごと)なんにゃ!」
「なんで妙につっかかってくるんだよお、春花。イカの刺身にでもあたったのか?」
「フギャー! イカの刺身ってなんにゃあ! あたひは猫じゃにゃい!」
なんなのよ、この大人たちは――さすがにあきれながら、グラスのウーロン茶を飲みほす。
とたんに、かくん、とくる感じがあった。
あれれ?と首をひねっていたら、頭がふわふわ浮きあがるように気持ちよくなってきた。
なにこれ……変だな……わたし、どうしちゃったんだろう……。
すると、頭の上で美鈴さんの声が、二重三重のエコーになって響いた。
「ああ! お母さん、どうします、この娘、未成年飲酒じゃないですか!」
母が、それに答える。
「にゃにぃ! そんな子は、あたひの娘じゃにゃい! あたひの娘じゃにゃいから、もう好きにしてよろひい!」
「了解です! お母さん!」
そんな……ひどい……はめられた……。
そこから先で覚えているのは、母といっしょになって、美鈴さんに「なんや~、おもろないぞ~、AKBの研究生から出なおせ~! ジャカルタに修行にいってこ~い!」なんてヤジを飛ばしていたこと、知りもしないピンクレディーの『ウォンテッド』を、美鈴さんといっしょに激しく踊っていたと、最後は三人で勝手な振りをつけながら、キャンディーズの『微笑返し』を歌っていたことである。
天国のスーちゃん、ごめんなさい……。
Ⅶ-Ⅱ
はっと気がつくと、わたしたちは部屋にいて、ぐちゃぐちゃになったまま寝転がっていた。時計を見ると、すでに明け方近い。
となりで転がっていた美鈴さんがのっそり起きだし、ふぁぁ、とあくびをしたあとで「うぉーっす」と不気味なガラガラ声を発した。
わたしは、まだ半分寝ぼけたまま、少しズキズキする頭をかかえて「ひどいよ、美鈴さん、昨日(きのう)わたしにこっそりお酒飲ませたでしょ」と文句を言った。
「いやあ、軽いいたずらのつもりで、ウーロン茶に日本酒を二、三滴落としただけだったんだけど……まさか、あんなに免疫がないとは思ってなくてさあ、悪かったよ、ごめん」
どう見ても悪かったとは思っていない様子で、美鈴さんは謝った。その笑顔は、ぜったい「でも、おもしろかったから、いいじゃろ」と言っていた。
やれやれ、と笑ってしまうのと同時に、夕べの記憶が、途切れとぎれの絵物語のように脳裏をかすめる。
「……わたしは、あんなに楽しそうなお母さん見るの初めてだったから、そっちにびっくりしちゃった」
そう言うと、美鈴さんは「あたいだってびっくりだよ。人のこと、さんざ焼酎飲んごろとか言っといて、とんだ一斗甕(いっとがめ)じゃ」と大きくうなずいた。「セイテンのヘキレキ、いや、この場合はセイテンのヘベレケか」
うまいこと言った、という顔でガハハと笑う美鈴さん。
「春香のことならなんでも知ってると思ったけど、いやいや、まだぜんっぜん甘かったね。はからずも、新たなステージに導いちゃったというかさ」
寝癖だらけの頭をポリポリかきながらそう言うと、美鈴さんは、心からうれしそうにニマッとした。
「これだから、あんたら親子とのつきあいはやめられない」
「え!? これ、わたしとセットの話だったの!?」
「あたりまえだろ」
わたしの額を指でちょこんと突いてから、美鈴さんがゆっくりと立ちあがる。それから美鈴さんは、なんのためらいもなくその場で服を脱ぎはじめた。
「わ! 美鈴さん、なにしてるの!」
「なにしてるのって、朝風呂いくのに、浴衣に着替えてからいこうと思ってさ」
美鈴さんは、そう言いながら、床の間近くにある木の箱に向かって、無造作に服を脱ぎ捨てた。当然その服は、ぐしゃぐしゃのままだ。
「あ~あ、きたないなあ。せめて、たたんでから置くとかしてよ」
「いいの、いいの。だって、この箱なんていうか知っとる?」
わたしは「……知らない」と首を振った。
「乱れ箱っていうんだよ。つまり、乱れるための箱、乱れたままにしておく箱ってこと」
「ええ? そうなの?」
「人生経験を積んだあたいが言うんだから、まちがいない」
