第一章 ガール・ミーツ・ガール Ⅲ

 わたしは、唖然として、ミュウを見つめた。

「なんで……わかったの?」

 いかにもわたしの狼狽ぶりを楽しんでいる顔で、ミュウがわたしを見かえす。

「頭の上で、ハテナのブーメランが舞ってる、という感じだね」

「だって……確かに、わたしの両親の田舎は鹿児島だけど……」

 でも、わたしが生まれたのはこっちだし、日常生活で九州を意識することなんて、そんなにない。今だって、なにかそれらしいことを口走った覚えは、ぜんぜんないのに……。

「きみは、机まわりの小物を“直しとく”と言った。これは、しまう、とか、片づける、という意味だね。“直す”という言葉を“片づける”という意味で使うのは、基本的に西日本だ。ただ、これだけじゃあ、地方までは特定できない」

 しまった……そんな言葉を使ってたのか……。

「でも、きみはさっき、この紙の名がとっさに出てこなくて、“広用紙(ひろようし)”と言いかけたね」

 ミュウが、「用務心得十条」と書かれた壁の張り紙を指でさす。

「ええ! ばれてたの!?」

 そう叫んだあと、わたしはあわてて口をおさえた。

「ひ」までしか言わなかったし、うまくごまかしたつもりだったのに……。

 もしかして、わたし、ミュウがしかけたトラップに誘導された?

「この紙の呼び名は、関東ではふつう“模造紙”という。きみが言いかけた“広用紙”っていうのは、九州でよく使われる呼び名だ」

「あ、うん……そうらしい」

「要するに、難波(なにわ)の葦は伊勢の浜荻(はまおぎ)、ってわけだね」

 は? なに? それって……ことわざ?

「でも、きみの言葉をずっと聞いてきたけど、九州方言独特のイントネーションやなまりがまったくない。無理に隠してるとか、矯正したとかいうのでもない。そういうのは、本人が意識していなくても、こちらには、なんとなくわかるものだからね」

 ミュウの言うとおりだ。わたしは、地元の人が使う、ちゃんとした鹿児島方言はほとんど知らない。両親が、鹿児島弁で話しているのを聞いた記憶もあまりない(ただ、標準語とちゃんぽんになった鹿児島言葉を適当かつ気まぐれに振りまいていく人物が、つい最近までわたしのまわりにいたことは事実)。

「きみが生まれ育ったのは、たぶんこちら。ただ、まわりの人間が、九州地方独特の言葉を使っていて、それを覚えてしまった、ということは充分にありうる。では、そのまわりの人間とはだれか。当然ながら、その可能性が一番高いのは、いっしょに暮らしてる家族、もしくはそれに近い人ということになる。以上、あくまで蓋然性という視点からの推論だよ」

「すごい……」

 父も母も外勤めの仕事をもっていたから、なるべく方言を表に出さない、という気遣いは、たぶん、ふだんからあっただろう。ただ、今にして思えば両親は、特にわたしの前では、意識して鹿児島言葉を出さないようにしていたのではないか。わたしが、中途半端になまりを身につけたりしないように。

 ところが、方言として意識することもなく、日常語として身に染みついてしまっている言葉というのがある。それを聞いて育ったわたしも、あたりまえの表現としてそれを身につける。“直す”もそうだし“広用紙”もそうだ。特に“広用紙”という言葉は、仕事で文房具を扱っていた父が、けっこうふつうに使っていたから、それが正しい言い方なのだと、長い間信じこんでいた。

 けれど、それが自分以外の人間にとっては“変わった言葉”なのだ、ということも、だんだんわかってくる。特に子どもの世界では、そういうことに敏感にならざるを得ない。掃除の時間に「そのいす、直して」と言ってしまい、「おれは、大工じゃないから、椅子なんか直せないよ」と笑われたりする。そんなことが繰りかえされ、そのたびに「しまった」と思い、口をつぐむ。心のどこかが傷つき、少しだけ臆病になり、そしてその分、人の心をはかる狡猾な人間になる。

