_周目⑤.友達になるためだよ。


 最初のバイト代で買ったものだが、服と、漫画やラノベと、もう一つあった。

 靴を磨くための道具を一式。

 近所のホームセンターで買った。

 何でかというと、父の履いていた靴が、その、なんていうか酷い有様だったからだ。師匠に道具一式の手入れを教え込まされた今の俺には、ちょっと看過できない状態だった。

 そんなわけで、仕事から帰ってきた父の靴を拝借し、ブラシやら布やらクリームやらを使って手入れしたところ、見違えるように綺麗になって、それを横で物珍しげに見ていた父は、


「上手いもんだなあ」


 と、感心した風に言った。


「そんなの、どこで覚えたんだ?」


 と聞かれ、異世界で騎士団長やってる師匠に教えてもらった――と言うわけにもいかず、俺はもごもごと言葉を濁した。

 とはいえ、父は特に追求することはせず、


「いや、本当に上手いもんだなあ」


 と、ぴかぴかになった自分の靴を見下ろして、嬉しそうにもう一度言った。


 そんなわけで、俺は毎晩の日課として帰ってきた父の靴を磨くようになったわけだが――ある日、俺がいつものように靴を磨いていると、


「いつもありがとうなあ」


 と父が話しかけてきて「別に大したことじゃないよ」とか何とか適当に答えた俺に「なあ、お前さ」と父は脈絡もなく唐突に話を切り出してきた。


「お前さ、大学行くか?」


 俺は靴を磨く手を止め、顔を上げて父を見上げて、何と言うべきなのかが頭に思い浮かばなくて、仕方がないので顔を下げて靴磨きを再開した。

 完全に答えあぐねた形の俺に対して、父は「どうだ?」と助け船を出してきて、そのおかげで何とか俺は言葉を捻り出す。


「……いや、無理だよ」


「高校を中退したからって?」


「えっと、うん、まあ……」


「いいか。世の中には高認試験というものがあってだな」


「そういうことじゃなくてさ」


「なら、どういうことなんだ?」


「……ええと」


 と、俺はその「どういうことなのか」を父に説明する言葉を頭の中でちょっと組み立ててみた。


『いいか父さん。落ち着いてよく聞いてくれ。俺はこの世界とよく似た別の世界から転生してきたんだ。そして、元の世界に戻って俺の敵である美少女と戦わなければならないんだ。だから大学には行けない。「すぐに来るから」って言っちゃったんだ』


 ――言えるわけがなかった。父に泣かれる。


 再び沈黙する俺に、父は「まあ、お前が行きたくないなら行く必要はないけどな」とあっさり言う。


「でも、お前が行きたいと思ったら、そのときは父さんが手伝ってやる」


「本気?」


「本気だとも」


「大学って、お金、すげえ掛かるんだろ。娘のために残しとけよ」


「なめるなよ。お前たち二人を大学に行かせてやることくらい、わけないさ――父さんが母さんから支給されている一ヶ月の小遣いが、世のお父さん方の平均値を大きく下回っている理由は何故だと思っているんだ?」


「ごめん……」


「なあに、靴磨きのお礼だ」


 と父は言って、俺の頭に、ぽん、と手を置いてぐしぐしとしてきた。

 おいおい、と俺は思った。

 さすがに照れくさくて「おい父さん、やめてくれよ。もう子どもじゃないんだ」と言うと、


「そうだなあ。なあ――正」


 と父は、俺の頭をぐしぐしする手を止めずに、俺の手の中でぴかぴかになった靴を見下ろして俺の名前を呼んだ。

 俺の本当の――でも、未だに慣れない名前。


「ちょっと見ない間に、立派になったなあ」


      ■■■


「君さ」


 と、バイト先の相変わらずアグレッシブな髪型と格好の店長は、店じまいを終えたところで「まあちょっと座れよ」と俺を椅子に座らせた後、愛想の一欠片もない口調で俺に言った。


