第19話 交換条件


 砂漠を蹴立てて、疾走する。


 トウカの乗る二輪車には、2ストローク・排気量五百ccのエンジンが搭載されている。

 張り裂けんばかりの排気音と、それに見合うだけの凄まじい出力を発する。エンジンを始動した時に、アイドリング付近でぐずついていたのが嘘のようだ。回転計に目を落とせば、毎分六千回転。

 この数字に達したとき、まるでエンジンの全ての構成要素がぴたりと嵌ったかのように、不安げな振動が消え失せ、ばらついていた出力が安定しはじめた。



 トウカはゴーグル越しに前方を見る。視界のはるか先に、『脊柱』が見える。

 ゆるやかなS字を描く、雲を衝く巨塔。彼方に霞む乳白色の表面は、まさしく砂地に晒されたまま朽ちていく骨のようだ。


 すべての意匠には、必然性がある。人間が生み出したもの全てが、なんらかの理論的な思考……設計思想に基づいて造られている。

 ならば、あの塔の設計思想とは何か。

 脊柱。こうやって遠目に見ると、まるでこの世界そのものの背骨のように見える。


 あれは、一体なにを支えているのだ?

 その頂上には、なにがある?


 その疑問は、しかし、無視したまま生きていける。

 関わらずに済ますことができる。

 だが、ユウリたちはあそこに行ってしまった。


 ……無事であってほしい。もし、危ない目に遭うのであれば、そこに自分がいて、なんとかして守ってやりたい。

 それが、私のやりたいこと。


 知らず、トウカはスロットルを握る手に力を込めていた。

 排気音はさらに勢いを上げ、フロントタイヤの接地感が一瞬だけ薄れる。


 一直線に、数十分ほども走ると、さっきまでは遠くに霞んで見えていた『脊柱』が、今ではその細部まで見えるほどの距離に至った。


「……近くで見ると、やっぱり気持ち悪いつくりね」


 二輪車を走らせながらの、問わず語りの呟き。

 その呟きは、トウカの口から漏れてしまえば、そのまま消え失せてしまうもの。



 そうである、筈だった。



「──そうね。わたしもそう思うわ」


 トウカのすぐ後方で、そう答えた、声。


(……え!?)


 砂漠を疾走する二輪車。速度は……時速120キロメートル。

 この速度に、ついてこられるものは存在しない。

 なのに。

 トウカは速やかに減速しようとする。だが、制動力の要である前輪ブレーキを強く掛けすぎてしまえば、待ち受けているのは激しい転倒だ。

 スピードを十分に殺し、そのまま大きく旋回する。視線は、描いた弧の内側へと滑らせる。


(誰か……いる!)


 トウカの視線の先に、その者は立っていた。


 砂まじりの風が吹き荒れるなかで、暗赤色の外套がはためいている。

 髪は、まるで光を蓄えているかのような、豪奢な金色。

 地上を這う者にはありえない軽やかさで、つい、と立っていた。


 トウカは後輪を滑らせながら鋭く旋回し、その者のそばに近づいた。


「──『機械』ね。私になにか用かしら。悪いけれど、急いでいるの」


 トウカがそう告げると、その者は、にっこりと笑った。


「急いでるのは、見ればわかるわ。……久しぶりに見たもの。人間が、鉄と油の匂いをさせながら、『脊柱』へ向かうのを、ね」


 トウカはその者の貌を見た。

 女の貌だ。卵形の、ほっそりと美しい貌。すがめられた目の奥、瞳は赤色。そこに宿るのは、好奇心と……ある種の欲望。人の似姿をとっているが、その本質は、まさしく『機械』であることを、トウカはよく知っていた。


(この姿は、幻。だまされてはいけない。私は、この者たちの行動原理を……知っている)


 そうやって構えた心を見透かしたか、その者は薄い微笑みをこしらえた。


「怯えることはないわ。わたしは、あなたがここに来た理由を知りたいだけよ、傷だらけのお嬢さん」


いやにはっきりとした発音。

 一瞬、かぁっと頭に血が上る。久々に感じるほどの不愉快さだ。いま、背中に担いだ小銃を突きつけたら、あの者はいったいどんな貌をするだろうか。しかし、ここで己に激発を許す理由はどこにもない。


