第12話 地下の者
「快適なお散歩、楽しんでるかしら?」
それは、まるで同行者から話しかけられたかのように、近かった。
「──!」
振り向きざま、ユウリは対甲銃を構えた。銃床を懐深くに抱え込み、至近距離で放てるように。
「相変わらず敏感な子ね。ちょっと声をかけただけで、これだもの。もし触れてみたりしたら、どんな仕草を見せてくれるのかしら」
何もなかった、薄暗がりがどこまでも続くはずであった空間に浮かぶ、血のような赤。
それは、まるで亡霊のように揺らめくローブ。
「──ナイマか」
ユウリが呟く。その声に呼応するかのように、キリアもナイフを構える。
「正解。久方ぶりに会って、忘れられていたら寂しかったわ。物覚えのいい、あなたたちの生体脳に感謝、ね」
ナイマ。
「……何の用だ」
ユウリが訊くと、ナイマは答えた。
「もちろん、そこの彼に会いに」と、キリアのほうを顎でしゃくって見せる。
「損なった精神を癒した彼と、また取引をしたいもの」
その言葉に、キリアは表情を固くする。
だが、その口ぶりを耳にした途端、ユウリは心に黒いものがわだかまるのを感じた。
「……ナイマ。キリアの旅程に、もう貴様の『知識』とやらは必要ない」
「あら、そう? とっても自信ありげだけど、それも結局、貴女が『機械』に精神を売って手に入れた『知識』があるからでしょう?」
「…………」
「せっかくだから、ひとつだけ、ただで教えてあげるわ。貴女はただ、『脊柱』の入り口のありかを知っているだけ。そこから先へ進むには、まだ必要なものがたくさんあるわ。その知識は、なんらかの方法で私たちから得なければならない」
「それで、さらなる取引を……か」
「そう。モノの偏りと同様に、知識の偏りも取引のたねにできるから、ね。そうでしょう、キリア?」
誘うような言葉に、キリアは応じない。
その様子に、ナイマはいささか落胆した様子だった。
「キリア、貴方は、貴方の目的を果たすために、貴方の『精神』を支払わなければならない。言ってみれば、それは私と貴方の通貨だから。しかもそれは、時間に応じて回復するもの。貴方はなにも損をしない。……貴方も旅の身。だから、私も欲張らないわ。安全で、だれも損をしない取引よ。どう?」
そう言って、ナイマは誘うように、白く細い指先をくねらせた。その肌の奥底には、細木のような実体があるはずだ。
ユウリはキリアの横顔を見つめた。
──そうだ。その提案の理屈そのものは、間違っていないのだ。
ただ、精神をやりとりするその瞬間、相手を信頼するか、あらかじめその悪意を縛るか、どちらかを選ぶ必要があるというだけ。
「ユウリ、僕は……」
キリアが何かを言いかけるのをユウリは制し、彼だけに聞こえる声で囁いた。
「この取引は、いまは必要ない。『脊柱』に入るために必要な知識を、ナイマ「だけ」が持っていることを確認してからでも、遅くはないはずだ」
そう言ったときに脳裏に浮かんだのは、ベリテーの貌だった。
彼女は、少なくともナイマとは違い、彼の精神を欲してはいない。
欲しがっているのは、ユウリの「精神」だ。
(……キリアを危険に晒すわけにはいかない。そうでなければ、私の存在意義はない)
目的は、もとより定まっている。ナイマは、その障害でしかない。
「あら、目の前で内緒話? そういうのって好きじゃないわ」
ナイマの眼に、より危険な光が宿る。
だが、ユウリはその眼を睨みながら、答えた。
「招かれざる商人をどう扱えばいいか、思い出したよ」
ユウリは対甲銃を構える。
「──その尻を、蹴り上げてやれば良かったんだ」
「不躾ね」
「立ち去れ。さもなくば、その肉体に風穴を開けてやる」
「このだいじな身体を傷つけたら、──怒るわよ?」
怒気をはらんだナイマの金髪が、まるで揺らめくかのように見えた。
その振る舞いをあえて無視しつつ、ユウリは黙したまま銃の狙いを定め続ける。
だが、ナイマは不意に笑みを浮かべた。
「そうやって、すぐに貴女は銃を向ける。怖くて仕方がないわ」
その言葉とは裏腹に、まるでユウリの心を見透かすような笑い。彼女は銃などを怖れてはいない。
「まあ、いいわ。私、けっこう我慢強いのよ。あなたたちが取引に応じる気になる時を、ちゃんと待ってるからね」
そう言い終えたのちに、ナイマは、それじゃ、と小さく呟き、踵を返そうとした。
だが、その軽やかなターンが、不意にこわばる。
「眷属の面汚しめ」
低い、吐き捨てるような声。
誰の声だ、という、小さな疑問がユウリの脳裏に生まれた瞬間。
がぁん、という激しい金属音が、この広大で空虚な地下世界に轟く。
「────!」
ナイマの声にならない呻き。彼女は凍り付いたかのよう。
その傍らに、まるでわだかまる闇のような姿が、ひとつ。
(──あんなものは、いままで、そこにはなかった)
いつの間に、という疑問も、もはや空しい。
あぁん、あぁん、という残響音が消えきらぬうちに、何かが金属の床を叩く、軽やかな音がした。
床に落ちたもの。それは、まるでもぎ取られた昆虫の脚のような──ナイマの腕だった。
