夏の忘れ物

 最近、またY君が「絶好調」だ。

 どの方向に向かって「絶好調」であるかは、こんな愚にも付かない話の第三話にまで目を通そうとして下さった懸命な読者様の方には、きっとご理解をいただけていることだろうと思う。いや、そもそもその読者様が居ないと言う可能性も高いのですが。

 



 今回、結婚7、8年を無事向かえ(今日結婚何年目なのかを確認したが帰宅時には綺麗さっぱり忘れていた)、クリスマス前後は毎年遠征を行うため結婚前から聖夜を一緒に迎えたことがない熱烈なフィギュアスケートファンの嫁を持ち、自らはDMMのスマホアプリをこよなく愛する男、Y君はまたも私にその鋭い牙を剥いた。


 私の職場は北国であるためガンガンとストーブを点けており室温が高い。

 それゆえ、至極まともに職務をこなしていると概ね、それなりの汗をかいてしまう。この時、私は死んだ魚のような目をして全うに労働に勤しんでいたためユニフォームの下はべたつく汗で湿っていた。

 

 そんな最中、またもY君は私が一人佇んでいた(サボるとも言う)部屋に入ってきた。この時の私の心境を述べるとすれば「もう少しサボらせよ」というストレートな物だった。

 

 「よる(仮名)さん。お疲れ様でしたー。汗掻いたと思うんでこれもってきましたよ」


 そう言ってY君は銀色の包み紙を差し出した。

 その包み紙の表面にはプライベートブランドの名前が小さく書かれ、その下には「氷冷!」と大きな文字で書かれていた。


 所謂、ボディペーパーと言う奴である。汗を良く掻く人や、身だしなみに気を向けておられる方々などは良く所持をされているのではないだろうか。女性陣とすれ違うたびそこはかとなく香る良い匂いの何割かは、これであることが多いと思われる。


 一応間違いを生まぬためここにしっかりと記載をしておくが、私は女性陣とすれ違うたびその匂いを嗅いでいるわけではない。いや、本当に。


 ちなみに今年の夏、私にボディペーパーを一袋手渡してくれた女史は私の加齢臭に辟易していたのではないだろうかと、キーボードを叩いている今現在疑心暗鬼に陥っている。


 話を戻そう。

 

 正直なところ、Y君が持ってきてくれたボディペーパーは加齢臭と汗の匂いがミックスされ、自分では表現したくない匂いを立ち上らせているだろう私にとっては、生命を維持するために必要なスポーツドリンクの次くらいには必要だと思われるものであった。生命を維持した所で職場で社会的に死んでしまっては元も子もないのだ。


「ああ、有難う。使わせてもらうよ」


 そう言って私はそのボディペーパーを受け取ったと思う。

 取り口のフィルムを剥がしてなかの真っ白なペーパーを取り出したところ、記憶に残っている湿り気具合から若干乾燥していた。


「あ、それ去年の夏の奴なんですけどね」


 なるほど、年末の在庫処分か。

 そう、心の中で悪態を付きながらも上着のシャツのなかに手を突っ込みあちらこちらをペーパーで拭っていくと、去年の物とは思えないほどこれがなかなか爽快であった。恐るべしプライベートブランド。


 もう一枚失敬して汗にまみれた背中を何とか手を伸ばして拭いていくと、途中で広背筋が若干攣りそうになってビックリしました。雪解けと同時にロードバイクデビューの予定なのに大丈夫なのだろうか。衰えきった自分の体に不安しか覚えない。年を取るって怖い。


 兎も角、Y君が持ってきてくれたボディペーパーのお陰で肉体的にも、人間的にもリフレッシュが出来た私は改めて御礼を言って部屋をあとにした。向かうは昼飯である。


 すれ違う女性陣の目も、多少柔和な物になっていたのではないかと勝手な妄想を垂れ流しながら自分のデスクに戻り、昼飯を広げているとY君がその手に自分で作ってきた弁当を持って近づいてきた。


 いや、別にY君が私に手作りの弁当を作ってきているわけではなく、私のデスクの後ろに安っぽい電子レンジが置いてあるのだ。ただ、それだけ。


 その手に持っていた弁当箱を電子レンジの中に放り込み「あたため」ボタンを押すと、ぐぅーん、という低い駆動音が電子レンジから聞こえてきた。それと同時にY君が一寸恥ずかしそうに声を掛けてきた。


「いやー、熱いですね」

「暑い?確かに室温上げ過ぎかもね。ストーブの温度、下げてこようか」


 至極まともにY君の言葉に返事を返した私であったが、その言葉は既に彼に届いていない様だった。


「ボディペーパー去年の奴だから大丈夫だろうと思ったんですよ」

「はぁ」


 突然、何の脈絡も無い様に思われるその言葉は、この文字を追うという「小説」であれば些細な違和感に気が付くことが出来たであろう。だが、その時私は会話で行われた「熱い」と「暑い」の違いに気が付くことが出来なかった訳だ。

 仕方なく、生返事を返した私に彼は畳み掛けるように次の言葉を放った。


「お尻まで拭いて見たんですけど焼けるように熱くて」


 何故拭いた。

 そう答える前に私の口は何故か思っても居ない言葉を吐き出していた。


「自分の粘膜を過信するな!!」


 何だよ、「自分の粘膜を過信するな!!」って。

 自分で言ってて呆然とした。それはもう、何言ってんだって。割と大きな声で言っちゃったから回りの職員さん達に聞かれてはいないかって心臓がバクバクしていました。「粘膜」って言葉を公共の場で力強く言ったの初めてだよ。


 これからまだ暫くの間続くであろう人生において二度と公共の場で、「粘膜」と言う言葉を発言しないことを誓います。


 幸い、デスクの周りにはY君しかおらず私の社会的な生命は維持されることとなった。そして、このネタを思うがままにぶちまけてやろうと即決した。

 私の社会的生命とトレードするには些か高レートであったことは、腑に落ちないが。


 そうして今、私はキーボードを叩いています。

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