第23話 寄す処


 ――目を開く。そして、世界を認識する。


(……どうして)


 肉体から離れて、精神のみの存在となった筈だ。だが、ユウリが感じたすべてのものには、どこにも違和感がなかった。

 肉体があり、そこに根ざした五感がある。

 そして、確たる世界がある。

 当初、ぼんやりと想像していたような世界とはもったく異なっていた。自分が霊魂となって、「神」の御許にふらふらと漂着し、そこで、言葉にならぬ対話を交わすかのような。


 ユウリは、周囲を見やる。

 広く、長い廊下がどこまでも奥へと続いている。その広大さだけが、ここが『脊柱』内部の物理的空間でないことを示していた。

 もちろん、隣にはキリアの姿があった。かれも、ユウリど同じような心境なのだろう。自分の両手を、しげしげと眺めていた。


 キリアが話しかけてくる。


「ユウリ、これはどういうことなんだろう。……違和感が、なさすぎるんだ」


 ユウリも、キリアと同じように、自分の身体を確かめる。

 身体をまとう肌着。肌着の上に感じる、鎖帷子の重み。肩には、背負った銃のたしかな感触がある。

 そして、手。皮膚感覚には、どこにも異常は感じない。


 ふと思い立って、キリアの手をとってみる。


「……えっ、どうしたの、ユウリ」


 慌てるキリアをよそに、ユウリはキリアの手の、その暖かみを意識した。

 そう。キリアは、生きて、ここにいる。もちろん、わたしもだ。そのはずだ。

 ここで、これからなすべきことの立脚点。それをつきつめれば、この感覚がすべてだ。


「――キリア、まずは、ここがなんなのかを確かめながら、動こう」


 ユウリは、あらためて周囲を確かめる。

 前方、後方に長くつらなる、あまりにも広大な廊下。

 ここの空気を、みずからの臭覚で確かめてみる。

 嗅いだことのない空気。どこか薬品を連想させる匂いがする。


「……ここを『後ろ』に行けば、元のところに戻れるのかな」


 振り向きながら、キリアがぽつりと呟いた。

 ユウリもそちらを見る。そこにあるのは、どこまでも奥へと続き、視界の果ての暗闇へと通じる、長い長い道だ。その向こうに、出口はあるのか?

 おそらく、ない。確信めいた予感が、ユウリにはあった。どんなにここが確かな存在に感じられたところで、いま目に映っている構造が真実であるはずがなかった。


「キリア私たちは、『先』へ進むしか、ないんだ」


 戻るか。進むか。ここで問われているのは、「意志」そのものだ。

 あらためて、ユウリは自分自身にそう言い聞かせる。


 先へ、先へと進む。

 どのくらいの時間が経過したのか。空腹も、渇きも、疲労もない。状態を固定された肉体では、過ぎゆく時間を知覚できない。もとより、時間の流れそのものさえも、信じることはできないのだが。

 示すものは、先へと進む意志。すぐそばの、キリアの存在だけを感じながら。


 やがて、ユウリとキリアは、大きな広間へと出た。


「広いな」


 ユウリは呟く。ここもまた、『脊柱』には収まらぬほどの広さだ。

 広間に出るなり、すばやく周囲を見渡す。


 ――なにかが、存在する。


「……だれか、いるぞ」


 それは、目を向ければはっきりと見えるようなものではなかった。

 それは、ごく薄い、人間の輪郭のようなものだった。ひどく弱々しい足取りで、広間の奥へ、奥へと進んでいる。その数は、およそ十体ほどだろうか、広大な空間のなかで、不ぞろいな姿が、まばらに歩いていた。


「……僕らが来たことを、まったく気にしていないみたいだ」と、キリア。


 ユウリは、もっとも近い一体に近づいた。

 よろよろと歩いている、おぼろげな輪郭。その顔を覗き込む。


「…………」


 表情は、読み取りようがないほどに茫洋としたままだ。

 意を決して、ユウリは声をかけた。


「……あなたがたは、ここでなにをしている? どこへ向かっているのか、教えてほしい」


「…………」


 その者は、なにも答えない。

 一歩、一歩。ユウリを無視して歩み去るその者に、それ以上、言葉をかけることはできなかった。


「ユウリ、だめだね。……あの人たちも、やっぱり『精神』だけになって、ここに来たんだろうか」


「そうかもしれない。でも、私たちとはまったく異なる存在みたいだ」


 ユウリとキリア。ふたりで言葉を交し合ったそのとき。



(――ようこそ、キリア、ユウリ。あなたたちを待っていました)



