第二話 別れの時

 宵闇を映す窓に小雨がささやかな音を立ててぶつかり、雫となって流れ落ちていく。その様を見るともなしに眺めながら、クリスティナは溜息を洩らした。


 かつてのライルはあんな風ではなかった。戦が彼を変えてしまったのだ。ここに来て二年。少しでも兄の役に立とうと、傷の手当てや家政婦まがいの仕事をこなし、今ではすっかり身に付いている。彼の慰めになればと好物の茶葉を苦労して入手したり、外食の多い彼のために料理も覚えた。しかし、それら全てが彼の気に入らなかったようだ。


 理由は分かっている。貴族の令嬢たるもの、良き妻、良き母となるために礼法や社交術、音楽、美術、詩や文学を学ばねばならない。それらを中途半端に投げ出したまま館を飛び出して、実際やっているのが下女や下男と同じことなのだから、兄が怒るのはもっともなことだ。



だが────


 クリスティナは思う。あのまま遠い国や時代の歴史や思惟に溺れ、華麗な衣装に身を包み舞踏会で見知らぬ貴公子と優雅に踊ることが、戦場で血泥に塗れる兄を支えることよりも重要だとでも言うのか。己の成長を誰よりも温かく見守ってくれた兄を捨て置いて?


 父が王国から離れた位置にある中立国の貴族との縁談を進めていることは知っていた。しかし、難を逃れ一人幸福を得るなど、到底納得できるはずもなかった。



 無意識のうちに、クリスティナは胸元の紅玉ルビーを掴んでいた。病床にあった兄の婚約者、ユレーテが遺品────。



§



 死病に冒された彼女ユレーテは陶器人形のように蒼白であったが、クリスティナに気が付くと琥珀色の瞳を細めて微笑んだ。


「…………無窮なる……時の……檻にて…………」


 幾度かの激しい咳。血に塗れる羽根布団。口元の血を拭おうとするクリスティナを制し、ユレーテは最後の力を振り絞るように、震える手を伸ばした。


「我が魂は求め悶える 夢の最果て」


 言葉を継ぐクリスティナの掌に、固く冷たいものを握らせると、ユレーテは安心したように瞳を閉じた。その指先から力が、温もりまでもが失われていく。慕わしき人が天に召される瞬間を、クリスティナは初めて目の当たりにしていた。


 己を実の妹のように可愛がってくれて、きっと兄の良き妻になっただろう彼女の存在は永遠に失われてしまった。もはやその言葉を聞くことも、優しい微笑を向けられることもないのだ。


「主のお導きがあらんことを…………」


 足元が揺らぐような感覚の中で、クリスティナは使い古された文句を譫言のように呟いた。語るべきことはもっとあったはずなのに、満足な言葉一つかけてやることができなかった。無言のうちに溢れる涙が、赤い石を濡らした。




 いまわの際の染み入るようなユレーテの微笑みを、クリスティナは忘れることができなかった。あの瞳の奥で、ひっそりと輝きを放っていていたものはなんだったのだろう。全てを諦め、全てを受け入れるしかなくて、それでも己は幸福だったと信じることができたなら、あんな風に笑っていられるのだろうか。ユレーテの気持ちを思う度に、クリスティナは胸を掻き毟られるような思いにとらわれるのだった。



§



 ライルの負傷が伝えられたのは、ユレーテの死から五日後のことだった。彼女の葬儀も済み、喪に服す家中にあってクリスティナは一人旅支度をしていた。無論、ライルのもとへ駆けつけるためである。


 父に見つかり激しく口論を交わした時は、皆が目を丸くして驚いていた。夜間、軟禁された部屋の窓から抜け出した彼女は徒歩で林を抜け、夜通し歩き続けて馬車を捕まえた。そして半月にも及ぶ旅路の末、国境付近の町アドレーヌに辿り着いたのだった。




 町はずれの仮設営舎を訪れたクリスティナは、ライルのいる大部屋へ案内された。しかし横たわるライルを一目見て彼女はしばし言葉を失い、呆然と立ち竦んだ。ライルは全身に包帯を巻き、左腕を抑え呻きながら横たわっていた。彼は初めこそ驚いたがすぐに、「何をしに来たんだ」と冷たく言い放った。