 それにしても変てこな気分だった。“直す”という言葉も“広用紙”という言葉も、もう何年もの間、口にした記憶がない。とっくに記憶の隅にしまいこんでしまったはずの言葉なのに……どうして今日にかぎって口をついてしまったのだろう。

 変てこというなら、わたしが初対面の女の子を相手に、なんの警戒心もなく、まるでずっと昔からの友だちみたいに話をしていることだって、充分すぎるほど変てこだった。

「友だち」と呼ぶ仲間に対してさえ心を開くことが苦手で、その分、だれに対しても、適当に距離をとることだけは心得ている、自分はそういう人間だと、ずっと思ってきた。

 それが、だれからも好かれる優等生、本多小羽子の正体だ。

 あの人に言われるまでもなく、わたしは「腹黒」な、ずるい人間なのだ。

 そんなわたしが、目の前にいる、さっき出会ったばかりの少女と友だちになりたいと、今、心から願っている。それがなぜなのか、この思いがどこからやってくるのか、わたし自身にも、まるでわからなかった。

 ミュウが、壁の小さな黒板に歩み寄り、黒板消しを手にした。

「もっと限定的な、ある特定の地域でしか使われない言葉ということでよく知られているのが、たとえば、この黒板消し。きみの親御さんの故郷、鹿児島では、これをごくふつうに“ラーフル”と呼ぶ。どう? きみは聞いたことがあるかい」

 さすがに日常で使ったことはないけれど、言葉としては、ちゃんと知っていた。

「昔、父が笑い話で『鹿児島以外では、まるで通じなくてびっくりした』って言ってた」

「そういう話はよく聞くね。その地方ではだれもがあたりまえに使っているから、外に出て初めて、それがローカル語だとわかる。それってけっこう、ショックな体験らしい」

 話を続けながら、ミュウの手が、テーブルの上の器へ伸びる。おもむろにその手がつまみあげたのは、小袋入りの揚げせんべいだった。

 え? 紅茶のお供に揚げせんべい?……などという、わたしの疑問など知らぬ気に、ミュウは、せんべいを袋から取りだし、パリン、と気持ちのいい音を立ててかじりついた。

「この醤油とみりんの香ばしい甘じょっぱさが、紅茶の渋みと抜群に相性がいいんだ」

 そ……そうなんだ。

 至福の表情で、ミュウは、またたく間に揚げせんべいを食べきってしまった。なんだか、こういうところは、わたしなんかよりずっと子どもっぽくてかわいい。

「あ、そうだ――」わたしは、はっと思いついた。「中学のとき、日直で用品庫に黒板消しを取りにいったら、箱に“ラーフル”と書いてあって、逆にびっくりしたことがあるよ」

「ああ、うん、いい指摘だね」

 ミュウが、にこっと笑った。右側の口の端に、ちらりと八重歯がのぞく。おお、新たなチャームポイント発見!……なんて、煩悩まみれになってしまうわたし。

「“ラーフル”という言葉は、文房具メーカーや卸業界では、むしろふつうに流通しているんだ。カタログなんかにもちゃんと“ラーフル”という名称で黒板消しが掲載されているし、きみが見たように、商品梱包用の外箱にも “ラーフル”と明記されていたりする。じゃあ、実は“ラーフル”こそが、黒板消しの正式な名称なのかというと、それも怪しい。そもそも、“黒板消し”の意味にぴったり当てはまる“ラーフル”という外国語がなくて、語源すら特定できないんだよ」

「え? そんなことってあるの?」

「ぼろきれを意味するオランダ語が語源だって説が有力らしいけどね。要は、“黒板を拭く布”という意味で使われていた“ラーフル”という言葉を、文房具業界が“黒板消し”の呼称として長年使用してきた。それがかつては、学校を中心に一般名称として普及していたけれど、次第に淘汰されていって、鹿児島やその周辺の県だけに生き残って定着したんじゃないか、ということのようなんだ。ただ、これとは別の説もある。たかがローカル語、されどローカル語。なかなかに奥は深いよ」

