第4話 素朴なメロディ
礼拝堂の奥には、医務室がある。
やや手狭ではあったが、これ以上大きかったら、もてあましてしまう。
この部屋には、教会に身を寄せる孤児たちのために、医薬品がいくらか取り置いてあった。
医務室に入る前に、入り口の傍らにある水盆で、よく手指を清める。
先に入室していたトウカは、彼の眠るベッドの傍らに腰掛けていた。
ユウリは彼の顔色を覗き込む。まだ肌に明るみがないが、苦痛に歪んだ様子はない。
そこかしこに包帯が巻かれた彼の身体を見やる。もう、傷は完全に癒えているだろうか。
「あとは、目を覚ましてくれるのを待つだけね」
「……うん」
トウカの言葉に、
意識。そこには人の手は届かない。
ベッドの側には、彼の持っていたわずかな荷物がまとめて置かれていた。
古びた衣服、雑嚢、そして護身用のものであろう短刀。
ユウリは短刀を手に取り、そっと鞘を外した。
刃渡りは四十センチほどで、緩やかに反った片刃だ。丹念に鍛えられたことで生まれた緻密な紋様が、刀身に浮き出ていた。柄と鍔はごく簡素な作りではあったが、頑丈だ。
ユウリの手元を覗き込みながら、トウカが言った。
「柄になにか刻んであるわね」
柄は木製で、黒色の地肌は使い込まれて鈍い艶をたたえている。そこに刻印されているものは、文字だった。
トウカはそれを読む。
「──『息子へ』」
手彫りの、拙い工作だ。
「息子って、この子のことかしら」
トウカが呟きながら、男の貌を見やった。
おそらくはそうだろう、とユウリは思った。これのほかに、彼の家族にまつわる品は、見るかぎり他にない。雑嚢のなかには手がかりがあるのかもしれないが、それを暴くのは気が向かない。彼の家族について知ることがあるとすれば、それは彼が語った時だろう。
そんなユウリの内心を知ってか知らずか、トウカは男の寝顔を見つめたまま、訊いた。
「……ユウリはこの子のこと、気になる?」
どう「気になる」のかは、ユウリ自身にも分からなかった。
「たしかに、かれが『機械』たちと交わしていたやりとりは気になるけど……そうだな、かれの傷が癒えるまでは、気に掛けておきたいかな。……そのくらいだよ」
「……でしょうね。そのくらいに留めておくのが、いいのかもね」
深入りするべきではない、と、トウカは言いたいのだろうか。
その言葉に対する適切な答えを見つけられずにいると、トウカはユウリに向き直って、微笑みとともに言った。
「まあ、どれもこれも、この子が目を覚ましてから……ね。今はそういうことにしておきましょう」
「……うん」
そう返事をしたが、ユウリは自分の言葉に歯切れの悪さを感じていた。
そんなユウリの背中を、トウカはぽんぽんと叩いて、言った。
「さてと! ユウリ、訓練で汗をかいてきたんでしょう。今日はもう、ゆっくりしたら?」
+ + +
礼拝所の敷地内には、修道女たちの住まいとなる離れがある。
ユウリもこの一角に住まわせてもらっているが、日中は市街区画の外れにある、警衛隊の駐屯地に出向いている。今日のようにそこで訓練を行う日もあれば、街区の外に斥候に出る日もある。
訓練や任務を終えたユウリがここに戻ると、トウカはいつも湯浴みの支度を済ませていてくれた。
離れに戻ったユウリは、まっすぐに浴室に向かった。そこで、土埃と硝煙に汚れた衣服を脱ぎ落とした。
外套の下には、刃を防ぐための
(こんなもので、あの『機械』たちの力を防げるんだろうか)
ユウリはまだ、実際に『機械』たちと争ったことはない。大きな争いは、ユウリがまだ幼子であったころに起こったという。だが、それを子細に語ろうとする大人は、少ない。そのかわり、彼らは言うのだ。「けして、戦うな」と。その言葉から身を守るには、この鎧はあまりにも貧弱だ。
脱いだ下着を脇に置き、浴室に足を踏み入れる。濃く暖かい湯煙に裸身を晒すと、じんわりと汗が噴き出てくるのが分かる。浴室の奥には、湯船がある。入ろうと思えば、二、三人は入れるほどの大きさだ。
ユウリは浴槽の傍らにかがみ、桶で汲み上げた湯を、ゆっくりと肩に掛けた。
その快い熱に、思わず吐息が漏れる。心地よい。肩から胸を伝い、流れていく湯が身体を清めてくれる。
ひとたび桶を下ろし、ユウリは己の
「父さん、母さん……か」
つい、呟いてしまう。
しかし、どうやってもふたりの相貌を思い出すことはできなかった。記憶がないのだ。ものごころがつく前での、別れ。
両親の存在を証明するものは、ただ、ユウリ自身の身体のみだった。だからこそ、できるかぎり大事にしようと思うのだ。
湯に浸した布で身体を拭き清めたのちに、頭から湯を浴びる。
普段は束ねている髪を下ろせば、ちょうど肩口のあたりに届く。手に取れば、艶やかな黒。手櫛で梳いてみると、すこし砂塵が入り込んでいるようで、さり、さりと小さな抵抗を感じる。
