彼女がギロチンに掛けられるまで⑭

 私は別に優しくない。

 それはもう、はっきりしている。


 その日は、雨の日の休日だった。

 おまけに、私は虫の居所が悪かった。

 原因は母だ。

 何ヶ月か振りに顔を出した母は、私に言った。


「お母さんね。結婚するの」


 その時点で、もうかなりショックだった。

 それは母にとって、すでに決定事項になっているとわかってしまったから。

 私の気持ちだとか意見だとかは、必要とされていなかった。あるいは、母は自分の好きな物はみんなが好きなのだと無邪気に考えていた。

 その上で、母はこう続けた。


「だから、一緒に海外に行きましょう?」


「ちょっと待って、お母さん」


 と、さすがに看過できず、私は言った。


「海外?」


「そう! 空が青くて、海が綺麗で、空気が美味しい、素敵な場所!」


「……大学受験は?」


「そんなの、向こうに行ってから考えればいいって。今どき、この国の大学にこだわらなくたって大丈夫」


「…………」


 その言葉に対して。

 私は、志望している大学のことを思い浮かべた。それから、模試で取ったA判定を思い浮かべた。一年生のときから、こつこつと頭の中に詰め込んできた二次試験の過去問を思い浮かべた。大学に行って母と離れ、一人暮らしを始めてからやろうと思っていた、いろいろなことを思い浮かべた。

 ふざけんな、と私は思った。

 駄目だ、反論しないといけない。

 幾ら何でも、ちょっと酷すぎる。

 嫌だ、と言わなくちゃいけない。

 そう、思った。


「……うん、分かったよ。お母さん」


 なのに、口から出たのはそんな言葉だった。

 意味がわからなかった。

 かたかた、と手が震えていた。

 ちょっと出かけてくる、と言って家を出た。

 今晩は良いお店予約してるよ、と言われた。

 返事はしたが、どうもその記憶がない。

 ふらふら、と。

 傘を差して、雨の街を歩いた。

 歩きながら「何で?」と何度も何度も呟きながら、私は、傘からぽたりと垂れる雫を見上げたり、雨を吸い込んで濡れ始めている自分の靴を見下ろしたりしていた

 彼女を見つけたのは、そんなときだった。

 学校で、いつも突っかかってくる女の子。

 私服姿の彼女は、今日も可愛かった。

 雨の日だっていうのに、めっちゃお洒落な格好をしていた。ちょっとチャラいんだけれど、どことなく品があって、大人っぽい。センスがある感じの格好だった。

 彼女は、お洒落な感じの店の軒先に、ぽつん、と立ちつくしながら、携帯端末をいじっていた。

 誰かと待ち合わせしてるんだろうか。

 と。

 そこで、つと彼女と目が合った。

 やっべ、と私は思った。

 彼女も、私を見てぎょっとした顔をした。

 いつもなら、ここで私が回れ右をして逃げ出すところだったが――なんせ虫の居所が悪かった。

 べしゃべしゃ、と水溜まりをぶっち切って私はそのまま近寄っていき、


「どうも」


 と告げた。

 彼女の方はというと、何だか面食らったような顔をして「……よっす」と私に言った。いつもよりの彼女の声よりも、妙に小さな声だった。


「誰かと待ち合わせですか?」


「だから何? つーか何で敬語?」


「癖で」


「何それ。意味わかんねーし」


 と彼女は鼻で笑ってみせ、それから私の格好を上から下まで眺めて、こう言った。


「今日もだっさい格好してんね」


 言われて、私は自分の格好を見下ろす。

 確かにその通りだった。


「まあ、雨ですし」


 と、私は素直に認めて。


「あんまりキメキメの格好しても馬鹿らしいですからね」


 正当防衛を盾にして、私はそう告げた。

 一瞬、彼女は眉を潜めた。

 それから、きゅっ、とその唇を硬く結んだ。

 ああ――この子はちゃんと皮肉が通じる子なんだな、と私は思った。

 だから、そこでやめておくべきだったのだ。


「何それ。貧乏臭い」


 と、こちらを小馬鹿にするように、ふふん、と鼻を鳴らしてみせる彼女に対して――私は、一切の情けも容赦もなく、本気で攻撃を仕掛けた。


「――その靴、素敵ですね」


「え?」


「その辺の女の子が履いてるような、見かけばかりの安っぽい靴とは違います。ちゃんとした素材と、ちゃんとした作り方で作られた、素敵な靴です」


「……まあね」


 と、微妙に柔らかくなった声で言う彼女。

 たぶん、ちょっとだけ嬉しかったのだろう。

 靴に限らず、そういったちゃんとしたものが好きな娘なのだと、私には分かっていた。身につけているものを見れば、何となく分かる。そしてたぶん、彼女の周りにいる娘たちにはそれがいまいち分からないのだと思う。

