第二章 クチナシとアカシヤ Ⅱ

 美鈴さんは、高校を卒業後、すぐに鹿児島を出て、福岡の小さな会社に就職したのだそうだ。

「なんで県内じゃないの?」と母にきかれ、美鈴さんは「あたいの器は、ドカ灰まみれの鹿児島なんかにはおさまらんのよ。いずれ、世界に羽ばたいていく女じゃからね」と笑ったという。

 でも、美鈴さんは、その就職先を半年ほどであっさりやめてしまった。

 そのあと、ときたま母のもとに届く手紙は、書かれている住所が、広島だったり静岡だったり、そのたびにちがっていたらしい。

 母は、地元の大学に進み、別の大学の学生だった父と知りあって、卒業後に結婚。その後、横浜の本社勤めが決まった父とともに九州を出た。

 母もこちらで仕事を得て、ようやく生活が落ちついたころ、わたしが生まれた。父母が、ともに二十五歳の時だ。

 しばらく音信不通になっていた美鈴さんが、わが家をひょっこり訪ねてきたのは、それから半年ほどたったころらしい。季節は晩秋で、母は「玄関がガタガタ鳴ってるので、木枯らし一号かと思ったら、美鈴だった」と、冗談まじりにそのときのことを話してくれた。

 美鈴さんは、玄関に入るなり、紙袋から亀屋万年堂のナボナをガサゴソ取りだして、「これってさ、なんか帰省みやげっぽくていいじゃろ」と意味不明の自画自賛をしたらしい。

「いきなりやってきて、勝手に人の家を帰省先にしないでよ」とあきれる母に、「つまりさ、わが心の故郷への帰省ってやつ?」と、さらに意味不明の答えを返した美鈴さんは、「さっそく食べようよ、こういうの、ほら、なんていうんだっけ、そうそう、おまたせ」と、なんの遠慮もなく家にあがりこんだ。

「それを言うなら、おもたせ、でしょ」という母のツッコミにも当然耳を貸さず、そして、やっぱり勝手知ったるわが家のごとくくつろぎまくり、母が入れた茶に茶柱が立っていた、というので、彼女は終始ごきげんだったという。

 それから、なんの遠慮もなく家の中を見てまわった美鈴さんは、昼寝から覚めたばかりのわたしを見つけた。

 美鈴さんは、わたしを抱きあげ「おお! こりゃ、よかおごじょになるぞ~!」と、ようやく髪の毛が生えそろってきたわたしの頭を、がしがしとなでまわしたそうだ(そう、わたしが美鈴さんに頭をなでまわされたのは、あの夏が初めてではなかったのだ)。

 まだ、人見知りをはじめる前のわたしは、大喜びで、きゃっきゃと声をあげたという……。

 以上は、のちに母と美鈴さん、それぞれから聞いた話をひとつにしてあるので、すべてが事実そのものであるかは不明である(特に、わたしが美鈴さんに頭をなでられ、大喜びだったというあたり)。でも、美鈴さんのふるまいは、たぶん、ほとんどこのとおりだったんじゃないかと思う。なにしろ、ほぼその再現となる場面をわが身で体験しているのだから。

 それから、しばらくの間、美鈴さんはちょくちょくわが家に顔を出し、父ともすっかり打ち解けた仲になってしまったらしい。父は、だれやめ仲間ができたと喜び、母は、焼酎飲(しょつの)んごろががふたりになってしまったと嘆いた――鹿児島では、焼酎で晩酌することを“だれやめ”、焼酎好きの飲んべえを〝焼酎飲んごろ〟と言うのだそうな――。

 興が乗ってくると、ふたりは百年来の同志のように肩を組み、「ダンナさん! 春花をたのみましたよ!」「はい! たのまれました!」とエール交換?したあとで、「茶碗蒸しの歌」という(鹿児島県ではだれもが知っているらしい)歌を合唱したという。

 さらに酔いがまわった父の口癖は「おいは、美鈴さんの男気にほれた!」という、けっこうとんでもないもので、美鈴さんは、そう言われるたび「がはは! わっぜうれしか~!」と豪快に笑いかえしていたそうだ。

 そんな美鈴さんが、またいなくなった日のことを、母が話してくれたことがある。

なにか、深い思いに沈みながら「結局、あの日のことは、今思い出してもよくわからないの」と母は言った。

 年もあらたまり、暦の上では春も立とうというころ――その日、例によってふらりとやってきた美鈴さんは、いつになくぼんやりとしていた。それに気づいた母が「どうしたの? ちょっと変よ。鬼の霍乱(かくらん)?」とたずねると、美鈴さんは「そうかもね」と笑った。

