#3 破戒

「わたし、豚肉を食べてみたいの」

 彼女の発したその言葉を受けて、私の表情筋は軋みをあげた。この瞬間、私は一体どんな表情をしていたのだろう。

 驚嘆、悲観、疑念、激昂、恐怖、焦燥、憐憫……言葉では説明しきれない、様々な感情の混ざりあった濁流が、私の全身を駆け巡る。私の認識する世界は、止めどのない感情によって完全に塗り潰された。


 気がつけばトンちゃんは、悲しそうな目で、震えながら私を見つめていた。それを見て私はようやく周囲が見えるようになり、息を荒げる自分の姿にも気付くこととなった。

「……ごめんね、トンちゃん。少し、落ち着くまで一人にさせて」

 そう口に出すのが精一杯だった。完全に冷静さを欠いていた私は、自分の吐いた言葉すら認識出来ず、彼女の言葉もまた私の心に届いていなかった。

 これ以上話を続けて、彼女を傷つけることが怖かった。彼女は立ち去ろうとする私に手を伸ばした。だが、やがて力なくその手を下げ、私は逃げるように彼女の部屋を後にした。


* * *


 私は、部屋の明かりもつけず、ベッドに座って呆然としていた。机の上の写真立てには、私とトンちゃんが古生物博物館の前で撮った記念写真が収められている。

 この時、トンちゃんは笑っていたはずだ。しかし、この暗がりではその輪郭もはっきりとしない。だが、今の私は彼女を直視することができなかった。何も見ないことで、どうにか平静を取り戻そうとしていた。

 私は、選択を誤ったんだろうか。彼女はなぜ、あんなことを言ったんだろう。ブタは彼女の出自であり、言うなれば同族である。なのに、なぜそれを「食べたい」と言ったのか。私は、知らないうちに彼女の心を壊してしまったのだろうか。

 人間は理解できない物事に恐怖を抱く。今の私は、苦しさのあまり彼女を理解することから逃げようとしている。……それは駄目だ。彼女が何を思ったのかに、考えを巡らせろ。トンちゃんは、私の大切な「フレンズ」なんだから。


 リョコウバトとの邂逅を通して、私は彼女に人類という存在の業を、食用家畜としての「ブタ」という生き物の実態を、段階的に教えていくことに決めた。

 トンちゃんが全面的に信頼していた「優しい動物」であるヒト。その実は自分たちの命を管理し、最後には奪っていく存在だった。おっとりとして人懐っこい性格の彼女にとって、その事実は少なからずショックを与えていた。

 絶滅種のアニマルガールは、私達が思う以上に「生存競争」というものに対して、ドライな一面も持っている。仲間が全て滅び去った現状に、言いしれぬ悲しみこそ抱いているものの、それでも彼女たちの出自は野生の世界である。故に、個の意識として「弱き者は強き者に奪われる」という、残酷な摂理を身をもって理解しているのだ。自分の種に対する悲運の定めを飲み込み、前向きに生きている子が多いのもそのためだろう。

 では、食用家畜はどうだろう。彼らは、自分の尊厳が奪われていることを自覚することなく、自然とは比較にならない安全な環境下で、人間からの全面的な庇護を受けて育っていく。そして、その身に十分な「利用価値」が備わった時、その命を失うこととなるのだ。

 ともに人の業が関わった種ではあるが、彼らが知性を得た時に「ヒト」をどう認識するか、そこには大きな差が産まれることだろう。家畜のアニマルガールは、その自我を飼育員に依存させてしまうほどに、ヒトに対して信頼を……「寄せ過ぎる」のだ。


 養豚における問題。去勢、断尾、歯切り、無麻酔によるそれらの施術、母豚の体勢を固定する「妊娠ストール」の利用……。当然のように消費してきた彼らの命も、ひとたび「言葉が通じる」という経験をしてしまえば、その尊厳に対する現状を直視することとなる。

