第11話 神経網
子供の頃のこと。深い井戸の底を覗き込んだときのことを、ユウリは思い出していた。
暗がりの奥。そこには陽の光も届かない。なにかの拍子に墜ちてしまったら、どうなってしまうか見当もつかない。誰の目にも届かぬ底面に叩きつけられ、助けを呼ぶこともかなわぬまま果ててしまうのだろうか。
そんなことを思い描いた途端に、慌てて井戸から離れてしまった。思い描いたありさまが、あまりに怖かったから。
……結果として、そのような不運に見舞われることはなかった。が、今しがた感じたものは、まさにあの時に想像した「怖さ」そのものだった。
「……ユウリ、大丈夫かい?」
呼吸を乱しながら、キリアがそう尋ねてきた。
「……大丈夫だ」
かろうじて、それだけを呟く。声音がはっきりと震えているのが、自分自身にもよく分かった。
そうだ。ベリテーから得た記憶をたよりに、ユウリは砂漠のなかのある一点を探したのだ。
広大な砂漠は、そのほとんどが『機械』たちの領域であり、そこには「感覚枝」と呼ばれる知覚器官が、縦横に張り巡らされている。
『脊柱』から遠く離れた場所であっても、感覚枝を見つけるのは難しいことではなかった。
砂漠からわずかに突き出た感覚枝は、まるで蛞蝓の触角のようだった。ユウリとキリアが近づくと、軸部分よりわずかに膨れた先端を、ちろりと二人に向けた。
その動作が何を意味しているのか。既にユウリは知っていた。
(私たちを、知ろうとしているんだ)
感覚枝。それは、人間の目、耳、鼻、手……自分以外の何かを「知る」ための器官にあたるものだ。あの小さな先端部が、外界のさまざまな情報を調べ上げる力を備えている。
感覚枝は、目や耳であるのと同時に、ある領域への出入りを司る「門番」でもあった。
ユウリが近づくと、感覚枝はその身体を探るかのような動きを見せた。まるで人体の器官をひとつひとつ透視するかのように。
その動きが止まったとき、ユウリの眼前で、砂地の中から円筒がせり上がってきた。その円筒は、ユウリの膝ほどの高さで上昇を止める。
円筒の上部の蓋が、まるで誘うように開く。その中に梯子などはない。
ぽっかりと口を開けた空間を見て、キリアが呟く。
「これって、飛び降りろってことかい?」
「そういうことだろうな」
意を決して、ユウリはその円筒のなかに飛び降りた。
落下。減速。緩衝。着地。
未知の力に抱きとめられ、ユウリたちは、結果としては、ごく安全に地下へと至った。
だが、落ちれば死ぬ、という因果をねじまげられた恐怖だけは、しっかりと心に刻まれてはいたが。
周囲の状況に注意を向ける。砂漠の地下に広がる広大な空間には、いまのところ嫌な気配はない。天井は
ここは、『機械』たちの連絡通路のようだ。この、地上に比べてはるかに穏やかな環境が、そのまま『脊柱』へと通じていてくれればいいのに。そう、ユウリは思った。
「……キリア、行こうか」
目指すべきは、『脊柱』の基部。『機械』たちの防衛線をかいくぐるための、たったひとつの解だ。
「うん」
+ + +
一歩、一歩と足を踏み出せば、金属の床がその動作を音として表現する。
かつん、かつん。
この広大な空間に、歪みもうねりもなく敷き詰められた金属板を踏みしめる。ここは、人間の手によってはけして作り得ない、巨大で精密な工作物だ。
見上げれば、天井には緻密な配管が張り巡らされている。おそらくは、それこそが感覚枝のネットワークを支える「神経網」なのだろう。
そう、ここはまるで。
「──異世界みたいだ」
と、キリアが呟く。ユウリも全く同じことを考えていた。
異世界。だからこそ、ここで起こるであろうできごとを想像することができない。
ただ、怖れつつ進むだけだ。
ユウリは、ベリテーによって脳裏に刻み込まれた「順路」を、思い描きながら歩く。
それが正解であるかは分からない。しかし、頼りとなるものは他にない。
信じるか、信じないか。つきつめれば、それしかない。
天井に並ぶ発光体の灯をたよりに、床に描かれた紋様に従って歩く。
その紋様が、かつて用いられていた文字であることは分かった。
(少なくとも、目的地に辿り着くための情報は受け取れたんだな、ベリテー)
ユウリの後ろを歩くキリアが、不安そうに呟く。
「……僕には、どっちに行けばいいのか、まったく見当がつかないよ」
「大丈夫。私についてきてくれ」
強い声音でユウリは言った。昨晩とは逆の立場だな、と思いながら。
視覚、聴覚を研ぎ澄ませて、歩く。
この空間には、まったく
(狙撃されたのなら、逃れる術はないな)
人間の手にさえ、銃はあるのだ。機械たちが銃を持てない筈はない。
──殺そうと思えば、いつでも殺せる。
かりに、自分たちの一挙手一投足がかれらの監視のもとにあるのだとしたら、自分たちの存在は、かれらの許しの上にある。
そう考えると、わずかに歩調が鈍るのが、ユウリには分かった。
そのとき、真横から声がした。
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