「ふうん……だてに四十年生きてないってことね」
「いや、三十九年と七ヶ月だから。そこ、勝手に切りあげないように」
「切りあげじゃないよ、四捨五入だよ」
「そういう屁理屈をこねないの」
「屁理屈じゃないと思うけど……」
「とにかく、レディの年齢は、デリケートに扱わなきゃいけないんだよ。わかったかい?」
なんだかわたしは、めんどくさくなって「わかった……」と答えた。
そうだった。わたしに「乱れ箱」という言葉を教えてくれたのは、美鈴さんだったのだ。その意味の解釈は、どう考えてもかなり適当だった。でも、今にして思えば、「乱れたままにしておく箱」という美鈴さんの言い方は、まるっきり嘘でもなかった、ということになる。
そう、やることも言うことも、いつもでたらめで、フラフラしてばっかみたいだけど、けっして嘘だけはつかない。いつだって、一番大事なほんとうのことを教えてくれる、それが、園田美鈴という人だった。
ただ、そのときのわたしは、頭の半分以上が眠ったままみたいな状態だったから、それ以上深く考えることもなく、頭の片隅の、そのまたさらに隅っこに「乱れ箱」という不思議な言葉をしまいこんで、終わりにしてしまったのだった。
「おい、アリ子、いっしょにいくか?」
浴衣に着替えながら、美鈴さんが言った。
「え? いくって、どこに?」
「だから、朝風呂って言ってるだろ。頭がスッキリするよ。それに、ここまできて温泉入らないで帰るなんて、もったいないぞ」
「あ……うん、いく……」
ふと、あ、お母さんは?と思い、わたしは部屋を見た。
母もまた、着替えもせず、メガネまでかけっぱなしのまま、掛け布団の上で寝息を立てていた。
「寝かしといてやろうよ。お母さん、こんなときでなきゃ、何の気兼ねもなく寝坊することだって、できないんだから」
「うん……そうだね」
わたしは、眠り続ける母の上に布団をかけ、美鈴さんといっしょに忍び足で部屋を出た。
今だったら、まだ半分寝ぼけまなこで目をこすりながら美鈴さんについていくわたしにそっと声をかけてあげたい。
あなたはこれから、この旅行で一番の思い出を美鈴さんからもらうんだよ、と。
Ⅶ-Ⅲ
浴場には、海に面した露天風呂があった。
洗い場の引き戸を開けて、和風にしつらえられた屋外に出る。意外なことに、先客はなかった。
「お! ラッキー。ふたり占め状態だぜ。ちょっとしたお殿様気分だな」
露天風呂からは、一面に広がる海が見わたせた。濃紺の夜を割って、遠く水平線に光が現れはじめているのがわかった。
「すごい! 夜が明けるところだよ!」
「アリ子、もしかして、海から明けていく朝を見るのは初めてか?」
「うん! なんだか感動するね……」
水平線を切り開くようにゆっくりと光が広がり、海と空の境界を、少しずつ淡い紅色へと染めあげる。やがて、輝く太陽が顔を出し、夜の名残をはらうように、朝の光が満ちていく。
深い瑠璃色からラヴェンダーへ、ラヴェンダーから藤色へ、藤色からセルリアンブルーへ――世界が、わたしの前でどんどん色を変えていく。
「朝が、生まれてくるよ」
思わずそうつぶやくと、美鈴さんが静かにうなずいた。
神秘的――そんな、ありきたりな言葉しか思い浮かべることができなかった。世界のはじまりに立ち会っているような、心のおののき。胸に打ち寄せ、満ちていく思い。目の前でうつろい、消えていく時の輝き。それをかたちにする言葉を持たない自分が、もどかしく、せつなかった。
「朝はどこからくるかしら」
「え?」
美鈴さんの言葉に、わたしは、はっとしてその顔を見た。
「そういう歌詞の歌があるんだ。知ってるかい」
「ううん、知らない」
「『朝はどこから』っていう、古い歌なんだけどさ。あたいも、ずっと不思議に思ってたんだ。朝はどこからくるんだろう、って。その歌だと、朝は家庭の希望からやってくるらしい。だけど、独り身のあばずれのところにだって、やっぱり平等に朝はやってくる」
太陽の輝きを受けて、きらきらと光の波紋を散らす海をまぶしそうに見つめながら、美鈴さんは、手のひらですくったお湯を顔にかけた。