 たしかに「食べられるために産み出される」ということは不幸かもしれない。だが、それ以上に「食肉の生産における合理性の追求」という、無機質なその営みの存在は、私の心に「人間のおぞましさ」としてのしかかり続け、いつしか肉食自体から距離を置くようになっていた。

 雑食動物である私たちの暮らしからすれば、「可哀想だから食べたくない」は、不自然な感情なのかもしれない。だが、私達はよほどの極限状態に陥らなければ「人間を食べよう」という発想に行きつくことはないだろう。同様に、言葉を介するブタであるトンちゃんと「フレンズ」になったあの日から、私はブタを「自分とは別物」とは見られなくなってしまったのだ。

 ……だが、トンちゃんは「豚肉を食べてみたい」という。私が、彼女の飼育を通して形作った価値観の逆行的な発想。それを聞いた私は大いに取り乱した。だが、彼女の言葉の意図は決して、悪ぶった発言だとか、悪趣味な冗談などといったものではなかったと思う。

 どうして――


* * *


 昨夜の出来事から、結局私は満足のいく結論を得ることも出来ず、ただただ疲弊していた。特段悪夢を見たわけではないが、脳に悩みがこべりついて、まともに睡眠をとったという気持ちになれない。

 カーテンの隙間から白みがかった空がのぞき始めた頃、トンちゃんはリビングにやってきた。

「昨日はごめんね、変なこと言っちゃって……」

 彼女は、普段と同じように笑顔でふるまっていた。椅子を引いて食卓に着いた彼女は、言葉を続ける。

「色々と話を聞いてさ、豚肉って食べ物がそんなに人気なら、どんな味がするのかなーって興味本位で言っただけなの。私のことお世話してくれてる飼育員さんの気持ちも考えないで、無神経だったよね――」

 「普段通り」とは言うが、寝坊助の彼女が朝食の時間に自分で起きて私に話しかけている現状からして、既に「普段通り」ではない。それは、彼女の心もまた、日常の外におかれていることを如実に表している。

「私こそ声を荒げちゃって……しっかりあなたの話を聞かなきゃ駄目だったね。私も考えをまとめるから、もう少ししたらしっかり話そう」

「ううん、いいの。私が変なこと言ったせいなんだから。私は飼育員さんと一緒に、これからも一緒に楽しく暮らしてきたいんだから、もう変なこと言って困らせるようなことはしないよ」

 トンちゃんはにっこりと笑う。だが、私はそんな彼女の表情から、その発言は完全な本意ではない、そう感じ取っていた。私にはまだ、彼女が何を考えているのかが解からない。そのことが私の心に恐怖を、疑念を、悲しみを産んだ。

 だが、そもそも悩んでいるのは私一人なのだろうか。もしかしてあの時、トンちゃんも何かに悩み苦しんだ結果、私に助けを求めたのが、あの発言だったのではないか。それなのに私は、自分の感情に押し流され突き放してしまった。なんとも情けない話だ。

 けれど、それでもトンちゃんは私のことを労わってくれる。彼女が私の横で、共に並んで悩んでくれているということ。そのことが私の心に勇気を与えてくれる気がした。

 ――「あなたは一人ではない」と。


 私は無言でトンちゃんの顔に手を伸ばし、わしゃわしゃと頭を撫でた。彼女はわけも解からずきょとんとしていたが、しばらくすると安心したように、リラックスした笑顔を見せた。

 そうだ、私は知りたい。ブタという動物としてではなく、君という存在が何に悩み、何を考えているのかを。飼育員としてではなく、君の「フレンズ」として。


 リビングにぐうぅという音が響いた。安心してお腹がすいたのだろう。トンちゃんはへへへと照れ笑いを見せた。

「……まずは朝食を食べようか」

 私は二人分のコーンフレークに牛乳を注いだ。私達は生きている。だから毎日お腹も減る。今日をよりよく生きるために、私達の迷いを振り切るために、沢山食べて力を蓄えよう。

 カーテンを開けると、真横に差し込む日の光がリビングを照らしていた。


* * *

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