第二章 クチナシとアカシヤ Ⅴ

 美鈴さんは、いくつになっても、「アリ子」というわたし呼び名だけは、一向にあらためてくれなかった。

 わたしも成長期を向かえ、背の順も、クラスの女子の中で、どちらかといえば後ろのほうに近くなっていた。ことあるごとに「もうわたし、チビじゃないんだから、アリ子とか呼ぶのやめてよ」とたのんだけれど、美鈴さんは「うんにゃ、あんたはやっぱり、アリンコのアリ子じゃ」と首を振って、相手にしてくれなかった。

 それでも食いさがると、美鈴さんは「ううん……しょうがないねえ」と額に手をやった。

「じゃあ、これからは、ハラグローザって呼ぶことにするよ」

「な、なによ、それ!?」

 わたしは、思わず目をむいた。

「悪の女幹部って感じで、けっこういいだろ? ハラグローザ様に忠誠を! キキー! なあんて。あ、それとも、ハラグロリアーノとかのほうがいいかい?」

「やめてよ! なんで美鈴さん、そんなことばっか言うの?」

 美鈴さんは、しれっとした顔で「アリ子のあら探しは、あたいの趣味みたいなもんだからねえ」と笑う。

「あら探し!?」思わず眉がつりあがる。「ひどすぎ! 信じらんない! それにわたし、悪の幹部でも腹黒でもないからね!」

 必死になって抗議すると、美鈴さんは「わがままだねえ。じゃあ、やっぱり、これからもアリ子って呼ぶしかないね」と、いかにも残念そうにつぶやいた。

 ……そう、どう背伸びしようと、しょせんわたしは、腹黒さにおいても美鈴さんの敵ではなかったのだ。

 腹立ちまぎれに、「わたしがアリ子なら、お母さんはなんなのよ」と食ってかかる。わたしなりのささやかな抵抗だ。 

 すると、美鈴さんは、あごに手をやりながら、大まじめに答えた。

「春花か。あれは……うん、プリ子だ」

「あ~、ひど~い。お母さんに言ってやろ~」

 わたしがそう言うと、美鈴さんは、あわてて言いつくろった。

「あ、いや、ほら、お肌がプリプリってことだからな。別にいつも怒ってるとか、最近、プリマハムかミニ樽みたいになってるとか、そんなことは言ってないからな」

「なに、それ。思いっきり言ってるし」

「お、そうそう、もうひとつ、あたいがひそかに呼んでる名前があったぞ。ラーフル春花だ」

「え? それってどういう意味?」

「ちょっと見は、やわらかそうだけど、実は四角四面でかたい。たたかれると、けっこう痛い」

「う……ひどい。でも、わかる」

「とにかく、どっちも春花には言わないように。無期限で本多家出入り禁止にされちまう」

 美鈴さんは、いつになく真剣な顔で釘を刺した。

 これもまた、母の逆鱗に触れる(ついでに、わたしがとばっちりを食う)ことまちがいなしだったので、告げ口はしないままに終わった。それでもひと月くらいの間は、ちょっとだけ母の反応を見てみたい、という悪魔の誘惑と必死に闘い続けていたわたしだった。


 美鈴さんが「ぜったいアリ子の応援にいく!」と唐突に宣言したのは、そのころ――小学校六年生の運動会のときだ。

 わたしは、「ぜったいダメ!」と猛反対した。

「だいたい、父兄とか知りあいの応援なんて、高学年になったら、はずかしいだけなんだから」

 美鈴さんは、大いにむくれた。

「なんだよぉ、そこまで思いきり反対されるとショックでかいなあ。アリ子の小学校最後の運動会を、精いっぱい応援しようと思ったのにさ。そんなにいやがらなくたっていいだろ」