「朝ってさ、光といっしょにいろんなものが新しく生まれてきて、いろんなものがきらきら輝いて――あたいの中でもなにかが少し生まれ変わって、いつだって、ああ、なにかがはじまるんだ、っていう気持ちになる。だから、好きなんだ。アリ子は、どうだい?」
「うん、わたしも好き」
「朝は、あいかわらず不思議なまま、たくさんのはじまりといっしょに、今日もこうしてやってくる。そして、あたいは朝が好きだ。だったら、もう、それでいいんじゃないか、って思う」
「……そうだね」
わたしは、美鈴さんに寄り添うように湯の中へ身を沈め、静かに目を閉じた。
「気持ちいい……こうしてると、まぶたにまで朝を感じるよ」
「旅行、きてよかっただろ?」
わたしは素直に「うん」と答えた。
「それにしても、アリ子がもう中学卒業なんてな……」
美鈴さんが、しみじみとつぶやいた。
「アリ子とこんなふうに風呂に入るのも、もうこれが最後かな、なんて」
「なに、それ。なんだか、お父さんみたいなセリフだよ」
「え? あ、そうか? それはちょっとまずいな」
頭をかきながら、美鈴さんが湯船から身を起こした。
「ん? アリ子、のぼせたか? ちょっとぼーっとしてるぞ」
「あ……ううん、だいじょうぶ」
わたしは、うろたえて首を振った。
ぼーっとしていたのではなく、とまどっていたのだ。「お父さん」という言葉を、すっと口にしてしまった自分に。
あの小学二年の夏から、わたしは、無意識のうちに「お父さん」という言葉を、心の奥底に封じてきた。たぶん、怖かったから。その言葉とひとつになっている痛みと向きあうことが。そして、その言葉といっしょに、自分の中の大切なものが壊れ、消えてしまうことが。
でも、今自然に出てきた「お父さん」という言葉に、もう痛みはなかった。
なにかが、自分の中でゆっくり、とけていくのがわかった。それは、恐れていた“壊れる”という感覚ではなかった。
わたしは、もう一度、胸の中で「お父さん」とつぶやく。
これでいいんだよね。笑ってくれるよね。お父さん――
岩場に腰をかけた美鈴さんが、「いつまでも、アリンコのアリ子だと思ってたのになあ」とつぶやいた。美鈴さんがゆらした足の先で、お湯が、ちゃぽん、と音を立てる。「いつの間にか、しっかり大人の階段のぼってたんだな」
大人の階段て……なんか微妙な表現なんですけど。
「この際、アリ子って呼び名も卒業ってことにしちゃおっか」
え?――思わず、ぽかんとした顔を美鈴さんに向けてしまうわたし。それを見て、むふふと笑う美鈴さん。
「なんだい、寝耳に水って顔だね。あ、この場合は寝耳にお湯か」
「だって……びっくりしたんだもん」
湯船から浮かしかけた腰を沈めながら、わたしは答えた。
「ねえ、ほんとにアリ子って呼びかた、やめてくれるの?」
あごに手を当てて「うーん、どうしようかなあ」と考えこむポーズをとったあと、美鈴さんは「うんにゃ、やっぱ返上はなしだね」と首を振った。
「よく見りゃ、おっぱいだってまだまだガキンチョだし」
「ええ!?」
わたしは、とっさに胸をおさえ、そのままザブンと口もとまで湯につかった。
「もう! 変なこと言わないでよ!」
「なんだ、気にしてんのか」
「気にしてなんかないよ! 友だちとくらべたって、わたし……そんなに小さくないもん!」
「へえ、ちゃんとくらべてるんだな……」
「もうやだぁ! 知らない! 美鈴さんのバカ!」
「悪い悪い。純情な女の子をからかうのって、なんかおもしろいからさ」
「そういうの、セクハラっていうんだよ」
あいかわらず、口もとまで湯船につかりながら、わたしは、美鈴さんを横目でにらんだ。
「あはは、言われちまったか。なんか最近は、どんどんあたいの中でオヤジ化が進行しちまっててさ。それなりにヤバイとは思ってるんだけど」
美鈴さん、昔からけっこうそんなだよ、と言おうとして、さすがにやめた。
湯船に身体を滑りこませながら、美鈴さんが気持ちよさそうにつぶやく。
「それにしても、極楽極楽。やっぱ温泉はいいよなあ」