「……ご挨拶ね。好きで傷だらけになったんじゃないわ。悪いけど、あなたに構っている暇はないの。また今度、時間があったら喧嘩を買ってあげるわ」


 そう言い捨てて、再びスロットルに力を加えようとしたとき。


「あなた、この先に行った人間を追っているの?」と、その女は訊いた。


 トウカは答えない。頷きもしない。

 だが、その女はトウカの内心を見透かしたかのように、にいっ、と笑った。


「あたりでしょ。だったら、ちょっとした取引をしない? ……あの『脊柱』に入るために」


 だが、トウカはそっけなく答える。


「やなこった、ってとこね。あなた、まったく信用できなさそうな貌してるもの」


「……それこそ、ご挨拶ね」と、女から笑みが消える。


「なんの鍵情報もなく、手ぶらで入れると思っているの? それなりに支払うものがあってこそ、開ける道もあるわ」


「喋る口は、あなたのものだけじゃない。……そうね、名前だけは訊いておくわ」


「じゃあ、これは無料で教えてあげる。わたしはナイマ。あなたは?」


「トウカ」


 ただ一言、告げた。「ナイマ」という名前には聞き覚えがあった。この女こそが、ユウリが連れてきた少年……キリアをあそこまでに傷つけた、張本人だ。こいつになど、心を許せるものか。これ以上、言葉を交わす必要はない。


 ナイマから視線を外す。視界の外で、ナイマがわずかに戸惑う気配。

 トウカは再びスロットルを捻った。今度こそ、ここを離れる。


「ちょ、ちょっと!」と、そこにナイマが追いすがる。


 振り向いて、ナイマの様子を見る。ナイマは砂上からわずかに浮き上がり、そのまま追随してきている様子だ。どうやって動力を得ているかは、まったく分からない。だが、車両ならぬ人の身では、二輪車の速度に追いすがるのは無理があるようだ。身にまとう外套が、激しくはためいている。


 そんな姿を見ながら、トウカは思った。あの女……ナイマがそこまで強く、人間に執着する理由とはなんなのだろうか、と。

 そのとき、ふとナイマの左腕が欠けていることに気づいた。風を受けて身体にはりつく外套が、ナイマの輪郭を浮き立たせている。なにか、争いごとで受けた傷だろうか。また、それが、彼女の焦りの原因か。


 ──それだけは、確かめておこうか。


 そう、トウカは考えた。はっきり言えば、胸糞の悪い相手だ。だが、情報は情報だ。この女を、ユウリとキリアに不必要に近づけさせないために。


 トウカは、スロットルを握る力を緩めた。車速が徐々に落ち、やがてナイマが追いついた。トウカはナイマに声をかける。


「……ずいぶん、しつこいわね。取引はしないって言ってるでしょう。ほかに用事があるの?」


 トウカがそう訊くと、ナイマは眉間にしわを寄せた。


「あるから追っかけてるんでしょ。ま、取引はやめておくわ。……実はね、わたしも『脊柱』に行こうと思っている。あの中には、いまふたりの人間が侵入している。わたしは、そのうちのひとりの『精神』が欲しいの」


 また『精神』か、とトウカは思った。かれらがそれを求める執着心は、人間においてはどれほどの欲望に見合うものだろう。そして、彼女のつけねらう「そのうちのひとり」とは、キリアにほかならない。