そのとき、背後で戸の開く音がした。
「失礼するわね」
ユウリが振り向くと、そこにはトウカの裸身があった。
「トウカもお風呂?」
そう訊くと、トウカは、「せっかく沸かしたんだから、ついでにね」と、なぜか楽しそうに答えた。
トウカの真白い裸身は、豊満でありながらも均整がとれている。その姿は、子供のころに絵本で見た、豊穣の女神のようだ。そう、ユウリは思った。
しかし、トウカの膚には、幾筋もの大きな傷痕がある。まるで獣の鉤爪で引き裂かれたような、深い傷。だが、獣はあのように、全身を嬲ったりはしない。これは、悪意を持って刻みつけられた傷のはずだ。
トウカは、ユウリの隣に腰掛けた。
「訓練、厳しかったのね」と、トウカは、ユウリの腕を慈しむようにさすりながら、言った。
「あちこち、打ち身や擦り傷ができてるわ」
「……やっぱり、忘れられなかった。あの『機械』たちの姿が」
答えるかわりに、ユウリは独り言のように呟く。あのときは精一杯の勇気を振り絞って向き合った筈だ。だが、こうやって離れると、いまさらのように怖れが蘇ってくる。
「そうね。刻みつけられた怖さを振り払うには、自分自身が、もっともっと強くなるしかないのだから」
あのときに感じた動揺、恐怖。それらはもはや拭い去ることはできず、忘れることもできない。だから、ふたたび同じ光景を目の当たりにしたとしても、けして揺るがぬような力が欲しい。
いまのユウリが抱くそんな気持ちを、かつてのトウカも感じたことがあったのだろうか。ふと思い、ユウリはトウカの相貌を見上げた。
「あら、どうしたの? あなたらしくない」
知らず、不安げな貌をしていたのだろう。慌てて目をそらすと、トウカはユウリの頬に両手をあてがって、その瞳を覗き込みながら、にっこりと笑った。
「大丈夫。大丈夫よ、ユウリ。その気持ちのまま頑張りなさい。怪我をしたのなら、私がいつでも看病してあげるから、訓練に励みなさいな。……はい、背中をこっちに向けて」
そう言って、トウカはユウリの身体をくるりと反転させる。まるで子供扱いだ。教会での日々の雑務によるものか、トウカはとても力が強い。
ユウリの背後で、湯を汲む音がする。こうやって背中を流してもらうのは、この上なく幸せなことだ。もし、自分に姉というものがいたとすれば、それはトウカであってほしいと思う。たとえ、実の家族でなくとも、トウカとこうやって暮らせることは、このうえなく嬉しいことだ。
──トウカ、私は、とても幸せだ。
と、気恥ずかしい言葉を伝えるべきか否か、悩みかけた矢先に。
「わぷっ!」
いきなり頭から浴びせかけられた湯が、ユウリの言葉をかき消してしまった。
「じゃ、今から頭洗ってあげるね。大人しくしてて」
「ちょ、ちょっと、トウカ……!」
「新しい花精を買ったから、試してあげる。……暴れると、きっと目にしみるわよ」
そう言われて、ユウリはようやく落ち着いた。
「もう……背中を流してくれると思ってたのに」
「あとでね」
トウカのやさしい指が、ユウリの髪にここちよい香りの花精を絡め、擦り込む。その匂いは、まるで夏の花のよう。透き通るように爽やかだ。
「警備の仕事がなければ、もうすこし伸ばしてもいいのにね。こんなにきれいな黒髪だもの」
「ありがとう」
トウカの褒め言葉は、嬉しかった。
「でも、もうすこしだけ、いまの仕事を頑張りたいんだ」
「そうね。あなたが納得いった時には……覚悟しておきなさい。街の男の子たちが必ず振り向くくらいにお洒落にしてあげるから」
そう言いながら、トウカは湯をユウリの髪に掛けた。この涼やかな香りを、ひとときだけ楽しもう、とユウリは思った。明日には、また汗と砂塵で汚してしまうのだけれど。
髪と肌を清めてもらい、ユウリとトウカはともに浴槽に入った。
湯の中でくつろぐトウカの姿を横目に見ながら、ユウリが考えたのは、ほど近い将来のことだ。
いつか、背負った銃を下ろす日はくる。それは、必ずだ。
そのときに、おのが身をどう処遇するか。
(まだ、分からない)
しかし、今はまだやるべきことがある。
そのために必要なものは、捧げねばならない。
それが父母から頂いた我が身であろうとも──。
そう心のなかで呟きながら、ユウリは自分の腕を見つめた。
(たしかに、細くて頼りない。でも、ここの外に出るかぎり、頼るべきはこの腕だけなんだ)
そう、言い聞かせる。他ならぬ、自分に。
ふとトウカの目が気になって、彼女の様子を窺うと、トウカはのんきに鼻歌を歌っていた。
浴槽の縁にもたれかかり、くつろぐ彼女の胸や腕には、幾筋もの深い傷痕がいまも残る。
ユウリは目をつむり、トウカの歌う、素朴なメロディに耳を傾けた。
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