「そのセリフ、ほんとにオヤジっぽいよ、美鈴さん」
「い~い湯だな、あはは~ん、あ~、びばのんのん、と」
「百パーセント、完璧にオヤジだね……」
「もう、いくらでも言いたいだけ言ってくれ。心の殻をすべて脱ぎ捨てて素っ裸になる。これぞ、温泉の醍醐味なんだから」
「あ、開きなおった」
「実を言うと、お肌の若さなら、まだまだ若い子にも負けないつもりでいたけどさ」
……ああ、また変なこと言おうとしてる。
「今日アリ子の肌ツヤ見て、それもあきらめがついたよ。ピチピチギャルにいくら張りあっても、しょせんあたいは、オバハンなんだって」
「もう……だから、そういうことをしみじみ言わないでよ」
だいたい、ピチピチギャルって……なんでそんなにギャル好きなわけ? 美鈴さん……。
「まあ、三十九年と七ヶ月も生きてきちまったんだから、しょうがないよな」
……やっぱり、そこは、ゆずれないんだ。
「ああ……でも、マジで気持ちいいな……」
両腕を岩場に伸ばし、目を閉じた美鈴さんは、ほんとに幸せそうだ。上気して、ほんのりピンクに色づいた美鈴さんの顔を見ていたら、少しドキドキしてしまった。「色っぽい」なんて、そんな言葉が頭をよぎってしまったわたしは、ちょっとおかしいのだろうか。
「遠くて近いものは極楽だって、確か清少納言さんも言ってるけど、ほんとだね。いっそ、このまま、するっと極楽にいっちまってもいいや……」
はっとして、わたしは、思わず美鈴さんの腕をつかむ。
「ちょっと! なにバカなこと言ってんのよ!」
美鈴さんが、びっくりした顔で目をまたたく。
「おいおい、ただの冗談だってば」
「冗談でもそういうこと言わないで!」
「ごめん。あたいが悪かったよ。ちょっと軽口がすぎた。もう、こういう冗談は言わないから」
美鈴さんは、わたしの頭に手を置き、頭をさげた。
「美鈴さん、すぐ約束破るし……小学校の運動会のときだって……」
「まだ覚えてんのか。アリ子、けっこう根にもつタイプだな」と苦笑する美鈴さん。「あのときは、つい興奮しちまってさ。マジで悪かったって思ってる」
「嘘。ぜんぜんそんなこと思ってないくせに」
「信用ないなあ、あたい……。わかった。もうぜったい、アリ子に嘘つかない。約束する」
「ぜったいのぜったい?」
「ああ、ぜったいのぜったいだ」
そう言ってうなずいたあと、美鈴さんは、わたしの顔を見つめた。
「どうしたの? なにか顔についてる?」
「なあ、アリ子」
「なによ、また変なこと言ったら、今度はお母さんに報告だよ」
「その、春花のことさ」
「え?」
湯船から、美鈴さんが腰をあげる。それに合わせて、わたしもあわてて身を引き起こす。
「これからは、いろいろ春花の力になってほしいんだ」
「あ……うん、そのくらい、わかってる」
「春花は、あのとおりのいっこっもんだから、弱音ってのを吐かない。必要以上に自分を強く見せようとする。放っとくと、ぽっきり折れるところまでがんばっちまうし、がんばるな、なんて言うと、逆に意固地になっちまう。だから、あたいみたいにグニャグニャしたのが、横からチャチャを入れて中和するのがちょうどいいんだ」
「だから、美鈴さん、ずっとお母さんのそばにいてくれたの?」
「まあ、そんなかっこいいもんじゃないよ。あたいはずっと、あたいがやりたいように、好き放題やってきただけさ」
「でも、わたしは、美鈴さんみたいにはできないな……。気の利いた冗談なんて、ぱっと思いつく人間じゃないし」
「うん、そこは正直、鍛えそこなったかもな」
え……鍛えるつもりだったんだ。
「ま、あたいに言わせりゃ、アリ子は、充分おもしろすぎるやつだけど」
「ときどき、友だちにも言われるけど……なんで? わたしのどこがおもしろいの?」
「自分では、猫をかぶって、まわりを騙しおおせてると思いこんでるところ」
「え……うそだよ! わたし、別に猫なんてかぶってないもん!」
「それと、からかうとすぐ本気にして、ムキになるところ」
「なによ! それ!」
