第12話 地下の者

「快適なお散歩、楽しんでるかしら?」


 それは、まるで同行者から話しかけられたかのように、近かった。


「──!」


 振り向きざま、ユウリは対甲銃を構えた。銃床を懐深くに抱え込み、至近距離で放てるように。


「相変わらず敏感な子ね。ちょっと声をかけただけで、これだもの。もし触れてみたりしたら、どんな仕草を見せてくれるのかしら」


 何もなかった、薄暗がりがどこまでも続くはずであった空間に浮かぶ、血のような赤。

 それは、まるで亡霊のように揺らめくローブ。


「──ナイマか」


 ユウリが呟く。その声に呼応するかのように、キリアもナイフを構える。


「正解。久方ぶりに会って、忘れられていたら寂しかったわ。物覚えのいい、あなたたちの生体脳に感謝、ね」


 ナイマ。華燭かしょくのような金髪。その真白い貌には、感情をはかりがたい、淡い笑みを浮かべている。その爪先は、金属質の床からわずかに浮き上がっている。それもまた、彼らの技術によるものか。


「……何の用だ」


 ユウリが訊くと、ナイマは答えた。


「もちろん、そこの彼に会いに」と、キリアのほうを顎でしゃくって見せる。


「損なった精神を癒した彼と、また取引をしたいもの」


 その言葉に、キリアは表情を固くする。

 だが、その口ぶりを耳にした途端、ユウリは心に黒いものがわだかまるのを感じた。


「……ナイマ。キリアの旅程に、もう貴様の『知識』とやらは必要ない」


「あら、そう? とっても自信ありげだけど、それも結局、貴女が『機械』に精神を売って手に入れた『知識』があるからでしょう?」


「…………」


「せっかくだから、ひとつだけ、ただで教えてあげるわ。貴女はただ、『脊柱』の入り口のありかを知っているだけ。そこから先へ進むには、まだ必要なものがたくさんあるわ。その知識は、なんらかの方法で私たちから得なければならない」


「それで、さらなる取引を……か」


「そう。モノの偏りと同様に、知識の偏りも取引のたねにできるから、ね。そうでしょう、キリア?」


 誘うような言葉に、キリアは応じない。

 その様子に、ナイマはいささか落胆した様子だった。


「キリア、貴方は、貴方の目的を果たすために、貴方の『精神』を支払わなければならない。言ってみれば、それは私と貴方の通貨だから。しかもそれは、時間に応じて回復するもの。貴方はなにも損をしない。……貴方も旅の身。だから、私も欲張らないわ。安全で、だれも損をしない取引よ。どう?」


 そう言って、ナイマは誘うように、白く細い指先をくねらせた。その肌の奥底には、細木のような実体があるはずだ。


 ユウリはキリアの横顔を見つめた。

 ──そうだ。その提案の理屈そのものは、間違っていないのだ。

 ただ、精神をやりとりするその瞬間、相手を信頼するか、あらかじめその悪意を縛るか、どちらかを選ぶ必要があるというだけ。


「ユウリ、僕は……」


 キリアが何かを言いかけるのをユウリは制し、彼だけに聞こえる声で囁いた。


「この取引は、いまは必要ない。『脊柱』に入るために必要な知識を、ナイマ「だけ」が持っていることを確認してからでも、遅くはないはずだ」


 そう言ったときに脳裏に浮かんだのは、ベリテーの貌だった。

 彼女は、少なくともナイマとは違い、彼の精神を欲してはいない。

 欲しがっているのは、ユウリの「精神」だ。


(……キリアを危険に晒すわけにはいかない。そうでなければ、私の存在意義はない)


 目的は、もとより定まっている。ナイマは、その障害でしかない。


「あら、目の前で内緒話? そういうのって好きじゃないわ」


 ナイマの眼に、より危険な光が宿る。

 だが、ユウリはその眼を睨みながら、答えた。


「招かれざる商人をどう扱えばいいか、思い出したよ」


ユウリは対甲銃を構える。


「──その尻を、蹴り上げてやれば良かったんだ」


「不躾ね」


「立ち去れ。さもなくば、その肉体に風穴を開けてやる」


「このだいじな身体を傷つけたら、──怒るわよ?」


 怒気をはらんだナイマの金髪が、まるで揺らめくかのように見えた。

 その振る舞いをあえて無視しつつ、ユウリは黙したまま銃の狙いを定め続ける。


 だが、ナイマは不意に笑みを浮かべた。


「そうやって、すぐに貴女は銃を向ける。怖くて仕方がないわ」


その言葉とは裏腹に、まるでユウリの心を見透かすような笑い。彼女は銃などを怖れてはいない。


「まあ、いいわ。私、けっこう我慢強いのよ。あなたたちが取引に応じる気になる時を、ちゃんと待ってるからね」


 そう言い終えたのちに、ナイマは、それじゃ、と小さく呟き、踵を返そうとした。

 だが、その軽やかなターンが、不意にこわばる。


「眷属の面汚しめ」


 低い、吐き捨てるような声。


 誰の声だ、という、小さな疑問がユウリの脳裏に生まれた瞬間。

 がぁん、という激しい金属音が、この広大で空虚な地下世界に轟く。


「────!」


 ナイマの声にならない呻き。彼女は凍り付いたかのよう。

 その傍らに、まるでわだかまる闇のような姿が、ひとつ。


(──あんなものは、いままで、そこにはなかった)