それはもはや、肉……精神の殻をまとってはいなかった。『機械』たちの本質そのものの節くれ立った金属体が、剥き出しのまま転がっている。
「……ぐっ……!」
人間では考えられないほどの速さで、ナイマは飛びすさり、大きく距離を開けた。
その場に残された影が、ゆっくりと立ち上がる。
「……あれは」
震える声音で、キリアが呟く。
まるで、むかし絵本で読んだ、騎士のようだった。
ナイマよりも頭二つ分は大きい。その巨体は、
その剣が、ナイマの腕を断ち切ったのだ。
「……あれも『機械』なのか……?」
短刀を構え、ユウリを守るかのように前に進み出ながら、キリアは呟いた。だが、その問いには誰も答えない。
ユウリはナイマを見た。彼女の表情には、かつてないほどの怒気が充ち満ちていた。その金髪は、まるで逆立つかのように揺らめき、身に纏う外套の赤色は、まさしく赫怒を示すかのようだ。
「……わたしの……わたしの身体を、よくも、よくも傷つけてくれたわね……! 『脊柱の者』……いいえ『地下の者』……地下に蠢く地虫ふぜいが、このわたしの身体を!」
つねに戯れ歌のような言葉ばかりを紡いでいたナイマの唇が、今は剥き出しの悪意を吐き出していた。断ち切られたのは左腕だ。肘から先を失った腕を、まるで抱きしめるかのように、右手で胸元に引き寄せている。
『脊柱の者』と呼ばれた者は、剣の切先を無造作に下ろしたまま、そんなナイマの姿を冷ややかに見つめていた。表情のほどは、全く読み取れない。
やがて、その者は再びナイマに向けて音声を発した。
「……『地上の者』。人間の精神を漁る、卑しき者。おまえたちがそれを欲そうが、われらは関知しない。だが、『脊柱』に触れようとする人間に害を為そうとするのであれば、容赦はしない」
ナイマは煮えたぎる怒りを抑えるかのように、ほう、と大きく吐息を吐いた。
「ええ、わかったわ。まさか、このあたりまであなたがたが出張ってくるとは思わなかったし。……でも、必ず叩き壊してやるからね。そのための手筈を、かならず整えて」
断ち切られたナイマの腕からは、有色の液体が滴り、気化したガスが漏出している。
だが、まったくの無傷である『脊柱の者』は、その様子を静かに睥睨するのみだ。
「復讐か。無駄な行動原理だ。しかし、いま立ち去るのは正解だ。二度とこの領域に入らず、そして二度と『脊柱』に触れようとするものに手出しをせぬがいい。そのふたつを破らねば、われらはおまえの敵にはならない」
「……そんな約束はいやよ。必ず、あなたの敵になってあげるから」
その捨て台詞とともに、ナイマは後方に大きくステップし、軽やかな反転ののちに飛び去っていった。赤い外套が、闇の中に溶けてゆき、そして消えた。
その場に取り残されたユウリとキリアは、改めて『脊柱の者』に向き直る。
(彼は、何者だ?)
表情の窺い知れない、機械そのものの貌。
敵か、味方か、あるいはその他の何者か。判断材料は、ふたつだけ。ナイマに敵対したということと、『脊柱』に接触しようとする人間に、なんらかの関心を抱いている、ということ。
ユウリを庇うように立っていたキリアが、『脊柱の者』に訊いた。
「……正直、状況が分からないんだ。なぜ、あなたがナイマを斬ったのか、……いや、そもそも、ナイマは確かに、僕らの敵なのか」
その問いかけに答える前に、『脊柱の者』は、その剣を腰に納めた。
「……ひとつひとつ答えていこう。あの機械──君たちが『ナイマ』と呼んでいたもの──を斬ったのには、さしたる理由はない。彼女が君たちに危害を与えるおそれがあるから、斬った。それだけだ。もうひとつの質問は、私の判断すべきことではないだろう。しかし、『敵になりうる』存在であることは確かだ。そんな者に、目の前をうろつかれては困る」
まるで、頭上の蠅を追い払うかのような気軽さに、二人の会話を聞いていたユウリは、どこかうそ寒さを覚えた。
「たしかにナイマは、今の私たちにとって『敵になりうる』存在ではある。……けれど、彼女はけして遺恨を忘れはしないだろう」
「問題はない。もとより、戦うための素地が違う。あの者の素体は、華奢に過ぎる。その差を、あの『地上の者』……ナイマが、どう埋めてくるのか。再戦が楽しみだ」
そう言って、『脊柱の者』は兜の口元を軋ませた。笑っているのだろう。
──この者もまた、理解しがたい。
そう、ユウリは思った。今は敵ではないが、彼が敵に回ったときには、おそらくナイマ以上の脅威になるだろう。
だが、そんなユウリの怖れをまるで意に介さぬ様子で、彼は言った。
「人間たちよ、ついて来るがいい。旅路の安全は保証しよう。我等『地下の者』たちは、君たちを長いこと待っていたのだから」
その言葉とともに、彼はユウリ達に背を向け、歩き出す。
キリアに目配せをする。彼は小さく頷く。
ユウリは、彼についていくことに決めた。
先をゆく『脊柱の者』の背に、ユウリは問うた。
「──あなたの名前は?」
その質問に、振り向くことなく彼は答えた。
「ガーシュイン」
鋼が軋むような、声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます