第二章 クチナシとアカシヤ Ⅲ

 でも、あの夏の再訪からは、美鈴さんが完全な消息不明となることはなかった。

 つまり、再度誓った約束は、今度はほんとうに守られ続けた、ということだ。

 何日も立て続けに顔を出したと思ったら、一、二ヶ月音沙汰なしになることもたまにあったけれど、今度は母もなんとなく安心しているみたいで、「まあ、あの子(わたしの前で母は、決まって美鈴さんのことを『あの子』と言った)は、きまぐれな猫みたいなものだから。でも、最近はやっと帰巣本能が身についたみたいだし、たのまなくても向こうから勝手にやってくるわよ」といつも笑っていた。

 そして、必ずそのとおりになった。

 一度美鈴さんにその話をしたら、「糸の切れた凧が、その糸の先を握られちゃったからな、風来坊も年貢の納めどきってことさ」と笑った。

 それでも、引越し癖は消えないらしく(美鈴さんによれば、引越しは、最高の気分転換と運動不足解消になるし、よどんだ運気も変えられるのだそうだ)、ときおり美鈴さんは、新しい住所と連絡先を知らせてきた。でも、その住所がわたしたちの家から十キロ以上離れることはなかった。

 美鈴さんが新しい住所を告げにくるたび、母はあきれながらも、「こうやって住む場所を教えてくるってことは、借金に追われてるとか、そういうことだけはないってことよね」と、なんとも微妙な安心のしかたをした。

 美鈴さんがわが家ですごす時間が長くなり、それにつれて、美鈴さんが持ちこむ荷物も自然に増えていった。化粧品、本、雑貨、服、ちょっとした小物――それらは、使っていなかった小さな部屋の一角をしっかりと占めるようになり、その部屋は、なし崩し的に「美鈴さんの部屋」というあつかいになっていった。

 美鈴さんの存在――香り、笑い声、廊下を踏んで歩く音、美鈴さんがそこにいるという空気――気がつけば、そんなものが、少しずつ、わたしたちの家の一部になりはじめていた。


 わが家を再訪するまでの間、美鈴さんは、どこでどんなふうにすごしてきたのか。別に、美鈴さんの過去を知りたいとかではなく、単純に子どもっぽい興味からたずねてみたことがある。

「ああ、なんというか、諸国漫遊っていうやつだよ」

 これが、美鈴さんの最初の答えだった。そばで聞いていた母は、「黄門様か、あんたは」と即座にツッコんだ。「要は、ただの無銭飲食旅行でしょ」と。 

「とんでもハップン駅まで五分。どこにいっても、ちゃんと立派な仕事についてたよ」と、美鈴さんは言いかえし、そのあとに「たとえばさ……」と、その“諸国漫遊記”を話してくれたのだ。

 その話がすっかり気に入ってしまったわたしは、それからしばらくの間、美鈴さんがくるたびに、新しい「今日のお話」を彼女にねだった。

 美鈴さんの話してくれる漫遊記は、とにかく波瀾万丈で、いつ聞いても面白かった。わたしは、いつも目を輝かせながら、美鈴さんの話に聞き入った。

 美鈴さんは、そのたびに函館のラーメン職人だったり、神戸のパティシエだったり、佐渡金山の案内役だったり、富山の薬売りだったり、長良川の鵜飼い師だったり、草津温泉の仲居だったり、静岡の茶摘み娘だったり、箱根の水族館のアシカ担当だったりした。

 そばでそれを聞いていた母は、「よくもまあ、駄ボラのタネがつきないわねえ」と毎回のようにあきれていた。

 美鈴さんは、「うそを言ってない証拠」として、京都で観光ガイドをしていたときに覚えたという「牛若丸の歌 英語バージョン」なるものを教えてくれた。

  京の五条のオンザブリッジ

  ビッグビッグマンの弁慶が

  ロングロングナイフ振りあげて

  牛若めがけてカッチング

 母は、「それのどこが証拠なのよ」と、やっぱりあきれたけれど、当時のわたしは、けっこう本気で感激していたような気がする。だって、生まれて初めて聴いたその歌は、今も、そのときの美鈴さんの声といっしょに、しっかりわたしの耳に残っているのだから。

「お願いだから、これ以上小羽子に変な話を吹きこまないでね。この子は、誰も本気にしないようなあんたのテキトーな作り話でも、案外ころっと信じちゃうバカなところがあるんだから」

 母にそう言われると、美鈴さんは、わたしの肩に手をかけ、「なあ、アリ子。あたいら、おたがい、春花からかなりひどいあつかいを受けてないか。この際だから、一致団結しようぜ」と、共闘を呼びかけるのが常だった。

 でも、その政治的?蜜月が長く維持されることは、きわめてまれだった。わが家における力関係をしっかり把握しているわたしは、「今晩のおかず、一品抜きね」という宣告ひとつで、実にあっさりと母側に寝がえってしまったからだ。