「あっはは、ほら、またムキになってる」
「う~、ひどい~。 もしかして、またあら探し?」
「ふ、ふ、ふ。そのと~り。アリスのあらを探すのは、もう趣味というよりあたいの生きがいみたいなもんだから。やめられない、止まらない」
「勝手にそういうの生きがいにしないでよね」
わたしは、すっかり機嫌をそこね、口までお湯にドプンと沈み、ぷくぷく泡を立てた。
「別にさ、あたいとおんなじことをしろなんて、そんなことは言わないよ」
美鈴さんは、穏やかな声でそう言った。
「アリ子があたいにはなれないように、あたいもアリ子にはなれない。アリ子のやりかたで、できることをしてくれればいいんだ」
「それで、いいの? わたし……迷ったり、うろうろしたり、いじけたり、きっとこれからだって、そんなことばっかりだよ」
「いいんだよ、それで」
ほほえみながら、美鈴さんがうなずく。
「あたいは、なんの心配もしてないから」
「ほんと?」
「ああ、ほんと」
美鈴さんが、もう一度うなずいた。それから、美鈴さんは、ゆっくりとわたしに身体を寄せ、つつむように両肩を抱いた。美鈴さんのぬくもりが伝わってくる。
「アリ子は、いい子だよ」
「いいよ、急にそんなテキトーなフォローしなくても」
「テキトーじゃないさ。嘘なんかつかないって、さっき約束したばっかだろ? アリ子は、ほんとうにいい子だ。あたいにとって、だれよりもかわいい、たったひとりの女の子さ」
「やだ……急にはずかしいこと言わないで。そういうの禁止だよ」
「ま、相変わらず腹黒だけどな」
なあんだ、やっぱりそういうオチか。でも、なぜだかほっとしてしまうわたし。すると、オマケをつけ足すように美鈴さんが言った。
「あとひとつ」
「あとひとつ……なに?」
「ちょっとだけ、素直じゃない」
「素直じゃない?」
「ああ、素直じゃない」
美鈴さんが、笑いながらうなずく。
「そんなことないよ。わたし、学校でだって、一番素直な生徒でとおってるんだから」
美鈴さんは、小さく首を横に振った。
「アリ子はね、一番素直にならなきゃいけないだれかさんに、素直じゃないんだよ」
「一番素直にならなきゃいけないだれかさん? それって、だれなの?」
「そこは、自分で考えなきゃダメさ」
「え~? なんで急にそこでスパルタになるの?」
「千尋の谷に背中をドン。愛あればこそって、春花も言ってただろ?」
「でも、二人がかりはちょっとひどくない?」
「そりゃつまり、愛情二倍ってことだろ?」
……うまく、言いくるめられようとしているとしか思えない。やっぱり、大人ってなんかずるい。そのときどきで、都合よく、大人あつかいしたり、子どもあつかいしたり……。
「一番大切な答えは、いつだってアリ子の中にある。だれにもそれを教えることはできないんだよ。自分で見つけなきゃダメなんだ」
「そんなこと言われたって……むずかしいよ」
「なに言ってんだい、アリ子には、そのための羽がちゃんとあるじゃないか」
「そんなの、名前だけだよ。わたし、羽なんか……」
「まあ、いいさ。大いに悩んで、大いにうろうろしな。一生懸命に壊れそうなものばかり集めちまうのも、十代の特権なんだから」
「なに、それ……」
「だいじょうぶ……」美鈴さんが、わたしの頭にポンと手をやった。「アリ子が、なにかに惹かれるなら、そこにはきっと、アリ子が求めている光があるんだよ」
「ううん……」
一度にたくさんの謎かけをされたみたいで、浮かんでは消えるいろんな思いといっしょに、このままお湯の中に沈んでいってしまいそうな気持ちになる。
そのとき、突然、頭上に奇声が響きわたった。
「ちぇすとー!」
ええー! 一瞬、脳裏を駆けぬけるデジャビュ。そんな、まさか……。
と、思うまもなく、脳天を打つグワンという衝撃。
「いったーい。ひどいよ、美鈴さん!」
ジンジンと広がる鈍い痛みをこらえながら、美鈴さんをにらみつける。
「隙あり、だよ、アリ子」
「もう! わたしがなにしたっていうのよー!」
「すっかりのぼせちまって、ぼ~っとしてるみたいだったから、ちょっと気合いをな」