「……兄様の…………お見舞いに」

「馬鹿な!! 遊びじゃないんだぞ!! 今すぐに帰れ!!!!」


彼女を怒鳴りつけるライルはかつてとは別人のようで、その凄い剣幕にクリスティナは目に涙を溜めて唇を震わせたが、引き下がりはしなかった。数人の戦病者から「うるせえぞ!!」と野次が飛ぶに至って、ライルは不服そうに口を閉ざした。



 以降クリスティナは修道院に寝泊まりし、修道女から医術を教わり、彼女らに混じって傷病者の手当てをして過ごした。ライルとしては不本意ながらも、幻肢の痛みに襲われる度にクリスティナに撫でて貰うと、波が引くように痛みが消えるのだった。

 ユレーテの近況を問うた彼に、クリスティナは躊躇いながらも彼女の死を伝えた。ライルは難しい顔をして黙り込み、ぽつりと呟いた。

「戦場で、ユレーテが俺を救い出してくれたんだ」


 ライルの傷が癒えた頃、二人は町に部屋を借りた。クリスティナに帰郷する意思はなかったし、ライルは修道院を信用していなかった。営舎に出入りしている彼女らの中に、体を売る者が多くいることを彼は知っていた。挙句には、ごろつき同然の友軍兵士からクリスティナが幾度か襲われそうになり、一度は直接その相手を杖で殴り昏倒させたことさえあった。



§



「兄様、どちらへ…………」

軍服姿のライルは、ちらりと目を向けたきり無言で必要な装備を身に着け始めた。

「まだ傷が治っていません。どうかご自愛を…………」

「分かっている」

クリスティナは兄の眼差しに、ユレーテのそれと同じ、死を受け入れた者特有の輝きを見た。何かを言わなくてはならない。例え死地においても、兄が生きることを諦めないための言葉を。

「なぜ」

考える間もなく口が開いていた。

「なぜそこまで無理をして戦われるのですか? 帝国に降伏してしまえばいいではないですか。例え国が消滅しても、生き残ることができたならそれでいいではありませんか!!」


 バシッ、と音が鳴ると同時にクリスティナの身体が弾け飛んだ。倒れた彼女に、ライルは怒りの眼差しを向けた。

 クリスティナは決して無知で愚かな娘ではない。ただ敗北が確定的となってからの継戦の愚を言いたかったに過ぎない。いずれ負けるなら、王国が公式に降伏するまで生き延びれば良いのだと。だが、その言葉こそライルに言ってはならぬことだった。


「帝国に飲まれて、奴らと対等に扱われるとでも思っているのか!! 奴らの軍勢がたちまち雪崩れ込んで来て、男は殺され、女は強姦される。我が民族の誇りや宗派の教えは踏み躙られ、歴史から消されるのだ。


クリスティナ、俺たちはな、今ある我らの国、文化、先祖が築き上げてきた歴史、それら全てを守ろうとしているんだ!! 今あるこの国のかたちをこそ愛しているんだ!! なぜそれが分からん!? いいか? ここで負けたら、子孫は帝国の弾圧を受け続けるだろう。あるいは、彼らは歴史を塗り替えられてこう教え込まれるんだ。『先祖が負けたお陰で、素晴らしい帝国の一部になれた』とな!! そんなこと、許せるわけがないだろう!!!!」


 ライルは怒号しながら涙していた。この戦いに従軍した将兵の多くは同じ思いで命をなげうって闘ってきたのだ。自分たちの必死の戦いが、最後には無に帰すかも知れないと心の底で恐れながら。なぜ女という生き物は能天気にも俺たちの死に物狂いの思いを否定するのか。歯痒くて仕方がなかった。


「私は……それでも私には……兄様がご無事でいらっしゃることが一番の願いなのです…………どうして分かって下さらないのですか?」


 身を屈したまま嗚咽するクリスティナを前に、ライルは暫く黙り込んだ。彼女の啜り泣きが静寂の中に響き渡っていた。思えばクリスティナに手を上げたのはこれが初めてかも知れない。


 彼女は幼い頃から、反抗らしい反抗を見せたことがなかった。ユレーテの死を契機に、何かが彼女の中に芽生えたのだろうか。自らの意思で親の反対を振り切り、大胆にも単身ここまで乗り込んで来て、迷惑がる俺の側で世話をし続けた。


 成長したのだな、と不意に思った。何か優しさを示さなくてはと思う一方で、それが彼女の為になるのかという躊躇いが生じた。葛藤の末、ライルは背を向けて短く言った。


故郷くにへ帰れ」


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