「その“アリ子”がダメなの!」

「え? なんで?」

「だって、美鈴さん、運動会で、ぜったいその呼び方、連呼するつもりでしょ?」

「うん、もちろんそうだけど」

「そんなことされたら、わたし、次の日から学校にいけなくなっちゃうよ!」

「いいじゃん。晴れて“アリ子”デビューってことでさ、クラスのみんなから“アリ子”って呼んでもらうようになれば」

「ぜったいイヤ! とにかくお願いだからこないで!」

 それまで黙って聞いていた母が、さすがに顔色を変え、わたしをしかった。

「小羽子! そんなひどい言い方はないでしょ! 美鈴にあやまりなさい!」

「だって……」

「じゃあさ、その……アリ子って言わなきゃ、別にいったっていいんだろ?」

「……うん」

 わたしだって、美鈴さんに、ほんとうにきてほしくない、というわけではなかった。つい、美鈴さんの言葉への反発から、あんなことを言ってしまったのだ。

「その日だけは、ぜったいに“アリ子”って言わないから。な、それならいいだろ?」

 わたしは「だったら……いいよ」とうなずき、それから、小さく頭をさげた。「さっきは、ごめんなさい」

 美鈴さんは「なんのことじゃ」と笑った。

「あ~、楽しみで眠れんなあ。今からてるてる坊主、わんさかこさえとかなきゃ」

 わくわく感でいっぱいのその顔は、それこそ運動会の前の日の小学生にしか見えなかった。


 美鈴さんの日ごろのおこないがいいのか、てるてる坊主のご利益か、運動会当日は、雲ひとつない青空が広がった。

 学校でわたしを見るなり駆け寄ってきた美鈴さんは、「ふっふっふ、今日は秘密兵器をもってきたんじゃよ~」と目を細めた。右手を背中にまわして、明らかになにかを隠している。

「秘密兵器?」

「おうよ。そこでクイズじゃ。いくらとられても減らないものって、なあんだ?」

 美鈴さんが、人さし指を振って、ものすごくかわいらしいポーズをつくる。

「……歳(とし)」

 そう答えたとたん、美鈴さんの口がへの字に曲がる。

「ブッブー。それ、ほんま言うたらあかんやつやで、アリ子」

 なんで関西弁なの?と首をひねっていると、美鈴さんは、念押しで先回りをするように「あと、相撲もちゃうからね」と言った。

 相撲……? あ、そうか、なるほど――と、つい感心してしまう。

 うーん、しかたないなあ、と思いながら、わたしはため息まじりに「写真、カメラだよね」と答えた。「それと、“アリ子”はぜったい禁止だから」

 たちまち美鈴さんの顔がほころぶ。

「ピンポーン! 正解で~す! じゃんじゃじゃ~ん!」

 背中にまわしていた手がすっと前に出て、現れたのは、コンパクトサイズのデジタルカメラ。

「もしかしなくても、それが秘密兵器?」

 わたしの薄いリアクションを見て、たちまち美鈴さんは眉を八の字に曲げた。

「なんだよ、その“ははん、この程度ものか”っていう、もろにがっかり感のただよう顔は」

 そのとき、むしろわたしは、美鈴さんの「秘密兵器」が“この程度もの”だったことで、ほっとしてたんだけど……。

「小羽子の晴れ姿をバッチリおさめようと、この日のために大枚はたいたんだからね。ええと……そうそう、シミズの舞台からバンジー・ジャンプってやつさ。ほら、まだ箱から出したばっかり、ピッカピカの新品なんだぞ」

 それを言うなら、清水(きよみず)の舞台から飛び降りる、でしょ……。

「あの、一応きいとくけど、記録用のカードと充電を忘れてた、なんてオチじゃないよね」

 母がそう言うと、美鈴さんは、頬をふくらませた。

「あ、バカにしたな! いくら機械オンチのあたいだって、そこまでアホじゃないから!」

「なんだ、そうなんだ……」

 母は、本気でがっかりしたような声を出した。

 家で聞いてる分には楽しいけど、ここで漫才トークはやめてほしいなあ……。

 そう思いながら、やれやれ、と両肩の力をぬいたその瞬間、「隙あり!」の声とともに、デジカメのフラッシュが、わたしの前で閃光を放った。

「ちょ、ちょっとお。いきなり、ことわりもなく撮らないでよぉ」

 わたしの文句を、美鈴さんは、もはやまったく聞いていない。

「ふ、ふ、ふ。シャッターチャンスを常に逃さないのが、カメラマンの本能よ。これぞ、フランチェスカ美鈴号による記念すべき一枚目じゃ」

 フランチェスカ美鈴号って、なに?……もしかして、このデジカメの名前?

