第五話 竜の覚醒

 夜闇が退き、大地が黄金に染められる刻限。


 前線の兵士たちは赤々と輝く凶星が異様な速さで山脈の尾根を越え接近してくることに気が付いた。

 その正体を見た者はまず唖然とし、慌てて上官に報告し、その上官までもが取り乱しながら司令官に報告した。混乱はすぐに全軍に広がった。


 両軍が対峙する広大な盆地に舞い降りたそれは、着地とともに大地を揺るがした。

 

 三対の翼を持ち、真紅の鱗に覆われた巨大な竜。城一つの大きさにも匹敵するその巨体に、誰もが目を見張り、ある者は驚愕と恐怖に失禁し、あるいは腰を抜かし、あるいは逃走を始めた。


 ドオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!


衝撃波が両軍の兵士を吹き飛ばした。竜が咆哮を上げたのだ。続けざまに、竜の吐く巨大な炎が、盆地すべてを一瞬で焼き尽くした。そこに生あるものは一切残らなかった。




§




 今日もまたライルの消息を得ることはできず、悄然と営舎からの帰途についていたクリスティナは、巨大な赤い光に気が付いた。


 突風と共に町の上空を飛翔したそれが、町の中央部に降り立った。町が悲鳴と怒号の坩堝るつぼと化す中で、次々に家屋が潰れ、石壁が崩れ落ちていく。

 竜が色鮮やかな火炎を勢いよく吐き出すと、石造りの教会は砂糖のように溶け崩れ、人は瞬く間に黒いすすと消え、絶叫とともに掻き消されていった。


 竜が天に向かい、耳をつんざく凄まじい雄叫びを上げた。その衝撃波で鼓膜を破られたクリスティナは、耳を抑えてうずくまった。両耳から血が伝い落ちていく。痛みと眩暈で、クリスティナは数歩でよろけて倒れ伏した。


 立ち上がったクリスティナの正面で、炎の竜が巨大な顎を開いていた。




§




 生か死か、それが問題だ。ライルにとって、問うべきは己の生死ではなかった。巨大な竜が、三対の巨大な翼を羽ばたかせ、夜を切り裂くように飛び去っていった。

帝国はついに、赤炎の竜を覚醒させてしまったらしい。あんな怪物を倒すなど人には絶対に不可能だと、一瞬で悟った。


 あんなものに襲われたら、町は一瞬で消し飛ぶだろう。クリスティナはまだ町にいるだろうか。どうにかして逃げ延びてほしい…………。


 クリスティナを巡る幾多の記憶がライルの脳裏を駆け巡った。幼き頃の、硝子玉のような無垢な瞳。出征前のライルに取りすがった不安に満ちた眼差し、別れの刹那の振り絞るような声、頬を伝う雫…………


 俺を慕いさえしなければ…………営舎を訪れた際、俺が断固拒絶してさえいれば………………俺は……俺の力では守ってやれなかった……………………



 すでに手足の感覚も無い。冷気すら感じられなくなっている。こんなところで、俺は何も成しえずに死ぬのか。


「ライル・アンドラー」


 不意に降ってきた声に、ライルは意識を引き戻される。すぐ近くの岩の上に、人影が見える。朧月を背に、白銀の髪が死者の怨嗟を慰撫するごとく妖しく揺れて、二つの瞳が青々と闇夜に浮かぶ。


「お前は…………幻覚か、亡霊か………………」

娘の口から、ふっと笑いが漏れる。


「クリスティナが──────死ぬわ」


止まりかけていた心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


「何……だと…………」


「ああ!! なんて可哀そうなクリスティナ──────信じた兄には突き放され、待ち続けた挙句に竜に焼き殺されるなんて────────」


岩上で両腕を伸ばし、演技めいた調子でうたう銀髪の娘。こいつは何なのだ。突然現れて、まるで見てきたような口ぶりで…………。


ウッフフフフと笑う娘を、微笑を湛えるその瞳を、ライルは睨みつけた。


「ねえライル────竜を殺し、帝国を滅ぼしたい?」


闇に浮かぶ二つの青い光には、ライルへの温情など欠片もない。


「何が、望みだ」


 娘の瞳に、折り重なる紋様が幾重にも浮かび上がる。同時に不可視の波動がライルの全身を貫いた。背筋も凍らんばかりの威圧感に、ライルは我知らず震えた。赤炎の竜とは別種の、底知れぬ恐怖を感じた。こいつは人の形をした魔物だ。小賢しい術をろうする魔術師とは根本的に異質の、正真正銘の魔女。


「あなたの血を──────頂くわ」


 魔女が小枝のようにしなやかな腕を、ライルの胸に突き立てる。肉が裂け、骨が砕かれる。余りの衝撃にライルは犬のように呻き喀血した。

 心臓を掴み取られ、血管ごと引き抜かれる。行き場をなくした血液の奔流が胸部から溢れ出るのに伴い、ライルの全身が激しく痙攣を繰り返し、やがて動きを止めた。


 死せるライルの傍らで、魔女は心臓から滴る血を、ごくごくと喉を鳴らして飲み干していく。


「さあ──────救済の時よ」


 ほんのり頬を紅く染めて口元を血糊で汚したまま、胸の青玉サファイアを外した魔女は、それをライルの胸に捻じ込んだ。鮮烈なまでの青い光が、一条の柱となって天を貫く。息絶えたはずのライルの口から絶叫が迸り、凍てついた山々に長く尾を引いて反響した。その響きは、避け得ぬ破滅への序曲にも似ていた。

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