「だからって、チョップすることないじゃない!」
「だから、スパルタさ。イッツ愛情」
「なにが愛情よ。ただの虐待じゃない!」
美鈴さんは、あはは、と笑って立ちあがった。
「そろそろいこうか。あたいもだいぶ、のぼせてきたよ」
「あ、待って」わたしも、あわてて湯船からあがる。
「それにしても、ああいう無防備なとこ、ほんと変わってないんだな、アリ子」
湯船を出て、洗い場へ向かう美鈴さんのあとを、わたしは、ぷんぷんしながら追った。なによ、結局、最後は子どもあつかいじゃない……。
Ⅶ-Ⅳ
部屋にもどると、母はもう起きていて、身支度もととのえていた。
「おっはよー。いいお湯だったよ、春花」
「なによ。ふたりだけでお風呂いってきちゃったの?」
不平を言う母に、美鈴さんはウィンクを返した。
「あたいのお姫様ったら、あんまり気持ちよさそうに寝てるからさ。まさか、アリ子の前で、お目覚めの“ほっぺにチュッ”をするわけにもいかないだろ?」
「な、なによ、それ」
母が、思わずほおに手をやる。
「それでね、お母さん、きれいな夜明けの海を見たんだよ」
わたしが横から顔を出して言うと、母は、「え~? ますますずるいぞ、あんたたち」と、不満のこもった目でわたしたちを見た。
「早起きは三円の徳を実践してきたんだよな、なあ、アリ子」
「それを言うなら、三文でしょ?」
「いや、三円だって、毎日早起きすれば、千円ちょっとにはなるぞ」
「毎日続ければ、の話じゃないの。だいたい、必ずひとりはいたよね。いっつも寝坊してるくせに、遠足の朝とかだけは、一番に早起きしちゃう子ども」
「あれ、もしかしなくても春花、仲間はずれにされて、すねてるな~」
「な、なによ! 仲間はずれって。バッカみたい! ガキじゃあるまいし」
「だって、遠足とか言いだしたのは、そっちじゃろ」
「それは、ただのたとえでしょ?」
……実際、小学生なみに低レベルな会話だった。
「あのな、春花……これだけは言っちゃいけないと思ってたんだけどさ」
美鈴さんの意味深な物言いに、母が一瞬たじろいだ。
「な、なによ。言いたいことがあるんなら、もったいぶってないで言いなさいよ」
「じゃあ……言うけどさ、あたいたちが早起きしちゃったのは、そもそも、春花のいびきのせいなんだよ」
「い……いびき? うそよ、いい加減なこと言わないでよ」
「まあ、いびきって、自分では気づかないもんだしな」
美鈴さんは、大げさに肩をすくめながら、わたしを見た。
「あたいたち、それですっかり目が覚めちまって、しょうがないから、風呂でもいくか、ってことになったんだよな、アリ子」
わたしは、まじめな顔でコクンとうなずく。
「うん、わたし、雷が鳴ってるのかと思って、びっくりして目が覚めちゃったの」
「か、雷……」
母の顔に、ショックがありありと浮かぶ。
美鈴さんが、 “グッジョブ、アリ子!”と、視線でわたしに合図した。
「でも、お母さん、気持ちよさそうに眠ってるし、じゃあ、そっとしておいて、ふたりでお風呂にでもいこうか、って」
少なくとも、この部分には嘘はない。ありのままの事実だ。
「な? 春花。あたいたちの気遣い、わかってくれただろ?」
しかし、母は、まだショックから抜けきれない。
「いびきなんて……今までだれにも言われたことないのに……」
美鈴さんが、母の肩にそっと手をやった。
「それだけ、疲れてたんだよ。まだ朝飯までには時間あるしさ、ひとっ風呂浴びてきたらいいよ。気分も変わるぜ」
「うん……そうする」
母は、のろのろと立ち上がり、着替えや洗面道具をととのえると、「じゃあ、いってくるね」と力なくほほえんで部屋を出ていった。
「のんびり、くつろいどいで」
手を振って母を見送ったあと、美鈴さんが、わたしの肩をがっしり抱いた。
「やったな! アリ子」
「えと……よかった、のかな」
「いや! よくやった。ほめてつかわすぞ、わが愛弟子よ」
あはははは……お母さん、ごめんなさいでした。
こうして、旅行の三日目――最終日がスタートした。