 美鈴さんが、にやけた顔でカメラの画面を覗きこむ。

「おお、映像の魔術師、園田美鈴、まさに会心の一枚なりね」

「なにが魔術師よ。パパラッチ美鈴のまちがいじゃないの?」

“パパラッチ”というのは、そのころテレビで聞いて覚えたばかりの言葉だ。

 美鈴さんは、「おお、言うねえ」と目を丸くしてから、「パパラッチ美鈴、うん、ぴったり決まったね。サンクス、アリ子」とうれしそうにうなずいた。いやいや、ほめたわけじゃないから……。

 それから美鈴さんは、「お! ついでに一句できたぞ」と、にんまりした。

 いやな予感がしつつも、「なによ、一句って」とたずねてみる。

「天高く、小羽子のブルマーかわいいな――どうだい、傑作じゃろ」

 美鈴さんは、にっ、と笑ってウィンクした。

 わたしは顔を真っ赤にし、「なにが“どうだい”よ! とにかく、人前ではもう、ぜえったいにそういうこと言わないでね!」と念を押した。

 美鈴さんは、あっけらかんとしながら「おいおい、あんまり注文が多すぎると、アホタンチンの美鈴さんには覚えきれんぞ~。なにしろ、底抜けバケツじゃからな~」と笑った。

 その隣では、母までが「そりゃあ、確かにそうだね~」と笑っていた。

 わたしの心配なんてどこ吹く風という感じで、ふたりが楽しそうにしているのが、なんだか、ちょっと癪だった。

 むくれ顔で立っているわたしのお尻を、美鈴さんがポンとたたいた。

「きゃ! なにするのよ!」

「そろそろ集合の時間じゃろ」

「……ねえ、なんで美鈴さんは、そんなに楽しそうなの? 自分が出るわけでもないのに」

「だってさ、人生は、お祭りだからね。こういうときこそ、いっしょに楽しまなきゃ。ほらほら、いっといで」

 美鈴さんは、笑って、もう一度わたしのお尻をたたいた。


 黙って立っているだけでも、美鈴さんは、やっぱり目立った。

 編みこんだ髪をシックなシニヨンにして、淡いブルーのシフォンブラウスに身をつつんだ美鈴さんは、いつにも増してきれいだった。

 黙っていても目立つ美鈴さんは、黙っていなければ、当然もっと目立った。

 わたしの姿を見つけるたび「おーい、小羽子~!」と声をあげ、デジカメのシャッターを切る美鈴さんは、周囲の注目を一身に浴びまくっていた。わたしもまた、友だちから「ね、ね、あの人だれなの?」と、ひじでつつかれまくるはめになった。

 競技の合間に保護者席へいき、「も~、やめてよね~!」と言うと、美鈴さんは「え~、約束はちゃんと守っとるじゃろが~」とふてくされた。

「ま、この場合、美鈴の言うとおりだね」と、ここでも今日の母は、美鈴さんの味方だった。

 ちなみに、まわりの人から「小羽子ちゃんのご親戚のかたですか?」とたずねられると、美鈴さんは、にっこりほほえんで「はい、姉のようなものです。おほほほ」と答えていた。いかなるときも「おねえさん」ポジションだけは、けっして崩さない美鈴さんなのだった。

 そうだ、これはきっと“もっと心の広い大人になりなさい”という神様の試練なんだ――そう自分に言い聞かせて、わたしはクラスの場所にもどった。

 それからも美鈴さんは、保護者席で目立ちまくりながら、豪快な笑いを周囲に振りまいていた。最初は、“もうこれ以上目立たないでよ~”とハラハラしながらそれを見ていた。けれど、わたしは、いつの間にか自分が、そのハラハラを楽しんでいる自分に気づいた。

