#5 皿の上で生まれたあなたへ(終)

 簡単な変装を済ませ、私達は家を出た。他のスタッフに知られないように、一目に私達と解からないように。

「フレンズって、耳と尻尾を隠せば人間と変わらないよね」

 トンちゃんは笑いながら話しかけてきた。私は何も答えられない。彼女の何気なく発したその言葉からも、「人間」という存在への憧憬が感じ取れた。

 ――だけどね、トンちゃん。アニマルガールと人間の姿が近くても、どれだけ君が強い覚悟や願いをもっていても、アニマルガールが動物種としての「ヒト」になることは無いんだ。プラズム生命体と、通常生命体はそれほど大きな違いがある。

 ――トンちゃん。君は賢いから、君の願いとその行動が結びつかないことも解かってるよね。でも、私は君が私達人間に近づこうとしてくれる気持ちが嬉しいし、そのための行動を、覚悟を、君自身の気持ちのけじめをつけるための行動として、私は尊重したいとも思う。

 もう、私は歩みを止めるつもりはない。たとえ心が折れたとしても、頭を上げて、前に向かって歩き続けてみせる。


* * *


「稟議を上げたけど、許可は下りなかったよ」

 私はトンちゃんの部屋に赴いてそう伝えた。彼女は肩を落とした。やはり、彼女の中であの時に有耶無耶にしてしまったことは、心のしこりとして残り続けていたんだろう。私は「フレンズの自主的選択による同種動物の給餌について」の書類をまとめ、パークの倫理審査機関に稟議申請を行った。だが、おおよそ予想していた通り認可は下りなかった。

 この決定に法的な拘束力は無いし、同種動物の捕食についてはパークのアニマルガールにも前例がないため(他種のアニマルガールの食事に豚肉を与えることはあった)、それに関する規定もなく拘束力を持つ決定ではないのだが、稟議の結果に従わなかった場合は、人事的なペナルティ……異動や再研修で、アニマルガールと関わる部署から引き離される可能性も十分にあり得る。

 これは、人間社会のルールを引き合いに出す形で、人間を指向するトンちゃんを納得……あるいは妥協させるための大義名分作りのようなところもある。

 ――だが、彼女の意志がそれを超えたところにあるのなら、彼女が持つ人間への気持ちが、そうした言い訳で覆い隠せるものではないほどの物なら、私も、起こすべき行動を決めていた。

 

「…………うしても」

 喉が重い。どうやら自分で思ってる以上に、この決断は私の心にのしかかってくるもののようだ。自分では決意を決めていたつもりなのに、顔があげられない。トンちゃんの目を見ることができない。けれど、進まなくちゃ。前へ。


「どうしても、君がそれを望むなら――」

 トンちゃん。君の決心は、人間への思いは、誰にも邪魔はさせない。たとえその決断が、私のパークでの立場を脅かすことになったとしても。


* * *


 レストランの店内は明るく暖かかった。そこには休憩に出てきた研究所所員や、楽しそうに談笑する学生、お祝いをしている家族連れ、肉食のフレンズとその飼育員……様々な営みが繰り広げられていた。長居するわけにもいかないので、私達は手早く注文を済ませた。

 様々な顔ぶれを見ていると、このジャパリパークにおいては、まるで悲しい事なんて何も無いような、そんな錯覚に襲われる。だが、アニマルガールと関わり続けている関係者たちは、往々にしてその心に大きな不安と悲しみを抱えている。だが、それをねじ伏せて笑顔を見せつける、サキのような強さを持つ人々も、たしかにいるのだろう。

 私は弱い。今も暗い表情を見せてトンちゃんを不安な思いにさせてしまっている。自分自身で出したはずの結論も、反故にして逃げ出してしまいたい気持ちでいっぱいだ。

 私が恐れている対象は一体なんだろう?トンちゃんの変化?自分の出した決断の誤り?パークからの処罰?世間の好奇の目?……どれもイエスである。だが、「最も恐れているものか」と問われればどれもノーと言えるだろう。私が本当に怖いのは、トンちゃんとお別れすることだ。

 今日のことがパークに露見したら、私はこの子の担当でい続けられるだろうか?今後近付くことを許されるだろうか?考え出すと苦しくてたまらない。彼女は私以外の飼育員とやっていけるだろうか。自分の身支度はちゃんと自分でできるだろうか。寂しくて泣いてしまわないだろうか。

 ――何より私が、トンちゃんの居ない日々に、耐えられるのだろうか。飼育員として情けない話だけれど、「友人として彼女のそばに居られないこと」それこそが、今の私にとっての一番の恐怖なのだ。


「ごめんね、飼育員さん。無理言っちゃって……」

「……いや、謝らなきゃいけないのは私たち、人間の方だよ」

 君が謝らなきゃいけない道理はないんだ。君たちは動物だったころから、私達の欲望のために振り回されている。だから、せめてその姿でいる間は、人間に対してもっと多くを要求していいんだよ。

「……わたしはね、ここに産まれて今日まで、自分が不幸だって思ったことはないよ」

 トンちゃんは、本当に優しい子だ。彼女の言葉を聞くと、まるで自分達の種の持つ業が赦されたような気持ちになってしまう。けど――

「どんな動物も食べなきゃ生きて行けないんだもん。誰も人間だけ特別悪者なんて思ったりしないよ」

 私達はこんな「優しい子」に赦しを乞うのか?サンドスターの作り上げた天使のような存在に赦しを得ることに甘んじていて、今現世にいる動物から背を向けていいのか?いいわけないだろう?

