第二章 クチナシとアカシヤ Ⅰ

 美鈴さん――わたしに向かって「素直じゃない」と言い、「腹黒」とのたまった人。わたしを“アリ子”と呼び、「アリ子のあら探しは、あたいの趣味みたいなもの」と楽しそうに笑った人。

 美鈴さんは、母の高校時代からの友人だった。双方の言葉を借りるなら、「腐れ縁の悪友」ということらしい。

 フルネームは、園田美鈴。きれいな名前のとおり、整った古風な顔立ちで、束ねた長い黒髪がとてもよく似合った。

 なにしろ、黙って通りを歩けば、ほとんどの男性が振りむくんじゃないかというくらいの美人。そう、あくまでも「黙って歩けば」の話だ。

 美鈴さんが頻繁にわが家を訪れるようになったのは、父が亡くなってからだった。

 父は、得意先を軽トラックでまわって注文の品を届け、会社にもどる途中、国道で追突事故に巻きこまれた。父に過失はなかった。

 覚えているのは、報せを受け、公園で遊んでいたわたしをさがしにきた母の「小羽子!」という声。驚いて振りむくと、今まで見たこともない、取り乱して顔を真っ青にした母が、杏色の夕焼けを背に立っていた。母は、裸足だった。

 近所の人が呼んだタクシーに乗り、母とわたしは搬送先の病院に向かった。母は、タクシーの後部座席で、ずっとわたしを抱きしめていた。

 けれど、わたしたちを待っていたのは、なにもない真っ白な病室と、冷ややかなベッドの上で永遠に物言わぬ人となった父だった。

 わたしは、小学二年生だった。

「死」がどういうものなのかは、子どもなりに理解していた。でも、大好きな父が突然この世界からいなくなった理由を、それと結びつけて受けいれるには、わたしはまだあまりに幼すぎた。

 家の中にぽっかりと開いた空間は、父がもうそこにいないという事実を、これ以上はない冷酷さで、わたしに告げていた。母の憔悴しきった表情から、父は二度と帰ってこないのだ、ということも、わたしは悟った。それでも朝になって目が覚めれば、いつも父がいた場所に、あの大好きな丸い背中がないかをさがした。

 その場所に、ある日ずけずけとあがりこんできたのが、美鈴さんだった。

 夏休みに入って、しばらくたったころだと思う。

 その日母は仕事が休みで、たまった家事を涼しいうちに片づけるのだと、朝早くからゴミ出しやら洗濯やらに精を出していた。

 ちょうどそのとき母は台所にいて、わたしは、日がかげった和室で畳の上に寝そべり、真っ白な日記帳をぼんやりと見ていた。

 父のいない夏休み。日記に書くことなど、なにもなかった。

 突然、玄関の引き戸が開くガラガラという音がした。続いて、女の人の甲高い声が響き渡る。

「チャオ~! 春花ぁ! いるか~?」

 春花というのは、母の名だ。でも、母をそんなふうに呼び捨てにする人は、わたしが知っている女性の中にはひとりもいなかった。

 台所から、母がわたしに声をかけた。

「小羽(さわ)ちゃん、ごめん! 手が離せないの。玄関に出てくれる?」

「うん」

 そう言って立ちあがりかけたとき、ちらりと見た母の背中が、少しあわてているのがわかった。

 わたしは、結局真っ白なままの日記帳をその場に投げだして、玄関へ走った。

 コンクリートの土間に、片手にスイカをぶらさげた女性が、大きな影になって立っていた。わたしは、ぼんやりしたままの頭で「わあ、すごくきれいな人」と思った。

 女の人は、長い髪をポニーテールにして、ハワイの人が身につけるような青い花柄のムームーを着ていた。細いタバコをくわえていて、その赤い火口(ほぐち)の周囲だけが、影の中にふわりと浮かんでいたのを覚えている。

 わたしが近づくと、女性は、「お!」と言って、スイカの入った網を、板張りの上がり口にゴロンと置いた。それから、取りだした携帯灰皿に吸いかけのタバコをねじこみ、ふたたび大きな声を玄関に響かせた。