「いつまでソフトクリーム巻いてんの?」


「それは――」


 と、俺はその言葉に恐れおののいて言う。


「――つまり、クビということですか?」


「ちげえよ」


 と、店長は言って、がりがり、と苛立たしげに髪を掻いて、それから言った。


「君、前に言ったよな。ウチでパフェとか作んねーのかって」


「あー……はい」


 何でこの人そんな細かいこと覚えてるんだ、と俺は思いつつも、頷く。


「興味あんの?」


「まあ、少しだけ……」


「じゃあよ」


 と、店長は言った。


「俺の知り合いにさ、すげー美味いパフェを出す喫茶店やってる奴がいんだよ。紹介してやっから、そっち働いてみる気ねーか?」


「…………え?」


「え、じゃねえよ。まさか一生ここでソフトクリーム巻き続けるつもりなわけじゃねえだろ?」


 それはまあ、もちろんそうだ。

 俺には、ちゃんとした目的がある。だが、


『店長。落ち着いてよく聞いて下さい。ここは俺にとっては異世界なんです。俺は何度も何度も転生して、あの最強な美少女と戦って、たったの一度だって勝てた試しがなくて、でも今度こそ吠え面を掻かせてやるんです』


 と口にしたならば、目の前の店長に視線で八つ裂きにされそうだった。

 俺は、ちょっとだけ考えてみる。

 この先、ここでソフトクリームを巻く技術を磨き続ける一生を送ることを。


「それほど悪くないのでは」


「あ゛?」


 と八つ裂きにされそうな視線で睨まれて、俺は椅子に座ったままで震え上がる。

 そりゃあ、他の異世界で竜やら四天王やら魔王やらそれらを超える速度で追いかけてくる包丁を持ったヤンデレ美少女やら、もっと怖いものと遭遇したことは多々あったが、そのときは少なくとも俺はチートを持っていたし、ついでに言うと目の前の相手は雇用主だ。


「あのなあ……俺みたいな奴ならいいんだよ。色々やって、その結果として、ここでソフトクリーム屋やってんだから――でも、君は違えからな」


「でも、俺、ソフトクリーム巻くことしかできないんですけれど……」


「今から覚えりゃいいだろ――ソフトクリームだって、たぶんどっかで誰かに教えてもらったから巻けたんだろ?」


「それは――」


 俺は、こことは違う異世界の公園で売っていたワンコインのソフトクリームと、その巻き方を教えてくれたソフトクリーム屋のおじさんのことを思い出し、頷く。


「――そうですね」


「だからさ、もっと他のこともいろいろとやってみろって。それでもソフトクリーム屋をやりたかったら、そのときにやればいいさ」


「だから、パフェですか?」


「いや別に、パフェの作り方だけ覚えりゃいいって言ってるわけじゃねえぞ」


 と、店長は言う。


「なんせ、なかなか手広くやってるとこだからな。たぶんいろいろ叩き込まれるぞ――ドリップするコーヒーの入れ方とか、ガチで本気なサンドイッチだとか、確かオムライスやスパゲティなんかも作らされるし。あと、今はまだ駄目だろうけれど、夜は酒も出してるから、カクテルなんかも」


「その……」


「自分には無理とか女々しいこと言うんじゃねーぞ。できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかで決めろ――君が他にやりたいことがあるってんなら、そりゃ別に止めねえがよ」