 いつの間に、という疑問も、もはや空しい。

 あぁん、あぁん、という残響音が消えきらぬうちに、何かが金属の床を叩く、軽やかな音がした。



 床に落ちたもの。それは、まるでもぎ取られた昆虫の脚のような──ナイマの腕だった。



 それはもはや、肉……精神の殻をまとってはいなかった。『機械』たちの本質そのものの節くれ立った金属体が、剥き出しのまま転がっている。


「……ぐっ……!」


 人間では考えられないほどの速さで、ナイマは飛びすさり、大きく距離を開けた。

 その場に残された影が、ゆっくりと立ち上がる。


「……あれは」


 震える声音で、キリアが呟く。

 まるで、むかし絵本で読んだ、騎士のようだった。

 ナイマよりも頭二つ分は大きい。その巨体は、精緻せいちに組み合わされた金属製の装甲で覆われていた。手に握っているのは、長大な剣。

 その剣が、ナイマの腕を断ち切ったのだ。


「……あれも『機械』なのか……?」


 短刀を構え、ユウリを守るかのように前に進み出ながら、キリアは呟いた。だが、その問いには誰も答えない。


 ユウリはナイマを見た。彼女の表情には、かつてないほどの怒気が充ち満ちていた。その金髪は、まるで逆立つかのように揺らめき、身に纏う外套の赤色は、まさしく赫怒を示すかのようだ。


「……わたしの……わたしの身体を、よくも、よくも傷つけてくれたわね……! 『脊柱の者』……いいえ『地下の者』……地下に蠢く地虫ふぜいが、このわたしの身体を!」


 つねに戯れ歌のような言葉ばかりを紡いでいたナイマの唇が、今は剥き出しの悪意を吐き出していた。断ち切られたのは左腕だ。肘から先を失った腕を、まるで抱きしめるかのように、右手で胸元に引き寄せている。


 『脊柱の者』と呼ばれた者は、剣の切先を無造作に下ろしたまま、そんなナイマの姿を冷ややかに見つめていた。表情のほどは、全く読み取れない。


 やがて、その者は再びナイマに向けて音声を発した。


「……『地上の者』。人間の精神を漁る、卑しき者。おまえたちがそれを欲そうが、われらは関知しない。だが、『脊柱』に触れようとする人間に害を為そうとするのであれば、容赦はしない」


 ナイマは煮えたぎる怒りを抑えるかのように、ほう、と大きく吐息を吐いた。


「ええ、わかったわ。まさか、このあたりまであなたがたが出張ってくるとは思わなかったし。……でも、必ず叩き壊してやるからね。そのための手筈を、かならず整えて」


 断ち切られたナイマの腕からは、有色の液体が滴り、気化したガスが漏出している。

 だが、まったくの無傷である『脊柱の者』は、その様子を静かに睥睨するのみだ。


「復讐か。無駄な行動原理だ。しかし、いま立ち去るのは正解だ。二度とこの領域に入らず、そして二度と『脊柱』に触れようとするものに手出しをせぬがいい。そのふたつを破らねば、われらはおまえの敵にはならない」


「……そんな約束はいやよ。必ず、あなたの敵になってあげるから」


 その捨て台詞とともに、ナイマは後方に大きくステップし、軽やかな反転ののちに飛び去っていった。赤い外套が、闇の中に溶けてゆき、そして消えた。


 その場に取り残されたユウリとキリアは、改めて『脊柱の者』に向き直る。


(彼は、何者だ?)


 表情の窺い知れない、機械そのものの貌。

 敵か、味方か、あるいはその他の何者か。判断材料は、ふたつだけ。ナイマに敵対したということと、『脊柱』に接触しようとする人間に、なんらかの関心を抱いている、ということ。


 ユウリを庇うように立っていたキリアが、『脊柱の者』に訊いた。


「……正直、状況が分からないんだ。なぜ、あなたがナイマを斬ったのか、……いや、そもそも、ナイマは確かに、僕らの敵なのか」


 その問いかけに答える前に、『脊柱の者』は、その剣を腰に納めた。


「……ひとつひとつ答えていこう。あの機械──君たちが『ナイマ』と呼んでいたもの──を斬ったのには、さしたる理由はない。彼女が君たちに危害を与えるおそれがあるから、斬った。それだけだ。もうひとつの質問は、私の判断すべきことではないだろう。しかし、『敵になりうる』存在であることは確かだ。そんな者に、目の前をうろつかれては困る」


 まるで、頭上の蠅を追い払うかのような気軽さに、二人の会話を聞いていたユウリは、どこかうそ寒さを覚えた。


「たしかにナイマは、今の私たちにとって『敵になりうる』存在ではある。……けれど、彼女はけして遺恨を忘れはしないだろう」


「問題はない。もとより、戦うための素地が違う。あの者の素体は、華奢に過ぎる。その差を、あの『地上の者』……ナイマが、どう埋めてくるのか。再戦が楽しみだ」


 そう言って、『脊柱の者』は兜の口元を軋ませた。笑っているのだろう。


 ──この者もまた、理解しがたい。


 そう、ユウリは思った。今は敵ではないが、彼が敵に回ったときには、おそらくナイマ以上の脅威になるだろう。


 だが、そんなユウリの怖れをまるで意に介さぬ様子で、彼は言った。


「人間たちよ、ついて来るがいい。旅路の安全は保証しよう。我等『地下の者』たちは、君たちを長いこと待っていたのだから」


 その言葉とともに、彼はユウリ達に背を向け、歩き出す。

 キリアに目配せをする。彼は小さく頷く。

 ユウリは、彼についていくことに決めた。


 先をゆく『脊柱の者』の背に、ユウリは問うた。


「──あなたの名前は?」


 その質問に、振り向くことなく彼は答えた。


「ガーシュイン」


 鋼が軋むような、声だった。

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