「あらいよ~! もしかしてバンビか! あたいを覚えてる? そんなわけないか。あんときはまだあんた、バブバブ言ってたからねえ」

 女の人は、両手を腰に当てて、からからと笑った。

「ほうら、おみやげだよ~」

 スイカを見せ、腰をかがめて笑いかける女性に、わたしは恐るおそる近づいた。

「ちぇすとぉ!」

 頭に、ガンッという鈍い衝撃が走る。最初は、なにが起こったのかも理解できなかった。

「はっはっは。隙ありだよ~」

 女の人が、手刀のように手のひらをかざし笑っているのを見て、いきなりチョップを食らったのだということがわかった。

 え? なに? なんなの?

 大混乱のまま突っ立っているわたしに、女性はふたたび顔と手を近づけてきた。動くこともできず、わたしは、思わず目を閉じ、その場で首をすくめた。

 すると、女の人は、今度はわたしの髪をぐしゃぐしゃとなでまわした。

「ほんのこっ、こまんかむぜおごじゃねえ!」

 こまん……かむ……ぜおご?

 なにがなにやらわからず、わたしは、ひたすら女性のなすがままになっていた。

「よぉし! 決めた! おまえは、アリンコみたいにちっちゃいから、アリ子だ!」

 そのとき、ようやく玄関に走ってくる母のスリッパの音が聞こえた。

「美鈴! なにやってんの、あんた!」

 美鈴と呼ばれた女の人が顔をあげ、ようやくわたしは、彼女の魔の手から解放されたのだった。

「よお! 春花! おひさ~!」

「おひさじゃないわよ、あんた、なにしにきたの!」

 母のあきれ声が、まだジンジンしている頭の上で響いた。

「おいおい、大の親友が久々に訪ねてきたっていうのにさ、いくらなんでも、なにしにきた、はないっしょ」

「どこの親友よ! 七年半も音沙汰なしで、いきなり押しかけてきて」

 がはは、と、女の人は頭をかいた。

「ほら、あたいは、風の吹くまま気の向くまま、お天道さまと生きてるフリーダムな女だからさ」

「なにかっこつけてんの、要は、糸の切れた凧ってことでしょ」

「せめて、ええと……なんだっけ、あ、デラウェアと言ってほしいね」

「もしかして、デラシネ、とか言いたいの?」

「ああ、それそれ。そのデラデラ。さすがは春花、インテリさんじゃが」

「なに言ってんだか……。だいたい、なんであたしが、あんたの言いたいことをいちいち翻訳しなきゃいけないのよ」

 はあ、という母の深いため息がわたしの頭にかかる。

「どうしていつもそんなにお気楽なの、あんたは」

「世の中は、気楽に暮らせ、なにごとも――ってね。これ、あたいのモットー」

「……あいかわらずのぼっけもんなんだから」

「いやあ、春花にほめられると、うれしいねえ」

「ほめてないでしょ! あんた、今すぐ耳鼻科にいったほうがいいわ」

「あいた~。あいかわらず、キリキリッにクールじゃなあ」

 女の人が、かっかっか、と、時代劇のお侍さんみたいな笑い声をあげる。

「それよか、ほら! こっちも、キリキリッにクールなスイカじゃっど~!」

 女の人は、すごく得意げに、顔のところまでスイカを持ちあげた。

 眉根を寄せ、メガネを人さし指でおさえながら、母がポツリと言った。

「うそつき」

 女の人が、静かに頭をさげた。

「ごめん」

 母は、もう一度深いため息をついたあと、あきらめたように、くすりと笑った。

「ほんと……ぜんぜん変わってないのね」

「おかげさまで」

「それと、お願いだから、小羽子の前で、あんまり変な言葉使わないでよ」

「はいはい」

「『はい』を二回いわない」

「はいはいはい」

「まったく……あんたって人は……」

 ふたりが、なにかの合図みたいに顔を見あわせて笑った。

「とにかくあがって。それから……あの人に顔を見せてあげて」

「うん……わかってるよ」