「なんか考えちゃってさ。ちょっとやばいかな、って」

「やばい?」

 母には、その言葉の意味がまるでわからなかった。

「最近、あたい、ここに入りびたりだろ。それでさ」

 それを聞いた母は、思わず「なによ、それ」と噴きだした。

「おいおい、なんでそこで笑うんだよ」

「だって、美鈴がそんなこと気にするなんてさ。ほんとに熱でもあるんじゃないの? それとも、天変地異の前触れ?」

「ははは、じゃっどん、ちょっとそれ、ひどくないか?」

「だって、他人(ひと)の迷惑なんていっさい考えない、ずうずうしさが服を着て歩いてるような人間がさ、急に変なこと言いだしたら、そりゃあ、びっくりもするわよ」

「前々から思ってたけどさ……あんた、友だちに対して容赦なさすぎだよ」

 いつもと変わらない軽口の応酬に母が少しほっとしていると、美鈴さんは「でもさ、あたいが言ってるのは、そういうことじゃないんだな」とつぶやいた。

「なによ、そういうことじゃないって。ほんと、わけわかんないよ」

 まなじりをあげる母に、美鈴さんは、困ったような顔で答えた。

「あたいにも、うまく言えないんだよ。だから、まいってるんだ。ここはさ、なんというか、居心地が良すぎるんだよ」

「それの、どこがやばいの」

「だから、ずっとここにいちゃいけないんだよ」

 母は、はっとして美鈴さんの顔を見た。

「もしかして、またどっかにいっちゃうってこと?」

 美鈴さんは、その問いに答えず、母に向かって逆にたずねた。

「春花、今、幸せだよな」

「え? なによ、いきなり」

「答えてほしいんだ」

「そりゃあ――うん、幸せだよ」とまどいながら、母はうなずいた。「たぶん、これ以上望むものなんてないくらい、幸せだと思う」

 母の答えに、美鈴さんもゆっくりうなずいた。

「ありがとう。わかりきった答えだけど、春花の声で、ちゃんとあたいの胸に刻んでおきたかったんだ」

「ねえ、どうしたの? ほんとに変だよ、今日の美鈴」

「ははは、そんなに変じゃろかい」

 美鈴さんは、笑って頭をかいた。

「春花たちを見ててさ、幸せっていうのは、こういう場所にあるんだなあってことが、あたいの心にも沁みたんだ」

 それから、美鈴さんは母の目を見て言った。

「ずっとあんたたちの幸せのご相伴(しょうばん)にあずかっててさ、さすがに少し考えちまったんだよ。あたいも寅さんの弟子みたいな暮らしに見切りをつけて、そろそろ落ちついてみようか、とかさ」

「え――あ、うん」

「いっそのこと、身をかためてもいいか――なんて、まあ、そういうことを、ちょっと思ってみたり、とかさ」

「うん…………え?」

 母は、一瞬あっけにとられたあと、美鈴さんを見た。

「それ……ほんとなの? ね、ほんとにほんと? ちゃんとお相手のいる話なの?」

 身を乗りだして念を押す母に、気圧(けお)されるように、美鈴さんは口ごもった。

「そりゃ、うそってわけじゃないよ。それに、考えてる相手もいないのに、こんなこと言うわけないだろ」

「じゃあ、ほんとなのね。よかったあ」

 半分涙目になり、母は美鈴さんの手を握りしめた。

「ね、お相手ってどんな人なの? 今度、ちゃんと紹介して」

「いや、今のところ、ぼんやり考える程度の話でさ。ていうか、ほとんどあたいが勝手にそう思ってるってだけで……。あたいは、ほら、このとおり、根がフラフラした人間だし」

「うん、それでもいいよ」

 握った美鈴さんの手を離さないまま、母は美鈴さんに身を寄せた。

「あたしは、美鈴がどんな自由な生き方をしてもいいって思ってる。でなきゃ、美鈴の友だちなんてしてない」

 美鈴さんは、「喜ぶべき言葉かどうか、微妙じゃなあ……」と笑った。

「ね、あたしの話、ちゃんと聞いて」

「あ、うん、聞いてるよ」

「あたしはね、あんたが信じるやり方で幸せになってくれれば、それでかまわない。でも、ひとつだけ約束してほしいの」

「約束?」

「お願いだから、勝手にひとりでどこかにいったりしないで。ふらっと旅に出たっていい。だけど、どこへいったかわからない、連絡もとれない、そんないなくなり方は、もうしないで」

「それでひとつの約束なのけ? うーん……けっこう、むずかしいなあ」

 笑う美鈴さんを、母はきつくにらんだ。

「むずかしくない」

「わかったよ……約束する」

 美鈴さんが深くうなずくと、母はようやく安心したように、握っていた美鈴さんの手から、指を離した。

「ねえ、さっきの話――」

「え……なんだっけ」

「もう……将来のこと考えてる人がいる、って話よ」

「ああ、うん」

「いつか、きちんと話せるようになったら、そのときは、必ずあたしに一番に――ね?」

「はいはい、わかってるって」

「『はい』を二回言わない!」

「はいはいはい」

「反抗期の子どもか、あんたはもう……」

 いつもの調子にもどった美鈴さんと母は、いつものように他愛のない会話に花を咲かせた。そして、いつものように「ばっはは~い」と手を振って、美鈴さんは帰っていった。

 それきり、美鈴さんは、ぱったりとわが家に顔を見せなくなった。彼女から聞いていたアパートの電話番号も通じなくなり、ふたたび美鈴さんの音信はとだえた。

 木枯らし一号の季節にやってきた美鈴さんは、春一番に乗るようにして、突然わが家から去ってしまった。それから、あの夏の来襲(わたしにとっては、そうとしか呼びようがない)まで、彼女の消息は、ずっとわからずじまいだった。

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