 こうしてわたしは、美鈴さんから「腹黒」「悪魔の子」「人でなし」などの称号を多数たまわることになったのである。

 

「美鈴さんは、なにかお仕事をしてるの?」と、彼女にきいたこともある。確か、小学三年生か四年生のころだったと思う。

 美鈴さんは、おでこをコリコリとかきながら「ううん、いわゆる水商売ってやつ?」と答えた。

「水……商売??」

 首をひねるわたしを見て、美鈴さんは笑った。

「ははは、ビルの清掃とかそういう仕事。ほら、トイレ掃除とか、水をたくさん使うだろ?」

「あ、そうか!」

 わたしは、納得してうなずいた。

「だからさ、自慢じゃないけど、われながら最近たくましくなっちゃってさ。ほら、見てごらん」

 シャツの袖をまくり、美鈴さんは、持ちあげた腕をぐっと折った。

「うぐぐ……」

 美鈴さんが、必死の形相で歯を食いしばると、白くて細い二の腕に、申しわけ程度の小さなこぶが浮いた。力を解いたあとで、ハアハアと息を荒くしながら、「どうだい、おねえさん、がんばってるだろ?」と、こんなときも相変わらず、美鈴さんは「おねえさん」を強調した。

 息をととのえた美鈴さんは、「でも、これ、アリ子だけに教えちゃう秘密だけどさ」と、わたしの耳に手をあて、こっそりささやくように言った。

「実を言うとそれも、世を忍ぶ仮の姿なのさ。あたいはね、ほんとは忍者なんだよ」

「忍者!?」

 予想もしなかった言葉に、わたしは、目を白黒させた。

「あたいはね、ある先生から授かった“どうか、正義の味方の忍者になってください”って言葉を、日々ひそかに実行してるのさ」

 正義の味方の忍者――そうだったんだ。なんてかっこいいんだろう。

 わたしは、尊敬のまなこで美鈴さんを見つめた。なにしろ、人を疑うことを知らない、純朴な少女だったのだ。ちなみに、その先生というのが、実は金八先生だと知ったのは、もっとずっとあとのことである。

「ただ、これは秘密任務だからな。アリ子だから、打ち明けたんだ。春花にだって、ぜったいしゃべっちゃダメでござるぞ、ニンニン」

 わたしは、「うん、わかったでござる、ニンニン」と、力強くうなずいた。

 ことごとく美鈴さんを裏切って「悪魔の子」呼ばわりされてきたわたしだが、このときの約束は、かたく守りとおした。子ども心に「秘密任務」という言葉が、きいたのだろう。

 もしうっかり、このときの話を母にしていたら――「水商売」なんて言葉をわたしに教えた、というだけで、問答無用のおしおきが美鈴さんにくだったであろうことは、まちがいない。


 ……あれこれ思い出をたどっていると、小さいころの記憶って、どちらかといえば、どうでもいい、がらくたみたいなものばかりをしまいこんでいるな、って気がする。けれど、それって、心のどこかが、“捨ててはいけない、大事な記憶なんだよ”といっている証拠なのかな、なんて、思ってみたりもするのだ。

 なぜ、そんなことを考えてしまったのかといえば、やっぱり美鈴さんのせいなのである。

 美鈴さんが使う部屋には、美鈴さんが「がらくたボックス」と呼ぶ大きな箱があった。わたしが「なにが入ってるの?」とたずねると、「まんま、ただのがらくただよ」と、美鈴さんはいつも笑った。

「ガキのころから使ってたものとか、旅先でつい買っちゃったおみやげとかさ、ぜったい、もういらないよな、ってものでも、捨てられないものってあるだろ? そういうものをさ、あたいは、この箱に入れてるんだよ。どうしてか、わかるかい」

 美鈴さんの問いかけに、わたしは、首を振った。

「なんでこれ、捨てられないんだろ?って考えるとさ、やっぱ、答えは “大事なものだから”なんだよ。がらくたって、時間とか思い出とか、いろんなものが沁みついて、その分だけ、すすけたりボロボロになったりしてるんじゃないか、って思うんだ。だから、簡単に捨てたりできない。がらくたっていうのはさ、ほんとは、宝物といっしょなんだよ」

「じゃあ、その箱は、美鈴さんの宝箱なの?」

 わたしが、深く考えもしないでそう言うと、美鈴さんは、表情を崩し「そうさ。さすがは、アリ子、よくわかってるね!」と、わたしの頭をガシガシなでた。

 そう――記憶というのも、この“がらくたボックス”に似てる、と思うのだ。

 他愛のない、どうでもいいようなことばかりを保管してしまうのは、ほんとうはそれが、忘れてはいけない、大切な記憶だからなんじゃないか――そんな考えにとらわれてしまうのも、もしかしたら、わたし自身が、がらくたを捨てられない人間になりつつあるからなのかもしれない。

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