第二章 クチナシとアカシヤ Ⅵ
美鈴さんが、唐突に「旅行にいこう!」と言いだしたのは、去年の秋だ。
「旅行?」
母とわたしが同時に声をあげる前に、美鈴さんは、もう各旅行会社のパンフレットをテーブルの上に並べていた。
「風立ちぬ、今は秋」
美鈴さんが、テーブルの上のポッキーを一本つまみ、妙なポーズをつくった。
「なによ、それ」
母が、冷ややかな目で美鈴さんを見る。
「なにって、ポッキーじゃよ、ポッキー」
「そのくらい見ればわかるわよ。だからなんなの、ってきいてるの」
「旅のお供は、永遠にポッキーじゃろ!」
「あんた、そんなことを言うためにきたの?」
「いや……そうじゃなくてさ、あたいが言いたいのは“今日からわたしは、心の旅人”ってことよ。ほら、人間、ふと旅の風に心を誘われる、っていうのがあるじゃろが」
「あんたの場合、その風に誘われすぎだったけどね」
母に思いきり急所を突かれ、美鈴さんはポリポリと頬をかいた。
「それを言われると、ぼくちん、つらいのココロ。はぁ、ぽっくんぽっくん」
だれなの、それ……美鈴さんのギャグ(ギャグだということだけは、かろうじてわかる)は、世代的に、けっこうわたしひとりを置いてけぼりにする。
「昔の話はこの際、置いといてもらいたいんよ。あれは、まあ、なんというか、そうそう、若気のイタリーってやつ?……なあんて、あはは」
「園田美鈴くん、三十点」
「無理にガンツ先生にならなくていいから。この場合」
「だいたい、なんでそこでイタリーなわけ?」
……だじゃれに説明を求めるのか、わが母よ。ちょっと容赦なさすぎなり。でも、こんなことくらいでは、けっしてひるんだりしない美鈴さんなのだった。
「だ・か・ら、旅情よ、旅情。サマータイム・イン・ベニス。イタリアへいきたしと思えども、イタリアはあまりにも遠し、っていうじゃん。我が輩は今、そういう心境なわけよ」
しかし、母は、なおもツッコミの手をゆるめない。
「もう、夏じゃないわ」
「それは、たとえというか、『サマータイム』っていうタイトルの映画だからね。そうじゃなくてさ、秋こそ、一年で最高の旅行シーズンじゃろ?」
ここで、遅ればせながら、わたしも参戦。
「イタリアはあまりにも遠し、って、それ、イタリアじゃなくてフランスでしょ」
「おっと、そのとおりじゃ。フフ……アリ子は賢いな」
……なに? その、とってつけたように生温かい“上から目線”は。
「萩原朔太郎だよね。現代文の副読本に載ってたよ。タイトルは、旅の上、で『旅上』だったかな……。でも、これ確か“春の朝”とかいう言葉が詩の中に出てこなかったっけ?」
「あいた~、そうきたか。母娘(おやこ)そろってあいかわらず、いちいち頭が固すぎじゃがね。これだから、優等生は始末に負えんのよ」
美鈴さんは、子どものように、ブーブーとふてくされた。
母とわたしは顔を見あわせ、なんとか笑いをこらえた。
「で、どこへいきたいの? まさか、ほんとにイタリアにいきたいとか言わないわよね」
「いやいや、だからそこはさ、いきたしと思えども、って言ってるじゃん」
「小羽子は、学校だってあるんだから。これでも、一応受験生なんだしね」
わたしは、思わず母のほうに身を乗りだした。
「ちょっと、お母さん……一応受験生って、それ、親の言うセリフ?」
「うーん……小羽子が勉強してるとこ、あまり見せてもらってないしねえ」
「そんなことない! ちゃんとやってるもん! 母親が、娘のがんばりの足引っ張るようなこと言うなんて、信じられない!」
母は、やれやれ、というように、ため息をついた。
「足を引っ張ってるんじゃなくて、背中を押してやってるんじゃない。そういうのを、親の心、子知らずっていうのよ」
「背中押して、谷に突き落とすつもりなんじゃないの?」
「あら、それこそ親の愛情のたとえじゃないの。バカね」
「ああ! 実の娘のこと、バカって言ったあ!」
「バカ! 実の娘だから言ってるんでしょ! アカの他人にバカなんて言わないわよ!」
「もう! バカバカ言うなあ! バカに生んだのはだれなのよお!」
「あの……おとりこみ中のところ、悪いんだけどさ、ね、聞いてくれる?」
美鈴さんが、おずおずと言った。わたしと母は、はっとして美鈴さんに顔を向けた。そういえば、なんでわたしたち、口げんかになったんだろ?