 だから、ちょっとだけ嬉しかったのだろう。

 予想通りだった。

 そうやって作った心の隙間に、私は悪意をありったけ込めた言葉を叩き込む。


「でもそれ、ちょっと古くなってますね。さっさと捨てて買い換えればいいのに」


「え」


 と、少し裏切られたような顔を彼女はした。


「だって、そんなことしたら可哀想じゃん。この子、まだちゃんと履けるよ?」


 ――ああ、この娘やっぱそういう娘なんだ。


 と、私は思う。

 帰宅して、ちっちゃかった私に「ただいま」と挨拶した後、まず最初に自分の履いた靴を磨いていた父のことを思い出して――ぎゅっ、とそれに目を瞑る。

 彼女に向かって、私は言葉を突き刺した。


「貧乏くさい」


 言葉が、目の前の女の子の、ひどく柔らかいところに突き刺さった感触があった。

 やめてよ、とちっちゃかった私が泣いているような気がした。そんなこと言わないでよ、と私を懸命に引っぱっているような気がした。

 無視した。

 私は、目の前のひどく傷付いた顔をしている女の子を、言葉で何度も突き刺した。

 めった刺しだった。

 高そうな鞄を指して必死にバイトしてお金を貯めて買ったのがバレバレだと貶して、服装のこれこれが安物で浮いてると嘲笑って、よくそんなちぐはぐな格好で堂々と歩いていられるものだと馬鹿にした。

 そんなわけなかった。

 だって、まだ高校生なのだ。

 高いものを何か買おうと思ったら、バイトで必死にお金を貯めて買うしかない。もちろん、他の部分を安物で誤魔化さなきゃいけなかったりもするだろう。ちぐはぐになるのは当然だ。

 ちぐはぐにならないためには、どうするか。

 そりゃあ、親の金で買ってもらうしかない。

 美少女だった頃の私みたいに。

 だから私は、彼女から嫌われていたのだ。

 彼女は、かつての私のように美少女ではなかったが――でも、かつての私と違って、親の金を頼りにしているわけでもなかった。

 休日に、近くの商店街にある、お洒落からは程遠い惣菜屋で一生懸命働いているのを見かけたことがある。コロッケとか揚げていた。

 そうやってバイトしたお金を貯めて買った高価な靴やら鞄やら上着やらを、上手いこと安物の衣類なんかと組み合わせてお洒落にみせていた。ちぐはぐには全然見えなかった。間違いなくセンスがあった。

