第21話 精神の領域

 ユウリは、さきほど告げられた言葉を反芻する。



 ――上層は、『精神』の領域であること。

 このことは、たびたび耳にしてきた。


 ――しかし、『肉体』を伴ったまま、上層に行くことができないこと。

 それがなにを意味するのか、ユウリには想像できなかった。


「ゼムカ! ……それは、この身体のままでは、上には行けないということか!?」


 ユウリは訊いた。

ゼムカは足を止めて振り向くと、「そうだ。それ以外にどう解釈できる?」と、答えた。


「……では、どうすれば上に行ける?」


 その問いに、ゼムカは傍らの設備を指し示した。


「ここにある設備を使え。そうすれば、おまえたちは上へと進むことができる」


「…………」


 言われるままに、ユウリはその設備に近づいた。

 さいしょ、この部屋に入ったときは、何か大きな塊のようにしか見えなかったが、近づいてよく見てみると、それは寝台のようでもあった。あまり快適そうではないが、ちょうど人ひとりが横たわることができる。


「これは、なんのための機械だ。どう使えばいいんだ」と、ユウリ。


「ここを通じて、『地上の者』たちは、精神を上層へ捧げるのだ」と、ゼムカは言う。


「精神を捧げるって……確かに、機械たちはそうやって使うのだろう。でも、私たち『人間』が、それをどうやって使うんだ?」


「同じだ。そこに寝そべって、精神に接触してくるものを受け入れろ。ただし、おまえたちが上層に向かうためには、その精神の全量を捧げなくてはならない」


「全量を……」

 ユウリとキリアは、同時に呟いた。


「そうだ」と、ゼムカ。

 その言葉が意味する「恐るべき事態」を、まったく意に介さぬような口ぶりだ。


「それが、『肉体を捨てる』という意味だ。おまえたちの、その肉体から切り離された精神のみが、この塔の最上層へと向かうことができる」


「出来る、って……」


 ユウリは、己の胸、己の腕、そして、いつのまにかかき抱いていた己の銃を、かわるがわる見つめた。両親より受け取り、そして己の意志をもって磨いてきたもの。そして、自分自身を守ってくれるように、と、街の職人が心をこめてつくってくれたもの、すべてを手放せ、と。

 そして、もうひとつの事実に思い至った。

 己を己たらしめるもの。ユウリにとってのそれは、すべて、己の肉体に属していた、ということに。

 肉体と、それに伴うものをすべて失ってしまえば、いったい自分になにが残る?

 自問したところで、答えは明白だった。


 なにも、残らない。


 そんな怯えを見透かされたのか、ゼムカは言った。


「……なにもかもを無くしてまで、向かうだけの価値があるのか。それは、私には分からない。私もまた、ここまでの情報しか与えられていない。おまえたちがここでどのような判断を下そうと、私はそれを誉めることも貶すこともしない。心に起こる恐怖をねじ伏せて向かった先が、まったく無意味な地獄であることなど、おまえたちの世界にはいくらでもありうることだ」


 ユウリは、キリアを見た。彼なら、ここでなにを言うのだろうか――。

 キリアもまた、うつむいて何事かを考えているようだった。しかし、やがて、面を上げるとともに、告げた。


「僕は――行くよ。それしかないんだ」


 が、その言葉を聞いたときに、まずユウリの心に浮かんだのは、理不尽としか言えない、怒りだった。


「キリア!」

 彼の名を、こんなに大きな声で呼んだのは、はじめてだった。


「ゼムカの話を聞いていたのか! もう、この先は、『精神』だけの領域だ。……ゼムカの話を信じるなら、もう、ここにきみの両親はいないんだ! そうだな、ゼムカ!」


 ユウリはゼムカを見た。そうだと言ってくれ、と、心のなかで必死に願っていた。


 果たして、ゼムカは答えた。


「そうだ。ユウリが語るとおり、この塔に、きみの両親はいない」


(聞いたか!)


 そう心のなかで叫びながら、ユウリはキリアを見据えた。どうか、キリアの心が折れてくれていますように――!

 だが、キリアの相貌は、依然として折れぬ決意をたたえていた。


「……ユウリ。きみが言いたいことは分かるし、心配してくれていることも分かる。きみに会えたことは、きっと、僕のいちばんの幸せなんだろう。……でも、この先に行かなくちゃいけないんだ」


「なぜ!」


「……ここまで、ぼくらをたびたび導いてくれていた人だ。スーラ。あの人が、きっとこの先にいる」


「スーラ? あの人は、ナイマやベリテーとおなじ、ただの『機械』だろう。なにを吹き込まれて、そんな危ない橋を渡ろうとするんだ!」


 ユウリの言葉に、それを横で聞いていたゼムカが反応した。


「スーラ……ここより下層に住まう『地上の者』に、そのような名を名乗る個体は存在しない。では、『地下の者』はどうかな、ガーシュイン」


 ガーシュインもまた答える。


「ふむ、『地下の者』にも存在しないな。だが、私はたしかにスーラという存在は観測したぞ。たしかに、この視覚センサーに捉えた。……あれは『地上の者』ではなかったのか」


