第9話 対価
「──僕たちは、べつにあなたたちに喧嘩を売りに来ているわけじゃないんだ。どうかこのまま友好的に別れることはできないかな」
キリアは目前に佇む、岩肌色の外套をまとった者に告げた。
だが、その者はこう答えた。
「ここで私と別れても、このまま『脊柱』に近づいていけば、また何者かに見つかることになる。その者が君たちの言葉に耳を貸すかどうか、それは運次第だ」
声そのものは、意思のこもった、どこか心を寄せたくなるような声だ。この声の響きは……と、ユウリは思い出す。
(そうだ、トウカに似ているんだ)
トウカならば、きっと敵対する相手でさえも、このように惹きつけてしまうだろう──。
そんな場違いでとりとめのない思いつきを、ユウリは頭を振って追い払った。
声も、容貌さえもどうでもいい。目の前の者は、つきつめてしまえば、ただの障害にすぎない。
考えるべきは、障害をパスする方法。それだけだ。
ユウリはその者を見た。身体の輪郭は、外套に隠されている。その中にあるものは、武器か、あるいは交渉の意思か。
傍らのキリアが、ユウリだけに聞こえるほどの声でささやいた。
「ユウリ、武器を下ろして」
ユウリは頷き、銃口を足下に向けた。
「…………」
その様子を見て、外套の者もやや敵意を潜めたように見えた。相手の態度が和らいだのを認めたのちに、キリアは問うた。
「すまないが、あなたの名前を教えてくれないかな? そうでないと、話をしづらいんだ」
そう訊くと、外套の者は短く名乗った。
「ベリテー」
「ありがとう。僕はキリア。後ろの彼女はユウリだ。……僕たちの目的は、君の言うとおり、『脊柱』に向かうこと。あそこには僕の家族がいるかもしれないから。ユウリは僕の護衛だ。……これだけだ。いま喋ったことが、僕たちの全てだ」
「なるほど」と、外套の者は頷いた。心底から納得しているかどうかは、まだ分からない。
「僕たちを行かせてくれるかい? もし邪魔立てをするのであれば、僕たちも……それなりの抵抗をする」
キリアが放つ、はじめての恫喝めいた言葉。
だが、外套の者は、その言葉にはさしたる反応を示さず、言った。
「私は君たちの道行きを止めようとはしていない。ただ、警告するだけだ。このまま進めば、君たちは、『必ず』何者かに見つかる。その者に害意があれば、君たちは『必ず』抹殺される」
必ず、か──。ユウリにはその言葉が、自信や慢心などではなく、まるで知れきった事実として語られているように感じられた。
「ベリテー。『機械』たちには、私たちを見落とす可能性はないのか?」
ユウリがそう訊くと、ベリテーは確かに頷いた。
「見落とすことはない。……君たちが目指す『脊柱』からは、幾百、幾千もの感覚枝が、地下茎のように伸びている。もちろん、その範囲は限られているし、脊柱から離れたところでは、その密度も粗くなる。だが、脊柱の周辺は、きわめて密にいきわたっている。近づく者は確実に捕捉され、それなりの処遇を受けることになる」
「つまり、私たちは既に『感覚枝』に見つかっていた、というわけか」
かなうならば、見つからずに近づきたいとユウリは思っていた。だが、その試みは、最初から破綻していたというわけか。
「そうだ。このあたりでは感覚枝もまばらにしか行き渡っていない。運さえ良ければ、もう少し先までは隠密裏に進めただろう。だが、こうやって見つかってしまったということは、君たちのもつ『運』とやらも当てにはならない、ということだ」
地雷原を渡ろうとして、踏み出したその足で地雷を踏んでしまった、ということだ。幸先の悪いできごとだ。
そして、ユウリはなおも訊いた。
「では、ここであなたに捕捉された私たちは、ただちに抹殺されるのか」
ベリテーは首を振った。
「このあたりでは、まだ確度の低い情報しか得られない。人か、あるいは野生動物か、その区別すらも難しいほどだ。だから、やってくるのは、物好きな『機械』だけだよ。……私のように。そして、私は他の『機械』たちに、君たちの情報を伝えることもできるが、今のところはそうするつもりもない」
そう言って、彼女は眼を細めた。微笑んでいるのだろうか。
だが、その言葉を聞いたキリアは、心穏やかではいられなかったようだ。