「いや、そうじゃなくて……何でそこまでしてくれるんです?」


「……そりゃ、その、あれだよ」


 と店長はそっぽを向いて、指先で頬を掻き、


「……俺は、君のことは、ちっとだけ気にいってるからな」


 と言った。


 がたんっ、と。


 俺は反射的にその場で椅子を蹴倒して立ち上がり、背筋をぴんと伸ばして直立し、顎を引いて敬礼し、そして告げる。


「店長――」


「お、おう……どしたよ?」


「――良いツンデレありがとうございます」


「座れ」


 と、店長は俺を八つ裂きにしかねない目で睨み付けた。


      ■■■


 地に足が着いてきた――そんな気がする。

 危険だな、と俺は思う。

 なぜって、そのまま足が地面に根を張って離れなくなりそうだったからだ。


「浮かない顔だね。刈蛾くん」


 と、板鍵は言う。

 俺はもちろんバイト中で、板鍵は店の前のカウンターに頬杖を突いていて、しかもその日はソフトクリームを注文しなかった。

 流石に看過できずに、俺は注意する。


「いや、それより食えよ。ソフトクリーム」


「やだ。あんまり食べてると太るもん」


「ならそこをどけ。迷惑になるだろ」


「えー。他のお客さんなんて気にせずさ、元クラスメイトの女の子とがっつりお話しようよー。青春だよー」


「悪いけど俺はバイト中だ。お前の青春は別のところで送ってくれ」


「まじめー」


 と言って、にぃ、と意地悪く笑う板鍵。

 ただし、笑いつつも、こちらの言うことを聞いてカウンターから離れてくれる辺り、なかなか聞き分けは良い。が、


「ふっふっふっ、これで女の子が頬杖を突いていたという付加価値が付いたカウンターの一丁上がりだね」


 などと言ってくる辺り、当初思っていたよりも、こいつなかなか愉快な性格をしているんだな、と俺は思う。

 とりあえず、俺はアルコールの消毒液をカウンターに一吹きした後で、さらに台拭きで拭いて、板鍵が付けたという付加価値を抹消した。それを見た板鍵が「ひど過ぎっ!」と叫ぶが無視。


 というか、こいつ余程暇なんだろうか。


 俺とは違ってれっきとした学生なのだから、もっとこう、それこそクラスメイトと青春を謳歌しているべきではないだろうか。

 あるいは、俺と同類でこいつも友達が少ないのかもしれない、と思ったが「なあ板鍵。お前って友達どれぐらいいるんだ。ちなみに俺は一人な」と聞いたら、しばし声も出せないくらいに絶句し、それから「えっと、その……た、たくさんいるよ?」と、何やらしどろもどろに答えていたので友達はたくさんいるらしい。


「それで、刈蛾くんさ」


 と、あっさり気を取り直したらしい板鍵が俺に言ってくる。


「何か嫌なことでもあったの?」


「いや、良いことしかないな。身には余る幸福ばっかりだ」


「じゃあ喜べばいいじゃん」


「喜ぶのに慣れてないんだよ」


「何それ。ねくらー」


「元引きこもりだからな……それに」


「それに?」


 と板鍵に尋ねられるが、


『ああ、ちょっとスカートが鉄壁な美少女と戦わなくちゃならなくてな――正直、すげー感謝してるし嬉しいんだけれど、そうするわけにはいかないんだよ』


 などと言ったら、引きこもり生活で俺が正気を失ったと心配されかねないので「いや、別に」と答え「……でもさ」と付け加える。


「ちょっとだけ意外だった」


「何が?」


「俺、高校中退しただろ?」


「…………うん。そだね」


「だから、もう、駄目かと思ってたんだよ」


「駄目って……」


「もう、何にもできないんだろうな、って」


「…………」


「でも。そうでもなかったんだな、って」


「……うん」


「いや。まあそりゃ、人生に敷かれたレールからはものの見事に脱線しちゃったわけだろうし、そこはやっぱアレだけれどさ」


「……敷かれたレールの上の人生なんて、大したものじゃないよ」


「いや、ちゃんと真っ当にレールの上を進んでるんなら、それは誰がどう考えたって立派な人生だろ――板鍵?」


 じぃ、と。

 板鍵が、やけに真剣な目で俺を見ていた。

 その視線の強さに、俺がちょっと怯んだところで、板鍵は躊躇いながら口を開く。


「刈蛾くんってさ……」


「うん?」


「……何でもない」


「何だそれ」


「ねえ」


 唐突に。

 板鍵の表情が、全然別のものに変わる。

 にぃ、と満面の笑顔を浮かべて、言う。


「気持ちが沈んでるっていうならさ――何かをいつもとは違うことをして、ぱぁっ、と気分転換でもすればいいんじゃないかな?」


「気分転換か。いいな」


「私と一緒に遊びに行くとかさ」


「へえ。そりゃいいな」


 と、答えて、それから数秒してから。


「…………うん?」


 と、その意味に辿り着いて、確認のために板鍵に問いかける。


「それって、デートか?」


 すると、板鍵はちょっとだけ顔をうつむけた。

 それから、いつもより少し小さな声で言った。


「うん。そだね」


「何で」


 と、俺はそんな板鍵を見ながら尋ねる。


「そんなの決まってるじゃん」


 と、板鍵は答える。


「刈蛾くんと、友達になるためだよ」

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