第10話 掌
首筋に触れた唇。
指先よりも、冷たく感じた。
ユウリは「次にくるもの」に備えて、身体を硬くした。
精神を売り渡すこと。それが何をもたらすのか。よく分かっているつもりではあったが、そんな知識は何の役にも立ちはしない。
だが、そんな不安を察知しているかのように、ベリテーはひどく穏やかに呟く。
「力を抜くがいい、大丈夫だ」
そして。
ユウリは、自分の「精神」、自分をかたちづくる見えざる殻が、やさしく剥がされていくのを感じた。
「…………」
違和感はない。それがあまりにも自然であることに、逆に怖さを覚えるほどに。
(吸われる)
首筋に当てられた、ベリテーの唇。そこを基点にして、ベリテーと同化し、彼女のほうへと「自分が」流動していく感覚。
ある種の肉食昆虫には、獲物をそのまま喰らうのではなく、体内に消化液を注入し、溶けた肉を啜るものがいるという。きっとこれは、そのようなものなのだろう──。
そんな、どこか血なまぐさいイメージだけが、心の奥底から滲み出てくる。思考の強度を保つ箍たががだんだんと力を失っていき、意識が乱れ始めた、そのとき。
「……取引は、終わった」という、静かな声をユウリは聞いた。……誰の? ベリテーの声だ。
気づいたときには、自分と同化していたはずのベリテーの唇は離れ、ただの薄まった「自分」だけが取り残され、この広大な砂漠に座り込んでいた。
「……私は……何を、失ったんだ……?」
呂律が回らない。複雑な言葉を構築するために必要な何かが、ぽろぽろと抜け落ちてしまっている。
「ユウリ、立てるかい?」
キリアが手を差し出してくる。その手をユウリは掴んだ。彼の手は力強く、己の手は、いまはあまりにも
全力を振り絞って、立ち上がる。ひどく足がふらつく。体幹の軸が定まらない。
キリアにもたれかかって身体を支えながら、ユウリはベリテーの姿を見つめた。
彼女はいつのまにか数歩ほど離れて、ユウリの様子を窺うかのような視線を投げかけてくる。
「ユウリ……君がなにを失って、なにを得たか。もう、知っているはずだ」
彼女の言葉を理解するのに、数秒ほどの時間を要した。
失ったもの。それは、己の『精神』。
得たものは、キリアとユウリにとって必要な知識。
知識。ほんの数分前まではなにひとつ知らなかったはずのものごとが、星のように脳裏に瞬く。これはひどく不思議なことだった。
(……『脊柱』の地下構造が……分かる?)
まるで、自分の故郷のことを思い出すかのように。あの大好きな教会のステンドグラスの光を、瞼の裏に思い描いたときのように。
『脊柱』のことを思い出す。いまなら、それができた。
そんなユウリの戸惑いを悟ったかのように、ベリテーは頷く。
「大丈夫だ。その知識に従い、進むといい。それに見合うだけのものは、もう貰った」
(精神は魂の通貨……私には『脊柱』の知識……では、ベリテーは、なにを得たんだ?)