「へえ……深雪ってすごくいろんなこと知ってるね。びっくりした」

 わたしは、尊敬のまなざしをミュウに向けた。「用品庫で“ラーフル”発見」の謎が、数年越しで解決しただけでも、わたしにとっては感動だった。

「知識といっても、本を濫読して仕込んだ雑学の範疇だからね。スクラップブックにためこんだ切り抜きと同じで、実益性にはとぼしいよ」

 軽く返されてしまった。でも、すごいことには変わりがない。わたしと同じ高校一年生(年上だけど)だなんて、とても思えない。

「実をいえば、言葉のショック体験は、ぼくにもあるんだ。小学校のとき『きのうの買い物調査』というのがあってさ、その発表をあてられたぼくは、わが家の買い物リストを読みあげて、思いきり大きな声で『キユーピー』と言ったんだ。そうしたら、まわりは大爆笑。なにしろ、先生までが『天坂さん、それはマヨネーズのことですか』って笑いをこらえてるんだ」

 そのときのことを思い出しているのか、ミュウの眉間に深いしわが寄った。

「そうさ、ぼくの家では、マヨネーズのことを『キユーピー』と呼んでたんだ。まさかそのことでクラスの笑いものになるなんて、想像もしていなかったよ! 七歳のぼくの心に開いた傷は、今も消えないまま大きな跡になって残っている」

 ローカル語よりもさらにローカルルールな勘違いという気もするけど、わたしには、この「キユーピー事件」を笑い飛ばすことはできなかった。しかも、先生まで生徒といっしょになって笑うなんてひどすぎる。心の傷になって当然だ。

「そうか……ショックだよね、そういうのって」

「ショックというより、理不尽じゃないか。商品名で呼ばれてる品物なんて、星の数ほどあるのに! ステープラを『ホッチキス』と呼んだ奴が、笑い者になったなんて話は聞いたことがないよ! 『セロテープ』や『マジック』だって、そうだろう? 『カルピス』はよくて、森永の『コーラス』はだめなんて、そんなバカな話があるかい?」

 たぶん、だれもそんなことは言ってないと思うけど……。

「たったひとつ救いだったのは、マーガリンのことを『ラーマ』と呼ばずに済んだことだけさ。もしそんなことを、うっかり口にしてしいたら、ぼくのあだ名は、その日から“ラーマちゃん”になり、クラスの連中のおもちゃとして、“パンにはやっぱりネオソフトだろ!”とか、バカにされる毎日を送ることになっただろう。ああ! 想像しただけで、身の毛がよだつよ!」