 澄んだ声が広間に響き渡る。どこから声を掛けられたかは分からない。

 誰の声か。ユウリが心当たりをさぐっているときに、いちはやくキリアが叫んだ。


「スーラ! スーラだね!」


 そうだ。キリアのいうとおり、確かにこれはスーラの声だった。まるで、やわらかな絹布のような、やさしい声だ。

 はじめてキリアと出会ったあの砂漠で、キリアの生命を救い、そして『脊柱』の中では、その知識を与えてくれた。


 キリアの表情を、ユウリは見た。とても安らいだ笑顔。この茫漠ぼうばくとした空間で、はじめて頼りになる存在を見出したのだ。ユウリも嬉しかった。

 ユウリは、いまだ姿の見えぬスーラに語りかける。


「スーラ。教えてくれ。ここは、確かに『精神』の世界なのか。私たちが、このさきにいるはずのキリアの家族に会うためには、どこに行けばいいんだ?」


 返ってくるスーラの声は、たしかに穏やかだった。


「――大丈夫。『上』へ、来て。あなたたちなら、ほかの誰かに頼らなくても、ここまで来れるわ」


「上? ……でも、まわりにはなにもない。どこから、そこに行けばいい?」


 ユウリがそう訊くと、スーラは答える。


「形のある入口などは、ありません。ここは『精神』の世界。いま、あなたたちが見ているものは、すべて、ユウリとキリア、あなたたちふたりが思い描いたものです。だから、あなたたちが望みさえすれば、『私たち』のところに来れるはず」


 そのとき、キリアがひとつの質問をする。


「スーラ、じゃあ、周りにいる、この、人……っていうのかな、彼らはいったいなんなんだい? 僕らとおなじ『精神』なのかな」


「厳密には、違うわ」と、スーラ。


「周囲にいるの精神体は、あなたたちが来るまえに、『地上の者』たちが捧げた『精神』よ。とはいっても、あくまでもごく小さな断片にすぎないから、あなたたちのようにはっきりと意志を示すことができないの。彼らのことは、心配しないで。『私たち』が、いずれ掬い上げます。あなたたちふたりは、自分の意志で動けるわ。……やってみて」


 その言葉に従い、ユウリは、自分の認識を、感覚からひとつひとつ引きはがしていく。

 のちに、感覚そのものさえも、感覚が「ある」こともまた、否定する。

 「あるべきもの」として受け止めていたすべてを、手放して。


 それを手助けするかのように、スーラの言葉が届く。


(ただひとつのよすがは、『自分が、自分であること』。それだけを、『ここ』に持ってきて)


 手がかりを失っていくにつれて、意識さえも拡散していきそうになる。それだけには、ユウリは必死で抗った。


(キリア)


 いつの間にか、ユウリはその名を呼んでいた。いま、もっとも近い、人。

 キリア。……キリア。

 交じり合うことなく、しかし、どこまでも近くに感じる、その存在。

 きっと、キリアも、同じように感じているだろう。

 だが、『そこ』に向かうためには、その距離さえも手放さなければいけない。



(キリア、ひとときの、さよならだ)



 そして、ユウリはひとりだけになる。


 小さくまたたくもの。大きく、強く、輝くもの。はかりようのない空間のなかで、まるでそれらは、星々のように瞬いていた。

 もっとも大きい輝きが、『そこ』にある。

 『そこ』に、ほかの小さくかよわい瞬きがとりこまれていく。


 そう。あそこだ。

 ユウリは、そこに行った。


 キリア、あなたもそこにいるよね、と願いながら。



 ――どれほどかの時間が経つ。


「キリア、……ユウリ。来れたのね」


 スーラの声が、はっきりと聞こえる。

 その声をよすがに、ユウリはふたたび、自分自身の感覚と認識を取りもどしていく。

 眼前に世界がひろがる。確たる空間のなかに、スーラの存在を、ユウリは認識した。


「――スーラ。ここがどういうところなのか、よく分かったよ」


 ユウリはそう言いながら、隣の様子を見る。

 キリアもまた、かつての存在感を取り戻している。並び立てば、わずかにユウリのほうが背が高い。……いつもの、キリア。わたしが思い描いた、まるで弟のような存在。

 キリアも、しばらく周囲を確かめるように見回していたが、やがて、スーラに向き合い、言った。


「お待たせ、スーラ。やっとここに来れたよ」


 その言葉に、スーラは微笑んだ。


「……待っていたわ、キリア」

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