 だから私は、彼女が嫌いだった。

 嫌いというか――羨ましかった。

 彼女の可愛さは、私と違って、自分自身で手に入れたものだったから。

 だから。

 私の言っていたことは、ほとんど言いがかりみたいなもんだった。でも、彼女はもうとっくにズタボロで、私は抵抗を許さなかった。

 本当のことを白状する。

 ものすごく楽しかった。

 私はきっと笑っていたと思う。

 ちっちゃな私が泣くのも気にならなかった。

 結局のところ――私は、あの母の娘なのだ。

 嫌な雨が降っていたことも、虫の居所が悪かったことも、母の言葉でずたずたに傷付いていたことも、何の言い訳にもならない。


 本当に優しい人間は、そんなことはしない。


 だから、その後で起こったことは、全て私の自業自得だった。


「貴方の彼氏さんも」


 お金持ちでイケメンだとかいう、彼女の彼氏を引き合いに出して、私は言った。


「そういうの、気づいていると思いますよ」


 その言葉が、トドメを刺した。

 ぽたり、と。

 雨とは違う雫が、頬を伝って流れ落ちて、彼女の靴の上で、ぱっ、と弾けた。

 ぽたり、ぽたり、と。

 雨とは違う雫は、また一つ、さらに一つと落ちて、彼女の靴を濡らした。


 その瞬間に、私は死ぬほど後悔した。


 今、目の前の彼女が待っているのが誰なのか、わかってしまったし――その相手が来ない理由も、わかってしまったから。

 あまりに虫の良い話だったし、あまりに遅すぎたし、あまりに身勝手だった。

 だから、すぐその罰を受けることになった。


「あんたなんか」


 と、涙のせいで顔をくしゃくしゃにした彼女は、私に言った。


「あんたなんか、どんだけ親が金持ちだって、どんだけ可愛くたって、どんだけ頭が良くたって、どんだけ強くたって――誰からも好きになってもらえないよ」


 相手を刺すには、あまりにも弱々しい声で、彼女は私に言った。


「――そのままずっと、一人ぼっちでしょ」


 何を今更、と私は思った。


 そんなことは今更だ。父のことを貴方と呼んで別れ、どうしようもない母親のオモチャにされて飽きられて、それからずっと私は一人で生きてきたのだ。変に小賢しくなってしまったせいで周囲の人間と上手く付き合えなくなって、中学ではいじめられていて、高校では誰にも相手にされなくなった。どうせこの先も一生そんな感じだろう。構いやしない。誰からも好きになってもらえない? それがどうした――私のことなんか誰も好きにならなくたっていい。平気だ。全然そんなのへっちゃらだ。私は、これからもずっとずっとずっとずっと、一人で生きていくのだ。


 死ぬまで。


 その瞬間に、彼女の言葉が思いの他、自分の心の奥深くに突き刺さっていることに私は気づいた。


 致命傷だった。


 泣いている彼女が、私の顔を見た。

 妙な顔だった。

 まるで、自分が言ったことを、死ぬほど後悔しているかのような顔だった。

 馬鹿だな、と私は思った。

 先に酷いことを言ったのは、私だ。

 後悔なんて、する必要、全然ないのに。

 それにしても、私は、一体。

 今、どんな顔をしているんだろう?


 耐えきれず、逃げ出した。


 背後から、泣き声混じりで謝る声が聞こえたが、振り返らなかった。

 雨の中を、ばしゃばしゃ、と私は走った。

 べきべきべきべき、と。

 自分の中の何かが、音を立てて崩れていくのが解った。自分の心が、もう取り返しがつかないくらいに壊れていくのがわかった。わかっていて、それを止める手段が私には何一つとしてなかった。

 思考の中で言葉が浮かび、やめろ、やめろ、と必死にそれを留めようとする。

 留めきれずに、口から言葉が漏れていた。


「嫌だ……っ!」


 やめろ、と心が断末魔の絶叫を上げる中でその言葉を私は口にする。してしまう。


「一人ぼっちは、嫌だ……っ!」


 そう言った瞬間に、私は完全にぶっ壊れた。

 ずっとずっと耐えてきたはずの何かが、その瞬間に砕け散ったのがわかった。

 あの状態で、よく家に辿り着けたものだと思う。

 震える手で自宅の鍵を開けながら、母に言うべきことを頭の中に思い浮かべた。


 ――再婚なんて認めない。

 ――外国なんて行かない。

 ――この国の大学に行って一人暮らしする。

 ――私の言うことは何だって聞いてもらう。

 ――それだけのことを、私はしてきたんだ。


 鍵が開いた。

 母が待っているはずの居間へと飛び込んで言葉をまくしたてようと息を吸って、


 母は、いなかった。


 心の中に、ぽっかりと穴が空く感覚。

 私は、机の上に置かれたメモを見下ろした。

 そこには、急遽予定が入ったので――どうも、母の友人が何か無駄に高いものを買ったとかでパーティを開くらしい――今すぐ出かけると書かれていた。レストランの予約のキャンセルもお願いね、と書かれていた。

 私は時計を見た。

 もうとっくに、予約している料理の準備はできていて、私たちに食べられるのを今か今かと待っている時間のはずだった。

 メモに記載されている番号に電話して、キャンセルの旨を伝えた。

 何度も何度も謝った。

 受話器を置いて。

 私は、その場に座り込んだ。

 随分と長い間、そのまま、座り込んでいた。


 私が死んだのは次の日のことだった。

 家のベランダから、うっかり落ちた。

 それが、私の本当の、転生した理由。


 寂しくてたまらないから、私は死んだのだ。

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