「知らないうちに、ふたりともいろいろたまってんだよ、たぶん。そういうときは、やっぱ、日常を離れてさ、ぱっと息抜きだよ」
「ううん……だけどさ、春になって、いろいろ落ちついてからでもいいんじゃないの? 小羽子が卒業したあととか」と、番茶をすすりながら、母。
「そうだよ。気候もいいし、花とかもいっぱい咲くし、春だって旅行シーズンだよ」と、ポッキーをつまみながら、わたし。
「ううん……傷心のアリ子をなぐさめる旅いっていうのもなあ」と、濡れせんべいをかじりながら、美鈴さん。
「そうねえ……」
言いかけて、わたしは、バタンとテーブルをたたいた。
「なんで傷心なのよ! なにげにとんでもないこと言わないでよね!」
「ははは、冗談だって。だからさあ、あたいは、今旅行にいきたいの。ジャスト・ナウなんだよ。今まさに、あたいを旅に誘うセンチメートル・ジャーニーな風が吹きぬけてるわけ」
「たぶん、〇・一秒で終わっちゃうよ、その旅行」
「ははは、だから、冗談だってば。センチメンタル・ジャーニーじゃろ」
「だから、そのセンチメンタル・ジャーニーって、なんなの」
「直訳すると、なんだっけ、ええと……傷心旅行?」
「だから、なんで傷心なのよ!」
「それは、伊代がまだ十六だから」
「もう! すぐそういう、わけわかんないこと言ってごまかす!」
母は、もはやわれ関せずの顔で、あいかわらず番茶をすすり続けている。
「お母さんも、他人のような顔してないで、なにか言ってよ!」
「あたしはもう、あんたたちのコント聞いてるだけでいいわ」
コントあつかいですか……わが母ながら、どこまでもひどい人だ。
「だいたい、あんたがいちいち反応するから、美鈴が面白がってからかうんじゃない、バカね」
うう……また、バカって言った……ぐれてやる。ぜったいぐれてやる。
そんなやりとりをしながらも、わたしは、なんとなく「息抜きか……確かにそれも必要かな」という気分になりはじめていた。母もおそらく、そうだったんじゃないかと思う。
「で? どんな計画してるの? あんたなりに、場所とか、いろいろプラン考えてんでしょ?」
母がたずねると、とたんに、美鈴さんの顔がほころんだ。
「ほら、来月は三連休があるし。そのあたりなら、あたいも休みとれるしさ。そんでもって、伊豆あたりならどうかなあ、と」
確かに、美鈴さんが持ってきたパンフレットは、伊豆周辺のものばかりだった。
「ふうん、伊豆かあ。なんか、はりきって考えてきた旅行にしては、ものすごく近場感があるね」
「そこは、ぜいたくを言っとられんし。それに、あのへん、なんとなくイタリアっぽいじゃろ」
「え? どのへんがイタリア?」と、即座にわたしがツッコんだ。
「いや、だって、まわりがぜんぶ海で、川があって、島があって、温泉があって……」
そんなことを言ったら、日本全国いたるところがイタリアだ。まあ、「日本の○○」なんて、たいがいはそんなものなのかもしれないけど。
「でも、旅はいいよ。日本全国、旅してまわったあたいが言うんだから、それだけはまちがいない」
「まあ、そこのところは説得力があるね」
「じゃっど~! ほら、だれの歌だっけ……旅の歌でさ……家にあれば、笥(け)に盛る飯(いい)を草枕……どうよ、あたいだって、けっこう教養あるのさ」
美鈴さんが、必死に力説する。わたしは、「お母さん、知ってる?」と母を見た。
「確か、有間皇子(ありまのみこ)が、処刑のために護送される途中で詠(よ)んだ歌じゃなかったっけ」
「え……旅は旅でも、護送中の歌? なにそれ」
「いや、だから、もののたとえで……」
「たとえ、って……ますますよくないじゃない」
「ああ、もう、そうじゃないがあ! あたいはただ、旅はいい、って言いたいだけなんじゃあ!」
しょげかえって頭をかかえる美鈴さんを見て、母とわたしは、さすがにこれ以上からかうのはやめよう、と目線で確かめあった。
「そうね。あたしも、その連休ならまちがいなく休めると思うわ。で、美鈴の予算は? どんなところがおすすめなの?」
母がそう言うと、美鈴さんの目がふたたび輝いた。
「うんうん! あたいが考えてるのはねえ――」
パンフレットを広げ、嬉々としてプランを説明する美鈴さんを見て、母がくすっと笑った。
それから母は、わたしを見て、「小羽子と旅行なんて、何年ぶりだろうねえ」とつぶやいた。
わたしは、母を見かえし「ねえ、お母さん」と言った。
「なに? どうかした?」
「わたしさ、遠足とか修学旅行以外で、泊りがけの旅行にいった記憶がないんだけど」
「――え」と言ったきり、母の言葉がとまった。
「小さいころ……たまのお休みにデパートの屋上に連れていってもらうのが、わたしにとって、お母さんとの旅行、遠足だったんだよ」
「そうか……そうだったね……ごめん」
少しうつむきながら、母が言った。笑うような、泣くような顔だった。
あ、しまった……わたし、なんてこと口にしちゃったんだろう……。
「わたしこそ……バカなこと言って、ごめんなさい」
そう、やっぱりわたしは、バカだ。母が、いつだって自分のことなんてなにひとつ考えず、わたしのことばかり気遣ってきたことくらい、いやになるくらいわかってるのに。
「てげてげにせえよ~、あんたたち」
美鈴さんのあきれた声がして、わたしは顔をあげた。
「なんで旅行の計画中に、そういう暗い顔になるかなあ。というか、あんたたちは、なんでそういうじめじめしたところまでそっくりなわけ? ここは楽しい旅行のプランに花を咲かせて、わいわい盛りあがるとこじゃっどが~。もっと、ぱあっといこ、ぱあっと!」
美鈴さんの言うとおりだ。なんとなく乗せられた話だけど、でもどうせなら、思いきり楽しい旅行にしよう。わたしは、パンフレットの海になっているテーブルに身を乗りだした。
「ねえねえ、それで? 旅館のおすすめは? おいしいものはなんなの?」
旅行は、プランを練っているときが一番楽しい――そんなことをだれかが言っていたような気がする。確かにそうかもしれない。わたしたちはその夜、パンフレットに掲載されていた「伊豆の人気パワースポット」で盛りあがり、たがいの「ここだけはゆずれないポイント」で白熱して、尽きない話に花を咲かせ続けた。
……ちなみに美鈴さんは、「伊豆の秘宝スポット全制覇プラン」なるものを披露したが、母から即座にダメ出しを食らい、そのことで最後までぶうたれていた。
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