第四話 時の狭間

 アンドラー家の館は地主貴族の例に漏れず、小高い丘の頂上に築かれていた。昼を半ば過ぎた頃合いから、ライル・アンドラーは庭先の広大な青芝に腰を降ろし写生をしていた。絵が得意という訳ではなかったが、乗馬をしている最中、ふと眼下の田園風景を描いてみたくなったのだ。クリスティナが側にやって来て、彼と背中合わせにユレーテから借りたという詩集に目を通し始めた。やがて読書に疲れた彼女が、ライルに凭れたまま微睡み始めた。


 素描を終えた時には、棚引く雲が西日に淡く彩られていた。館に戻ろうと思い始めたとき、背中越しにクリスティナの声が響いた。


「兄様」


 背後から青の袖がふわりとライルの首に絡みついた。クリスティナの手を握った。白い指はいつになく冷えていた。薄い黄金色こがねいろの髪が風に煽られて、ライルの頬を擽った。己が稀にしか帰郷しないので、クリスティナも寂しさを抱えていたのかも知れない、と彼は思った。首筋に濡れた感触が伝わり、ライルは首半分振り返った。

 

「どうした」


「何でもありません……」


震えを帯びた声を不審に思い、今度は彼女を正面から見つめた。青みがかった灰色の瞳が僅かに揺らいでいて、涙が伝い落ちていた。


「何でもないんです…………兄様が遠くへ行ってしまって、二度とお会いできなくなる夢を見てしまって………」

クリスティナが肩を震わせしゃくりあげるのを見て、抱き寄せて髪を撫でてやった。これはいつかの出来事だ。戦が始まる半年近く前の…………。



「ライル────」



 死の気配に満ちた、かそけきユレーテの声が不意に耳元をくすぐった。背後から血の気のない白い手が伸びてきて、彼の両眼を覆った。濃厚なリラの香水に混じって、地下墓地の饐えた臭いが鼻を突いた。


 生前の彼女も、時折こんな風にライルにじゃれてきたものだ。それは永遠に失われた蜜月の記憶。戦火に忙殺されていても、ユレーテの死は錆びた釘のようにライルの胸に突き刺さり、更に深々と彼の胸を穿ち続けていた。


「ユレーテ……なのか……」


「ライル、クリスは死ぬ気だわ────」


快活だった生前のユレーテとは異なる、か細い囁き。


「…………何を言っている」


「私と同じ────あなたの死が彼女に訪れる」


「…………つまり、戦場で見た君はやはり、幻ではなかったというのか。戦死する筈だった俺の運命を君が捻じ曲げて生かしてくれたと…………」


小さな、乾いた笑い声。


「どうせあなたは、クリスを犠牲にするくらいなら自ら死を選ぶのでしょう? 酷い人ね。クリスティナと私────あなたが本当に愛していたのは誰?」


視界を覆っていたユレーテの手が外れる。


目前に佇むクリスティナを見て、ライルの鼓動が跳ね上がる。青いドレスにブローチの毒々しい赤。ユレーテの形見、クリスティナに穿たれた楔。


「兄様────」


魂の奥深き処から溢れる、苦しみを伴う愛慕の声。彼女はおもむろに背伸びをして、ライルの首に腕を絡めた。その唇から漏れる、夜霧のようにしめやかな吐息。湧き立たつ紫丁香花リラの香り。柔らかな髪の感触。そのしなやかな肩を抱いて、ライルは言い聞かせるように言った。


「クリスティナ…………何があっても……必ず幸福を手にするんだ。いいな?」


────俺はアドラス山脈で射抜かれたのだ。そしてそのまま死ぬ。無念だが、その運命を変えてはならない。


 ライルの胸から鮮血が迸り、クリスティナの胸の紅玉ルビーにその血潮がべっとりと付着した。この不吉な赤い石をクリスティナに持たせるべきではない。


 直感的にそう察したライルは『赤い涙』をむしり取らんとしたが、指がすり抜けて触れることすらできなかった。己の存在がかすみのように消滅しようとしている。


 クリスティナは忽然と消え、毒々しいまでの鮮やかな紫丁香花リラの花々が深緑の葉叢はむらから顔を出し、妖精の笑いにも似たざわめきを生んだ。




§




 窓の向こうに広がる空は、久しく黒雲に閉ざされ果てしない夜を生み出している。さながら腐敗せずにいる死者のように、黒檀で縁取られた椅子に深く身を預ける銀髪の魔女。遠い雷鳴が湿った風とともに、殺風景ながらんどうの部屋に闖入しては壮麗な髪を錯雑と撫ですさっていった。


 不意に銀の耳飾りが僅かに揺れ、キン、と高い金属音を立てて死の閑寂を打ち破る。半眼を開いた彼女は、胸の青玉サファイアが仄かに明滅するのを認めた。その瞳に須臾しゅゆの揺らぎが走ったものの、それもすぐに消え去った。


 「嵐が────来る」

 

 誰にともなく呟くと、魔女は思惟の淵に沈みこむように、固く瞳を閉じた。

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