そのことを、問おうと思った。
だが、言葉を編むことが出来ず、身体にはまったく力が宿らない。
そんなユウリをよそに、ベリテーは言った。
「ユウリ。……またいずれ、会うことになるだろう。そのときまでに……損なわれた心を癒しておくのだな」
再会の予告。それだけを残して遠ざかり、また砂塵のなかに滲むように消えていく。
その姿が完全に消え失せたとき、はじめてユウリは、自分の身体がキリアに抱き留められていることに気づいた。
「大丈夫かい?」
キリアの気遣う声が、ユウリの耳のすぐそばで聞こえた。
「大丈夫……だ」
反射的に、そう答える。だが、ひとたびキリアの腕に体重を預けてしまうと、そのまま崩れてしまいそうになる。
「すこし休もう」
そう言って、キリアはユウリを抱いたままゆっくりと座り込んだ。傍らに布を敷き、そこにユウリの身体を横たえると、携帯天幕を組み立て始めた。
その様子をぼんやりと見つめながら、ユウリはこれから話さなければいけないことを、ゆっくりと組み立てていくことにした。
+ + +
活力を失った身体を癒すために、その日、ユウリは天幕のなかで休んだ。
日が落ち、夜が訪れる。緻密に織られた布でできた天幕は、夜の冷気から身を守ってくれた。ユウリとキリアは並んで横たわっていた。
(……だいぶ、楽になったな)
そう思いながら、ユウリは自分の手を目の前にかざして見た。天蓋を通して届く月明かりは弱く、その手の細かな様子は分からない。崩れてしまったのか。そうでないのか。
(……キリアは何を願って、あんなにも傷ついたのだろう)
機械たちは、「願い」に応じた分の『精神』を持ち去っていく。それが本当に公平な取引であるかは、まったく分からない。だが、キリアが得たものは、きっとそれなりに価値があるものなのだろう。
ユウリは小さく寝返りをうって、隣のキリアの様子を窺った。
暗がりのなかで、天幕ごしの弱々しい光を受けて浮かび上がる、キリアの横顔の輪郭。その鼻梁の頂は、やわらかく丸みを帯びていて、まだ幼さを残しているように見える。
(……もしも私に弟がいたら、こうやって並んで眠ったりできたんだろうか)
そんな事を考えてしまうのは、どこからか忍び込んだ寂しさからか。
キリアはきっと寝ているだろうから、と、ユウリは少しだけ彼のそばにすり寄って眠ろうとした。
その時。
「──眠れないの?」と、ささやくようにキリアが声をかけてきた。
突然の言葉に、ユウリはびくりと震えてしまう。
「……すまない。昼間のことが、頭から離れなかったんだ」
すこしだけ混じる、言い訳がましい響き。
「そうだよね。……でも、機械たちに持っていかれた『精神』は、時が経てば、かならず癒える。大丈夫。じきに、落ち着いてくると思うから」
「そうかな」
「うん。……こういう時は、心の中で、いろんな人や場所のことを思い出してみるのがいいらしいよ」
「なぜ?」
「自分の思い出を辿っていくと、散り散りになった自分の心を繕うことができる。……そう、トウカさんが言っていた」
トウカが、と、ユウリは呟いた。しかし、心のなかにいつも浮かんできたはずの笑顔が、今はなぜか絵を結ばない。ただ、ぼんやりとした靄のようなものが、脳裏にゆるゆると現れるだけだった。なぜだ? あんなにも近しかったあの優しい笑顔が、心の中に浮かんでこない。
「……嘘だ」
大事なものが、大事であるとわかっていながら、自分の手元から無くなっている。
それが本当に悲しむべきことであるはずなのに、その悲しみでさえ、どこか浮ついていて実感がない。
──これが、精神を失う、ということか。
「……どうしよう、キリア。トウカのことを、うまく思い出せないんだ」
こうやって、さまざまな記憶を失っていけば、あとに残るのは、きっと遺跡のように時の止まった思考だけが残されるのだろう。その状態にわずかに近づいただけに過ぎないのに、ユウリはまるで暗闇のなかに放り出されたような怖さを覚えた。
「ユウリ!」
不意にキリアが手を握った。
そこから伝わる温もりが、恐怖を一瞬だけ和らげたように思えた。
「大丈夫。大丈夫だよ。時間はあるんだ。ひとつひとつ、ゆっくり思い出していくんだ。散らかったものを、戸棚に収めていくみたいに。眠くなるまでやってごらん。……僕もつきあうよ」
その言葉に促されて、ユウリは思い出せることをぽつぽつと語った。
キリアもまた、教会で過ごした、短いが暖かかったあの時間を語ってくれた。
その間、ずっとキリアの掌の暖かさを感じながら。
+ + +
翌朝。
天幕を片付けたキリアを誘って、ユウリは再び砂漠を歩き始めた。
進むべき道を、すでにユウリは知っている。ベリテーから得た記憶だ。
(……ベリテー。私から奪ったものは、高いぞ)
トウカの、……そうだ、このうえなく価値ある記憶を持ち去ったのだから。
機械たちの領域を抜けて、『脊柱』へと至るための道は、ただひとつ。
「ユウリ、道って言ったって、どこを通ればいいんだ?」
「この中を通る」
ユウリは、足下の砂地を指さした。
「え?」と、キリアが不思議そう顔をするのを見て、ユウリは言った。
「大丈夫。一緒に行こう」と。
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