午前中は、美鈴さんのたってのリクエストで、稲取の伊豆アニマルキングダムに立ち寄った。キリンやペリカンの餌やりに夢中になり、サファリゾーンでホワイトタイガーに興奮したあと、美鈴さんは、園の一角にある鉄道のアトラクションに、どうしても乗ると言い張った。
小さな汽車で、大観覧車のまわりをぐるりと一周するだけの(たぶん、園内でも一番地味な)アトラクションなのに、その数分間、美鈴さんは目を輝かせながら、ススキ野原が続く何の変哲もない風景に見入っていた。母は、「ほんとにお子ちゃまなんだから」とあきれながら、そんな美鈴さんの顔を、ずっとにこにこ見ていた。
美鈴さんは、熱川のバナナワニ園にも寄りたがったけど、もう時間がないから、と母がダメ出しした。本気なのか冗談なのか、美鈴さんは、電車が熱川を通り過ぎるまでの間、「あ~あ、バナナワニ見たかったなあ」と、ぶつぶつ言い続けていた。
そのかわりに午後は、伊豆高原駅で降りて、少し遠出の散策。
美鈴さんは、すっかり乙女モードになり、「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」と遠い目でつぶやいたりしていた。母まで、その乙女モードにひたり「もっと奥にくるみの実をさがしにいこうか」なんて、その目は、しばし夢見る森の少女になっていた。
わたしは、そんなふたりを、なぜか保護者になったような気分で、ほほえましく見つめていた。
そうか、あとちょっとで、この旅行も終わっちゃうんだな……そう思うと、わたしまで、ちょっと感傷的になってしまう。ほんとにセンチメンタル・ジャーニーだ。
町の生活に帰るまで、あと数時間――よし、精いっぱい欲張ってもっともっと楽しもう――わたしは、そう心に決めた。
抜けるように高い真っ青な空。ひんやりとした透明な空気。草花に彩られた秋の道。わたしは、小さくスキップしながら、ふたりの乙女のあとについていった。
盛りだくさんだった長旅を終え、わたしたちは、地元の駅にもどってきた。
あわただしくゆきかう人並み、騒々しくも懐かしい雑踏にむかえられて、ああ、帰ってきたんだな、ということを実感する。
改札を抜け、駅前広場に出たところで、足もとに荷物をおろした美鈴さんは、両腕を腰にあてながらぐっと身をそらした。
「はあ、終わった終わった。おやっとさあ」
「家(うち)に寄ってかないの?」
母が声をかけると、美鈴さんは「今日はやめとくよ。マジでつかれたわ」と笑いながら首を振った。「それとあたい、野暮用でまた別の旅に出るからさ、しばらくは春花の家にも顔を出さない」
「え……なにそれ。どういうこと?」
母とわたしが、ふたりそろって怪訝な顔をすると、美鈴さんは、不思議なことを言った。
「うん、一気にカニを成敗した勢いで、今度はカンクローのところに乗りこむのさ」
「カンクロー? だれよ、それ。ねえ、いったいなに言ってるの? わけわかんないよ。お願いだから、もっとわかるように言ってよ」
母が、強い調子で問いただすと、美鈴さんは、少し困ったような顔で答えた。
「だいじょうぶだよ。また糸の切れたタコにもどって、そのままどっかに飛んでいっちまうなんて、それだけは、ぜったいもうないから」
「そんなの当たり前じゃない! あたしが言ってるのは、そういうことじゃないよ! なんであんたは、いつもそうやって、なにもかも冗談みたいにはぐらかすの?」
「しょうがないさ。あたいは、生まれついてのずんだれだもん」
なおも詰め寄る母を、美鈴さんは、ただ笑ってかわすばかりだった。
「もどってきたら、そのときはちゃんと話すから」
すっかり機嫌をそこねた母をなだめるようにそう言い残すと、美鈴さんは、「じゃあ! またな!」と手を振りながら去っていった。
楽しい思い出ばかりだった旅行は、その最後に、奇妙なざわつきを母とわたしの胸に置き去りにして、終わった。
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