「安心して。わが家も、ずっとラーマだよ」

「え! そうなのか!」

 わたしは、「うん!」と力強くうなずいた。

 その瞬間、二人の間に“絆”という名のあたたかな糸が通いあっていくのがわかった。

 ミュウは、興奮気味だった表情を解き、ふっ、と息をつく。

「まあ、いざ他人(ひと)に話してみると、ずいぶんと情けない体験ではあるけどね」

「それはそうかもしれないけど……でも、他人に話して楽になることだってあるよ!」

 突然わたしが両こぶしに力をこめたので、ミュウは、あっけにとられた顔になっている。

「ああ、やっぱりきみは、おもしろいなあ」

 そう言われても、だんだん悪い気がしなくなってきていた。

「うん、確かに今、少しだけ、心の傷を自己解放できたような気がするよ」

 あはは、それって、ちょっと簡単すぎるような……。

「ああ、そうだ。紅茶がさめすぎてしまうね」

 ミュウは、カップボードからきれいな白磁のカップを取りだし、テーブルに置いた。

 ティーサーバーからカップへと紅茶が注がれる。

 とたん、華やぐように豊かな香りがあふれ出した。

「いつもはストレートでしか飲まないけど、今日はおいしいハチミツが手に入ったから、とっておきのアールグレイとあわせてみることにしたんだ」

 サーバーといっしょにミュウが持ってきたのは、ハチミツの瓶だった。ハチミツ入りの紅茶、そう聞いただけで、なんだかもう、うきうきな気分になってしまう。

 黄金色に輝くハチミツを瓶からすくい、紅茶に落とす。スプーンがゆっくり弧を描くと、たちまちあの甘い香りが、あたり一面に広がった。紅茶の香りがさらに華やぎを増して、秘密の花園に招待されているような幸福感が、わたしを満たしていく。

「まあ、しゃっちょこばってないで、せんべいでも食え」

 突然、ぶっきらぼうな声で、ミュウがせんべいを持つ手を突きだした。

「え……あの……」

 とまどうわたしを見て、ミュウが口もとをほころばせる。

「一年前、ぼくも、きみが今いる場所に、しゃっちょこばって(・・・・・・・・・)座ってたんだ」

「あ……じゃあ……」

「うん、おいちゃんがいれてくれた紅茶で、おいちゃんにもらったせんべいを食べた。信じられないくらい、おいしかった。魔法のお菓子みたいだ、って言ったら、怖い顔してたおいちゃんが初めて笑ったんだ。嬢ちゃん、おもしいろいこと言うな、ってね」

「そうだったの……」

「それから、この部屋に通うことが、ぼくの日課になった。ぼくが“きたよ”って言うと、おっちゃんが“おう”と答えて、お茶と揚げせんべいを用意してくれる。今考えると、まるっきり食べ物に釣られた猫みたいだけどね」

「ははは」

 確かに、ミュウを動物にたとえたら猫だなあ、と変なところに同意してしまうわたし。

「そんなわけだから――嬢ちゃんも、一枚食ってみろや)」

「あ、うん」

 ミュウがあらためて差しだした揚げせんべいを、今度は、ためらうことなく受けとった。

「いただきます」

 袋から取りだしたせんべいの端を、ぽりん、とかじり、その香ばしさが消えないうちに、紅茶を軽く口に含む。

「どうだい」

「うん……おいしい」

 なんて言ったらいいんだろう。ちょっぴり不思議な、なごみテイスト……。

「これって、けっこう病みつきになっちゃうかも」

「うんうん、そうなんだよ」と、うれしそうにうなずくミュウ。

「むふ~」

「ん? その笑いはなんだい?」

「これが、深雪を餌づけした味にゃのか、と思ったんにゃ」

「餌づけはないだろ……というより、なんで猫語なんだ?」

「ひょっとしたら、釣られてくれるかなあ、なんて」

「釣られないよ……」

「う~、残念」

 わたしは、ほんのちょっとがっかりして、手もとの紅茶に目を落とした。

「ねえ、この紅茶、すごく濃い色だね」

引きこまれるようにカップをのぞくわたしに、ミュウが答える。

「紅茶のタンニンとハチミツの鉄分が結合すると、タンニン鉄という物質になって、これが紅茶の色を濃くするんだ。入れすぎると、ほんとうに真っ黒になってしまうよ」

「ふうん、そうなんだ……」

「このハチミツは、オーガニックのアカシヤ・ハチミツだから、甘さもすっきりしてるし、紅茶の味もきちんと引き立ててくれる。ぼくのイチオシだ」

「アカシヤ?」

「うん。正確にはニセアカシヤだけどね」

 わたしの中で、かち、となにかが音をたてた。

 もしかしたら、さがしていた答えを見つけてくれるかもしれない。

 この不思議な少女なら――

「ねえ! ミュウ!」

 髪からのぞいたミュウの耳が、ぴく、と動いた。

「いや、その“ミュウ”というのはやめてほしいと……」

 眉をしかめるミュウに、でも、わたしはそれ以上言わせなかった。

「お願い! 教えてほしいの! “クチナシとアカシヤ”ってどういう意味なのかを!」

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