 サンダルを脱ぎかけた女の人に、母が「待って」と言った。

「その前に……今度こそ、あの約束を守るって誓いなさい」

 女の人が、直立不動になった。

「……誓います」

 それから、女の人は家にあがり、廊下を歩きだした……と思ったら、もどってきて、ニカッと笑いながら、またわたしの頭をぐしゃぐしゃにした。

 まるで、夏の嵐だった(かきまわされたわたしの髪の毛も、嵐のようになった)。

 女の人が居間に消えたあとも、わたしはしばらく呆然としていた。

 どのくらい、そうしていただろうか。突然、あの女の人が居間から顔を出し、「おーい、アリ子~、スイカ切ったぞ~、おいで~。めっちゃ甘くてうまいぞ~」と手招きをした。

「なに言ってんの、切ったのはあたしでしょ」という母の声がそれに重なった。

 なに? いったい、なんなの? あの人。

 混乱したまま、子ども心にわたしは腹をたてていた。いきなりやってきて、わたしの頭にチョップしたと思ったら、その頭をガシガシなでまわして、あがりこんだら今度は、まるでずっとここに住んでるみたいにくつろいじゃって……。

 だってここは、わたしとお父さんとお母さんの家だよ。

「こないとスイカ、ぜんぶ食べちゃうぞ~。食べないのか~、ア~リ子~」

 彼女は、切ったスイカを廊下に突き出し、これ見よがしにかぶりついてみせた。

「うっひゃ~、わっぜぇうまか~」

 なによ、ほっぺたにスイカの種までくっつけて。大人のクセに、まるでその辺にいるガキじゃない。

「食べる! それから、わたしはアリ子じゃない!」

 わたしは、頬をふくらませ、両肩をいからせながら、ずんずんと居間に向かった。

 でも、わたしは、心のどこかで気づいていた。

 あんなふうに、だれかと遠慮なく言いあうお母さんを見るのも、人前で笑うお母さんを見るのも、お父さんがいなくなってから、たぶん、初めてだと。

 

 その日わたしは、夏休み最初の絵日記をつけた。

 そこには、こう書かれている。

「今日、みすずさんというへんなおばさんが、すいかをもってあそびにきました。そうしたら、わたしの頭にチョップをしたり、かみの毛をぐちゃぐちゃにしたりしました。チョップはすごくいたかったです。そのあと、おかあさんもいっしょになって、みんなですいかを食べました。今年、はじめてすいかを食べました。すいかは、あまくてとてもおいしかったです」

 しかも、「へんなおばさん」という言葉が太い線で消してあって、その脇に、明らかに別人の筆跡で「きれいなおねえさん」と書きたしてある。断るまでもなく、あとでこの日記を見た美鈴さんが、「だれが『へんなおばさん』じゃ!」と言いながら、勝手に書きなおしてしまったのだ。


 そう、それは、まさに嵐のはじまりだった。

 その日から、美鈴さんは、足しげくわが家にやってくるようになった。

「今夜は、花火大会じゃ!」と言いながら、大量の花火をかかえてやってきたり(その夜、一番大はしゃぎで花火に興じたのは、言うまでもなく美鈴さんだ)、突然、補虫網と虫かごを持って現れ、「アリ子、カブトムシとるぞ!」と無理やりわたしを公園に引っ張っていったり(そのくせ美鈴さんは、ダンゴムシにもさわれないくらい、大の虫ぎらいだということがわかった)……。

 父を失い、真っ白なまま終わるはずだった絵日記は、いつの間にか、にぎやかな絵と文字でうまった。でも、読みかえすと「きょう、みすずさんが○○しました」という記事ばかりだ。わたしの絵日記というより、ほとんど「美鈴さん日記」だった。

 わたしと母と、ひっそりと過ごすはずだった父の新盆(にいぼん)の夏は、美鈴さんに振りまわされているうちに、いつの間にか終わっていた。

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