「けど人間は、君達を……」

 殺し続けている。殺すために育てている。今日も世界中でブタは尊厳を奪われ、死に続けている。私達を飢えさせないために。世界中の人々が「トンちゃん」と話したことがあるわけじゃない。みんな、獣の痛みなんて、自分事としては考えられないんだ。君が許しても、他のブタは許さない。君の元となったブタだって、ブタのままだったら私達を許しはしないだろう?ブタは人間を――

「飼育員さん」

 トンちゃんは私が言葉を紡ぐより早く、話に割り込んだ。

「わたしは、今はもう動物じゃないんだよ。飼育員さんと同じ、人間。だから……」

 彼女は言った。自分自身を「人間」と。私とサキの仮説は正しかった。彼女にとって、今の状態は「特殊な動物アニマルガール」ではない、「人間の隣人フレンズ」なんだ。

「わたしがここに連れてきて欲しいって言ったのは、知りたいからなんだ。この体になった今、この体でしか知れないことを」


 そうだ、彼女は「家畜」ではなく「人間」なんだ。私達の都合に合わせて動くだけではなく、自分の求める理想のため、自分で考え行動することができる。私はそのための障害を排除し、背中を押してきた。彼女を「家畜」にしないために。

 そんな彼女の出した結論を、私の悲観や同情の投影で形作られたハリボテのように言うなんて、彼女の自主性を全否定するのと同じだ。

 ――私が人間を責めるのは、彼女の思い描く理想を貶める事に等しい。そう、もう「私達」は「人間」だけを指すわけじゃないんだ。君も既に私達の隣人なんだ。そう、とても優しい――


「飼育員さん。わたし、あなたのことが大好きだよ。だから……」

 彼女が私への好意を示してくれた瞬間、私は気付いてしまった。そうだったんだ。私はこれが彼女にとって「けじめの儀式」だと思っていた。けど、違う。これは彼女が――


* * *


「こちら、ポークソテーになります」

 テーブルに、料理が運ばれてきた。私達が出会ってから、決して食卓に上がらなかった料理。ほかほかと湯気を立ち昇らせた肉料理を、しばらく私達は無言で見つめ、ナイフとフォークを手に取った。

「いただきます」

「……いただきます」


 食器が合わさり音を立てる。柔らかい肉はナイフを飲み込み、短冊状に切り分けられ、私達の口元に運ばれていく。……味を感じない。学生の頃、パーク就任を夢見て頬張ったチャーシューはとても美味しかった記憶がある。だが、正面に座るトンちゃんの気持ちを思うと、感情は味覚を塗り潰す。何も感じない。ただただ苦しい。吐き出してしまいたい。……駄目だ。全部食べるんだ。そうじゃないと彼女と私は――

「美味しいね」

「うん」

 トンちゃんもポークソテーを頬張っていた。縦に一筋、涙の線を下げながら。

 ――トンちゃんは「人間になるために」豚肉を食べようとしていたんじゃない。「飼育員さんと同じ罪を背負うために」と豚肉を食べることを決めたんだ。トンちゃんは今、人間の整備した豚肉の生産システムを「利用する側」に立った。言うなれば、人間と同じ「ブタに対する業」を背負う存在になったんだ。

 早く気付くべきだった。そして「君と私は同じだよ」と言ってあげればよかった。……けど、私達が彼女への負い目を感じる限り、きっと彼女は「私達と同じところ」へ行こうとしてしまうだろう。トンちゃんはそういう子だ。彼女は、優しすぎるんだ……。


 私は涙が止まらなかった。皿の上にぼろぼろと涙を落とした。悲しくて、悔しくて。私達は赦されない。こんな優しい子にまで、私達と同じ業を背負わせてしまったんだ。彼女が人間のそばに寄り添ってくれる限り、私達はその業から逃れられはしない。

 だけどなぜだろう、それが私にとっての救いにも感じられてしまうんだ。君が、人間と同じ罪業を背負ってまで友達でいてくれることを、対等な隣人であってくれることを、とても嬉しく思ってしまうんだ。赦されなくたっていい、その業を背負って生きていく勇気を、君からもらえる気がするんだ。

 私達は、泣きながら豚肉を頬張った。周りの目も気にせず、涙をぼろぼろ零しながら、無心に頬張った。味は感じない。けど、たしかにここに豚肉はある。トンちゃんと私の確かな繋がりが、ここにある。

 トンちゃん。君は、私の一番の友達だよ。


 トンちゃんは涙の筋はそのままに、私に向かって微笑みかけた。

「これでわたしも、人間と同じになれたのかな?」


 ――うん、同じだよ。トンちゃん。

 私もね、君のことが大好きだよ。


* * *


 ――このジャパリパークにおいて、アニマルガールと関わる人々は、誰しもがその心に大きな不安と悲しみを抱えている。

 そして、同時にアニマルガールたちも、同じ不安と悲しみを持って、私達のそばに寄り添っている。

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