 いつもの美鈴さんが、いつものようにそこにいる。その隣には、笑ったり怒ったりしている母がいる。そのことが、なんだかすごくうれしくて、楽しい。

 こんな運動会は、初めてだった。休日でも仕事が入る母は、運動会には、こられたりこられなかったり。でも(こんなことを言ったら、ぜったい母はショックを受けると思うけれど)わたしには、母のこない運動会のほうが、ほんとは気楽だった。

 今も昔も、わたしは、母に甘えたり、ものをねだったりするのが苦手な子どもだ。母が、けっして無理をして運動会にきているわけではない、とは思っても、それでも、母がそこにいることが、わたしを心苦しくさせた。

 わたしは、行事というと、いつもなにかに緊張して、身がまえっぱなしのうちに終わってしまったという記憶しかない。とりわけ運動会は、体育がさほど得意でないわたしにとって、あまり楽しい行事ではなかった。

 わたしには、運動会で母に見せる晴れ姿などなかった。わたしにとっての運動会は、いつも“思い出のない、とても長い一日”だった。

 それでも、母の一生懸命な応援が、うれしくないはずはないのに、気がつけばわたしは、その声から耳をそむけるようにしていた。わたしは、母のいる運動会を、母といっしょに楽しむことができなかった。ひどい子どもだったと思う。

 でも、この日の運動会は、ちがった。

 ふと目を向けると、そこには、子どものようにはしゃぐ美鈴さんと、それをたしなめる母。すっかり見慣れたいつもの風景。まるで、わが家の居間が、そのままそこに移ってきたみたいだった。運動会に集中しているつもりでも、いつの間にかわたしの心は、その輪の中でふたりといっしょになって笑っていた。

 地味なわたしと豪快できれいなおねえさん。やっぱりしばらくはクラスで話題にされちゃうかなあ、と思ったけれど、それも、そんなにいやじゃなかった。

 そして、神様は、最後の最後に、もうひとつオマケをくれた。わたしにとって、小学校の運動会で最終競技となる障害物競走で(これ自体が、徒競走の苦手な児童のためのオマケみたいな競技だったのだが)、わたしは、みごと二位になったのだ。

 競技コースの最後にクイズコーナーがあった。

 テーブルの上に紙が並んでいる→そのうち一枚を選ぶ→そこに書かれたクイズの答えと同じものを会場のだれかから借り、それを持ってゴールするというルール。

 そのとき、わたしが選んだ紙に書かれていたクイズが「いくらとられても、減らないものはなんでしょう」だったのだ。そのクイズを見たときは、さすがに噴きだしそうになった。いたずら好きの神様、ちょっと遊びすぎではないですか……。

 ほかの子は、けっこうみんなクイズでてこずっていたから、わたしが引き当てたのは、たぶん一番簡単なラッキー問題だったのだろう。

 こっちに向かって声をあげている美鈴さんを見つけるのは、もっと簡単だった。

 わたしは、「美鈴さーん! フランチェスカー!」と叫びながら、美鈴さんのもとに駆けていった。「お、おう!」とあわてて美鈴さんがさしだした手からデジカメを受けとり、大急ぎでコースに戻る。

 あとは、ゴールまで一直線に走るだけ。そのとき、校庭をつつむ大歓声の中から、ひときわ大きな声が、わたしの耳に響いた。

「きばれぇ! 飛ぶんだぁ! アリ子ぉ!」

 そのまま、倒れるようにゴールへ飛びこんだわたしは、二位のフラッグを渡されてびっくり仰天した。小学校の六年間、スポーツ関係の行事で入賞したことなんて、これまで一度もなかったのだ。

 保護者席を見ると、母と美鈴さんが立ちあがって手を振っていた。特に美鈴さんは、ぶんぶんと両手を振りながら、「アリ子、やったなあ!」と叫んでいた。

 私はそれに応え、フラッグを持った手をかかげて、「お母さん、美鈴さん、やったよー!」と言いながら、ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねまわった。

 そのとき、美鈴さんが思いきりわたしを「アリ子」と呼んでいたことに気づいたのは、翌日、友だちからそっと「ね、“アリ子”って、小羽ちゃんのこと?」と、きかれてからだった……。

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