第三話 赤き螺旋
配下の兵一人を伴い、小雨の中を騎馬で指定場所へ向かっていた。隠密作戦であることは間違いなかったが、内容までは予測できなかった。
ルマン要塞は深い森を抜けた先にある、峠とは名ばかりの断崖絶壁に築かれていた。
そこで聞かされた話は意表を突くものだった。
帝国に放った内偵からの報告によると、敵の竜騎士五十騎がアドラス山脈に向かったという。
アドラス山脈はドルーセン王国と神聖ガロリヤ帝国の国境をなしているが、余りにも峻厳な地形と厳寒の気候、火山の不定期の噴火、竜の棲息地という四つの要因から、両軍ともに衝突を避けてきた地である。
「問題は、竜騎士どもが何のためにアドラス山脈に向かったか、だが………………」
ライルの指揮官であるルーベン中佐は難しい顔をして言った。四十半ばの小柄だががっしりした体格で、右の額から左頬にかけて大きな切り傷があり、片目には眼帯を嵌めている。
「内通者によれば、奴らは赤炎竜を手懐ける算段を整えているらしい」
ライルは口を噤んだ。アドラス山脈に生息する竜は小型から中型のものが殆どで、中型以上の大きさの竜は獰猛さゆえに飼い慣らすのは至難の業とされている。帝国自慢の竜騎兵も全て小型であり、牛馬の二、三倍程度の大きさしかない。
対して赤炎竜は、城一つの大きさに匹敵し、一撃で城を焼き落とす炎を吐くという。人ごときに従うはずはないのだ。
史書によれば千年以上も昔に出現が確認されており、かつて帝国を含め諸国を焼け野原にしたとされる。不定期に覚醒しては各地を襲い、アドラス山脈奥深くに姿を隠す。何頭いるのかは不明だが、恐らく一、二頭とされている。
「あの赤炎の竜をでありますか? 信じがたい話です」
「そうだな…………だが、今それを問うても仕方あるまい。いずれ放置しておくわけにもいかん。我々の任務は、赤炎の竜を奴らに渡さぬことだ」
ルーベン中佐を筆頭に、ライルたちは馬で移動することになった。馬と竜では当然竜の方が速い。王国にも竜騎士部隊はあるが、その殆どは別方面に充てられている。
幸いなことに、全員に馬が割り当てられた。目的地はこちらからの方が近く、おまけにこの寒さだ。竜騎士も頻繁に地上に降りて、体を温めなければならない。それらを勘案すれば、恐らくほぼ同時に目的地に到着することになるだろう。
兵員五十名。竜騎兵一騎に五名の兵士が必要とされるから、本来ならこの五倍の戦力が望ましい。だが、前線から搔き集められる兵力はこれが限界であった。
§
手綱を短く持って指示に従いたがらない馬に無理強いし、そうすると馬はいよいよ苛立って、不安定な砂利混じりの岩場を無闇に駈け出そうとさえした。ライルの手綱捌きが下手なのではない。馬はどこに向かっているのかを本能的に悟り、怖がっていたのである。
国境すれすれの山間を移動して十日。赤炎の竜の生息地まであと僅かという地点で、ライルたちはついに、夕日を背に飛翔する敵部隊と遭遇した。
全員が直ちに、谷合を飛翔する帝国の竜騎士目掛けて十字弓から矢を放った。ヒュン、ヒュン、と空を切り裂く音に混じり、二、三の敵兵が悲鳴を上げて地上に落下していく。
敵襲に気付いて上空に舞い上がった竜騎兵が、斜面に沿って降下しながら爆炎団を投下。
爆風に四肢を弾き飛ばされる者、炎に全身を包まれて絶叫しながら斜面を転がり落ちる者。竜の爪に掴み上げられて上空から岩場に叩き落される者────。
彼らの悲鳴が途絶えるのを耳にしながら、ライルは矢を射掛け続けた。馬がいては却って標的にされる。そう判断し、下馬して移動しながら攻撃を続けた。
だが、戦いは長くは続かなかった。数は同じ五十でも、やはり竜騎士の方が圧倒的に有利だ。とても勝ち目はない。せめて森の中ならば身を隠しやすかったのだが。
ライルの視界には、血塗れで横たわる幾人もの仲間の死体があった。今現在、敵の小型竜は四十は下るまい。結局は十騎も落とせなかったことになる。
既に矢も尽きかけている。ライル自身は落石で足を負傷し、凄まじい爆音の影響で耳は麻痺、煙と土埃で視覚までも半ば奪われていた。喉の渇きは極限に達しており、全身の血液は沸騰したように熱く、疲労は限界に達している。
こんなところで諦めなくてはならないのか…………。
部隊が壊滅した以上、奴らは赤炎竜を難なく手に入れるだろう。帝国が赤炎竜で最初に攻撃するのはどこか…………。地理的に最も近い故国に違いない。
ライルはクリスティナの、赤く腫れた頬を思った。あれだけ言っても彼女は従わず、俺の帰還を待っていることだろう。
敵兵に凌辱され、竜の吐く炎に焼き尽くされるクリスティナ────。
一瞬思い浮かんだ光景にドクン、と心臓が跳ねる。戦場で死にかけた時、ユレーテの死を伝えられた時にも増して、背筋に冷たいものが走る。
そうか…………。
俺はクリスティナを守るためにこそ戦ってきたんだ。故国も無論大事だが、それはクリスティナのいる故国だ。最も守りたい者はずっと目の前に、すぐ側にいてくれていたのだ。あいつと過ごした時間は、思っていた以上に俺にとって大切なものになっていたらしい。
だが結局俺は、クリスティナも守れそうにない。
ならばやることは決まっている。ライルは渾身の力で矢を
岩陰から移動する。斜面の高い位置から戦局を見下ろしている男、あれが指揮官だろう。他の竜騎兵はすぐにこちらに気付いたようだ。四方から怒号が飛び、敵兵の矢がライルに向けて一斉に放たれる。
ライルは喉の奥から怒声を張り上げ、引き金を引いた。
§
ライルが発って十日が過ぎようとしていた。この日クリスティナは一日中、窓の外を眺めて過ごした。陽が中天に差し掛かり、いつしか山の端が赤く染まる刻限になっても、ライルは戻らなかった。
きっと長期の任務を授かったのだろう。クリスティナは無理矢理に己をそう納得させた。その一方で、黒雲のように止めどなく湧き起こる胸騒ぎ────。
クリスティナは正体不明の不安を無理やり頭から追い払った。兄は必ず帰ってくる。その時は疲れ切った顔で私を叱りつけるだろう。また生傷を増やしているかも知れない。
ライルの痛ましい姿を思い浮かべて、クリスティナは胸を刺されるような思いがした。包帯も薬も揃えてはいるが、備蓄を増やしておいた方がいいかも知れない。
その時、突如耳に刺さるような高い音が鳴り響いた。続けざまに頭の中を掻き回されるような痛みに繰り返し襲われる。
§
闇の中に、二列の白い石柱が虚空に聳え、視界の果てまで果てしなく立ち並ぶ。途轍もなく寒い。
「クリスティナ────」
静まり返った空間に柔らかな残響。声は誘うように遠ざかってゆく。僅かに
どれほど歩いたか、最奥部に辿り着いたとき、クリスティナは正面を凝視して佇んでいた。
白い玉座────。
深く身を預ける一人の令嬢────。
燦然と輝く黄金の髪は
令嬢の双眼がクリスティナを捉えていた。その瞳に浮かぶ複雑怪奇な幾何学模様が赤々と輝いて、捻じれるように回転していた────────。
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