 トウカが黙っていると、ナイマは言葉を続けた。


「そこで、よ。わたしもその人間を追いかけたいの。つまり、あなたと目的は同じ。でも、『脊柱』は、はたして私やあなたを受け入れるのかしら?」


「あなた、『機械』でしょう? どうして『脊柱』の中のことが、あなたに分からないの?」


「わたしが属する階層は、あくまで低い階層、なの。より上位の階層のことを知るには、それなりの資格がいる。でも、わたしにはそれがない」


「それで?」


「だから、中に入ったとしたら、なにが起こるか分からないってことよ。ここでひとつ、協力しない? そうする余地が、わたしたちにはあるわ」


 ナイマの、誘うような目つき。だが、そこには昏い光が見える、とトウカは思った。まだ、なにか「理由」を隠している。


「──その腕、どうしたの?」と、トウカは訊く。


 ナイマは、前腕を失った左腕を、わずかに後ろに引いた。


「……わたしたちにもね、敵がいるのよ。『脊柱』は、けっしてわたしたちの眷属だけのものではないってこと」


「……そうなの?」


トウカにとっては、はじめて知る事実だった。『機械』たちが、一枚岩ではない、ということ。

 ナイマは反応を窺うように、トウカの貌を眺めていた。


「未知の領域に飛び込むためには、お互いに戦力がいるわ。戦えそうなあなたと組みたいの。どうかしら?」


 差し出された右手を、二輪車に跨ったままのトウカは見つめた。

 真白く、細い指。たしかに戦いには不向きだろう。こんな華奢な身体で、この女はどこへ向かおうというのか。


 トウカはひとつ深呼吸して、言った。


「最後に、ひとつだけ訊くわ。どうして、その『人間』に、そこまで執着するの?」


 その質問を受けて、ナイマはほんの少しの間だけ、視線を落とした。が、やがて、まっすぐにトウカを見た。


「──その人間の精神が、わたしには「美しい」と思えたからよ。あなたも知ってるみたいな口ぶりだけど、キリアっていう子でね。助けたい、探したいって心が、まっすぐに遠く、遠くへと伸びているの。それを「見た」とき、私ははじめて人間の心が欲しい、って思った。ま、一目惚れってやつね」


「……しかし、あなたはキリアを死の淵に追いやった。キリアの『精神』を、とことんまで奪うことで!」


 トウカははっきりと気づいた。

 この執着は、キリアを殺しうる心だ。本質的には「憧れ」に近くとも、それが現れた結果、キリアがいったいどのような目にあったのか。それだけは、けっして忘れてはいけない!


 その語調に、ナイマはわずかにひるんだように見えた。


「……確かに、私は欲望のままに、キリアの精神を奪ったわ。でも、キリアは「守られている」ことには気づいていたわ。おそらく、それで死ぬことはないだろう、って」


「守られている?」と、トウカ。


「そう。キリアには、なにか強いエネルギーを持った存在が追跡しているようだった。その実体がなんなのかは、わたしのセンサーでは観測できなかったけれど……おそらくは、『脊柱』そのものが、キリアになんらかの興味を抱いているようだったわ」


 キリアが『脊柱』に守られている。それは、トウカの予想を超えた言葉だった。だが、かりに庇護があったとしても、それがずっと続くという保証はどこにもない。


 しかし、ひとつだけ、気になる点があった。

 キリアを助けたとき、ユウリは二体の機械に遭ったと言っていた。

 一体は、ナイマ。そしてもう一体は……たしか、スーラという名だった。


「ナイマ、あなたの眷属に、スーラという者はいるの?」


 トウカが訊くと、ナイマはわずかな時間ののちに、答えた。


「いないわ、そんな名前のは」


「……そう」


 不思議な話だ。ならば、スーラとは何者か。

 だが、そのことに思考を巡らせていたトウカに、焦れた様子のナイマが話しかける。


「で、結局、一緒に行ってくれるのかしら? わたし、あなたに気に入られたくて、知っていることはぜんぶ話したわ」


 ひどくあけすけな語り口に、知らず、トウカの口元に苦笑いが浮かんでいた。


「……あなたに色々と教えてもらったことには、素直に感謝するわ、ナイマ。そうね、確かに私たちには、協力しあえる部分もある。……でも、約束して」


「何を?」


「私は、あくまで先に行った二人、ユウリとキリアを守ることだけが目的よ。それを阻むようであれば、私はいつでもあなたの敵となる。あなたがキリアの精神を欲しているのは理解したわ。でも、それがキリアの生命を脅かすものであるかぎり、けっして協力はできない。……つまり、『ユウリとキリアに敵対するな』ということ、ね」


「えー」と、唇を尖らせるナイマ。


 すこし気を許してきたのだろうか、表情がやや柔らかくなった。


「今だから言うけど、わたし、もうその二人には相当嫌われてるわ」


「嫌われてるくらいなら構わないでしょう。これからの行動で、わたしとユウリ、キリアの好意を勝ち取りなさい。……逆に、あなたが約束を守ってくれているかぎり、私、トウカは、あなたを必ず守ることを誓うわ」


 そう告げると、ナイマは満足そうに微笑んだ。


「約束は守るわ。……あ、あとね、『守ることを誓う』って言ったときのあなたに、すごく澄んだ精神が見えたわ。ちょっと惚れたかも」


 そういうとナイマは、改めてトウカの姿を見つめてきた。


「ふん、惚れっぽいのね。私の精神でよければ、ことが済んだらいくらでもあげるわ。……後ろに乗りなさい。地面から浮いて飛ぶより、すこしは楽でしょうから」


 と、トウカは二輪車の後席を指し示した。ナイマは「ありがとね」と言って、ひらりと後席に腰を落とした。

 ナイマの乗車を確認したのちに、トウカはスロットルを捻る。

 ひときわ甲高い排気音とともに、後輪が砂漠を蹴りつける。


 目指すは、『脊柱』。そこに着くまでは、あとわずかだ──。

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