「では、僕たちはどうしたらいい? 今のところ優位に立っているのは、ベリテー、あなただ」
「そうだな。私たちの流儀でいくのならば、『取引』を望みたい」
そう、ベリテーは告げた。
ああ、この理屈だ。目の前の者が、トウカに似た誰かではなく、ただの『機械』に過ぎないことを、いまさらのようにユウリは意識した。
「やはり、人間の精神を欲するのか」
キリアが訊くと、ベリテーは「そうだ」と答える。
キリアはわずかに考え込むようなそぶりを見せたが、やがて答えた。
「わかった。ならば僕の精神を差しだそう。そして、僕たちが求めるものは、僕たちの存在を他の機械に知らせないことと、これからの行路の安全。これでどうだろうか」
だが、その提案を受けたベリテーは「だめだ」と、短く告げた。
「なにがだめなんだ」
「私が欲しいのは、キリア、君の精神ではない。ユウリの精神が欲しい」
そう言って、ベリテーはユウリに向き直った。
「彼女は僕の護衛をしているだけだ」
かばうように、キリアが言う。「それだけは飲めない」と。
だが、ベリテーはその声を冷然と否定した。
「ならば、取引はこれまでだ。そのまま運を天に任せて進むといい」
キリアは俯き、肩を震わせた。
「どうする? ユウリ、君次第だ」
ベリテーは、まるで誘うかのように問いかける。だが、その眼差しはひどく鋭い。ユウリをまっすぐに射抜くかのように。
ユウリは、その眼を真っ向から受け止めつつ、言う。
「……『機械』か。そうやって、人間を餌で釣って踊らせる。私が子供だったころに、貴様たちとの大きな争いがあったというが、その理由ははっきりと分かる。……貴様らは不愉快だ」
そう告げた。軽蔑をこめて。
だが、ベリテーはその返答に怒りはしなかった。
「……争い、か。不思議な話だ。私たちはただの『機械』。君たちの入力に対し、何らかの出力を返すだけの存在だ。私たちを消し去るのは簡単だ。無視しさえすればいい。それをせずに、私たちに致命的なコードを入力したのは、君たちだ。私たちは、それに対し、しかるべき出力を行ったにすぎない。それが真実だ。……被害者のような、そして抵抗者のような口ぶりはよすがいい、自覚なき歴史修正主義者よ」
「長い口上だな」と、ユウリ。
その言葉に、ベリテーはわずかに視線を落とした。
「……そうだな。私も、むきになっていたのかもしれない。まっすぐに敵意をぶつけられるのは、本当に久しぶりだったんだ。しかし、何度でも言おう。私たちは『機械』だ。つきつめれば、使うか、使わないか。それだけのことだ」
「…………」
「それで、取引には応じるのか」
答えは決まっていた。
「……そうしよう」
ユウリは告げた。胸の奥からの吐息とともに。
「意外だな」と、ベリテーが言う。なにが意外なものか。キリアが求めた「情報の秘匿と、行路の安全」が、これからの行き先に絶対に必要になるのだから。支払い元が変わるだけだ。
「ならば、今から君の『精神』を貰い受ける」
ユウリは頷いた。そして、跪いて銃を足下に置き、ベリテーの接近を許す。
そして、『取引』が終わるまでは、己の安全、そのすべてをキリアに託すことにした。
ユウリはキリアを見上げた。彼は頷いた。
もしもベリテーが、ナイマのように根こそぎ『精神』を奪おうとするのであれば、それを阻むのは彼しかいない。
ベリテーも、ユウリの傍らに跪く。
そして、ゆっくりと頭巾と口布を外す。
露わになったのは、穏やかな茶灰色の髪。
そして、その貌は、意志の強さと優しさが同居しているような、凛々しい女性のもの。
(やはり、トウカに似ている)
輪郭などは違う。だが、雰囲気がよく似ているのだ。
だが、最後に残すべき警戒心まで蕩かすわけにはいかない。
「……私の貌が、どうかしたのか」
ベリテーが訊いてくる。その瞳は、深い鳶色。
「何でもない。似た人がいるというだけ。よくあることだ」
「そうか」
そして、ベリテーはユウリのおとがいに手を掛け、そっと上に反らせる。
「う……」
触れる指は、ひどく冷たい。
晒されたユウリの首筋に、ベリテーはそっと唇を寄せて、口づけた。
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