 地上の者と、地下の者。そのどちらにも属さぬものに導かれた、とキリアは言う。ならば……スーラは真実、さらに上層部に住まう存在なのか。


 ユウリはキリアに訊いた。


「キリア、きみがスーラの言葉を信じる根拠はなんだ。それだけは教えてもらえないか?」


 だが、キリアはまるで話すべき言葉を探しているかのようだった。


「……ほんとうに上手く言えないのだけれど、ユウリ。僕にはあの人が、敵だとは思えないから。それに、なにもかもを無くしてしまった以上、僕の目的は、もうこの『上』にしかない。……それしか、ないんだ」


 そう語るキリアの顔に、はじめて決意以外のなにかが生じた。

 それは……さっきユウリが感じたものと同じ、恐怖。


「自分には、『それ』を無くしてしまったら、もうなにもかもが残らない」、という、恐怖。

 ユウリにも、その気持ちはよく分かった。


 仮に……仮に、キリアとともにこの肉体を捨てたとしたら。ユウリ自身には、なにも残らない。いくら「キリアを守りたい」と願ったところで、その気持ちを担保するだけの「力」は、もう残されていない。

 逆に、キリアに「上」へ向かうことを諦めさせてしまったら、どうなるか。かれが言うとおり、ここまでかれ自身を「生きること」につなぎ止めてきた大事な何かを、永久に失ってしまうことになる。


 ――どちらかが、かならず、なにかを失う。


 そして、たったひとつの喪失にすら耐えられないほどに……私たちは、薄っぺらかった。


 キリアを守りたい。キリアについていきたい。そう願うことは、たしかに真実だ。

 だが、ただの精神だけになってしまったら、私はどんな役目を果たせばいい?

 きっとキリアは、私に無理強いはしない。ユウリはそう確信していた。

 だから……行くとなれば、自分で決めるしか、ない。


「キリア」


 ユウリはかれの名を呼ぶ。


「……ユウリ」


「正直に言う。私がついてきた理由は、本当に危ないところまで来たら、キリアを街に連れ帰りたいからだった。そして、今こそが、そうすべき時なんだと思う」


「うん」


「……でも、ここで私がむりやりに連れ帰っても、キリアはまた『ここ』に来てしまうんだよね」


 ユウリがそう訊くと、「……うん」と、キリアは小さく、申し訳なさそうに、だが迷うことなく頷いた。


 その様子を見たときに、ユウリの心は決まった。


「私も、ついていくよ。キリア。でも、ひとつだけ約束して。ここでやるべきことが終わったら、もう危ないところには絶対に行かないでね」


 自分の言葉が、いつのまにか懇願のようになっていることに、ユウリは気づいてしまった。まるで、無鉄砲な弟のようなキリア。かれを守ってください、と、心に思い浮かべた進化教会の聖像に祈る。これで……これで戦いを捨てられるから、と。


 そして、キリアは答えた。


「……うん。約束する。もう、ぼくの故郷はないから、ユウリの街で働くよ。でも、僕になにができるかな」


「大丈夫。きっとやりたいことが見つかるところだから」


 ユウリがそう言うと、キリアは「うん、楽しみだね」と、笑みをうかべた。その顔こそが、本来のかれの顔なのだろう。この先も、ずっとその顔を見たい、とユウリはふたたび願った。


 そして、ゼムカに告げる。


「決めたよ。私たちは、『上層』へ行く」


「――そうか。ならば、その寝台を使うといい。このことがどのような結果になるのか、私には分からない。だが、おまえの選択に幸いのあることを……祈ろう」


「ありがとう」


 ゼムカの最後の言葉。それはたぶん、かれのささやかな好意だろう。


 そのとき、ガーシュインがゼムカに訊いた。


「……いちおう訊いておくが、私はこの機械を使って、上層に行けるのか? できれば、かれらに伴いたいと思うのだが」


 だが、ゼムカはすげなく答えた。


「属する組織が異なるとはいえ、私たちは同種だ。私たちに『精神』はない。あらかじめ用意された思考回路に従うのみだ。ここより先は、『精神』の領域。……われわれの出る幕ではない」


「そうか」と、残念そうなガーシュイン。


「……ユウリ、キリア。悪いが、私はここで君たちの帰りを待つ。未知の領域でなにが起ころうと、どんなに傷つこうと、生きてここまでたどり着け。そうすれば、私は全能力をもって、君たちを故郷へと送り返してやろう」


 そう言って、ガーシュインは甲冑を鳴らした。表情こそないが、そこに垣間見える「感情」は、たしかに存在するはずだ。ユウリはそう信じている。


「ありがとう。なぜあなたが、私たちをここまで守ってくれるのか、私たちがあなたの行いに値するのかは分からない。でも、戻ったら、かならずあなたに報いよう」


 ユウリがそう告げると、ガーシュインは言った。


「君たちを助けるのは、役目だ。だが、こうして交わす言葉は、役目とはまた別のものだ。私は、君たちをもっと助けたい。それが望みだ。ありがとう」


「……礼を言うのは、こっちだ。必ず、戻る」


 そして、ユウリとキリアは、互いに頷きあって、べつべつの寝台に横たわる。


(精神だけになって、果たして私は何ができる?)


 つきまとう疑問。だが、いまキリアにつき従えるのは、私だけだ……と、ユウリは自分自身に言い聞かせた。


 そして、目を瞑った。

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