第三章 赤炎の戦記

第一話 戦場のリラ


 耳をつんざくような轟音と土煙。随所で火炎が炸裂し、爆風に混じって兵士の四肢が飛散する。敵軍の投石器から放たれる爆炎弾の雨の中で、ライル・アンドラーは血溜りと汚泥に横たわり、これから訪れる死を待っていた。体中の感覚は失われ、先刻弾き飛ばされた時に失った左腕からは血がどくどくと流れていた。


 ふいに、霞んだ視界に深紅の靴が映り込んだ。見覚えのある光沢に気を取られ、頭をもたげたライルは驚愕に目を見開いた。ユレーテ・フォン・リンブルク、彼の婚約者の姿がそこにあった。

 彼女はライルの手を取って立ち上がらせ、爆炎と怒号と血と屍に満ちた戦場を駆け抜けていく。赤みを帯びた金髪を大きく波打たせ、薄紅色のドレスの裾を翻し、ライルを振り返っては笑い声を響かせながら。紫丁香花リラの香水の、せ返るような匂いが漂っていた。いつしか二人はアンドラー家の庭で抱き合い、熱く口づけていた。甘い喘ぎに混じりライルの名が漏れて、ライルは蕩けるような心持で彼女を見つめた。愛おしきその姿を眼に焼き付けんとしたその時、彼女の皮膚が瞬く間に干乾びて、肉のこびり付いた骸と化していく。白骨化した腕に羽交い絞めにされたライルは体中の骨を砕かれて…………。


「兄様…………」

突然の声に驚いて、ライルは跳ねるように顔を上げた。不安気に覗き込んでいるのは妹のクリスティナだ。書類に目を通していた筈が、いつの間にか微睡んでいたらしい。


うなされておいでのようでしたが…………また悪い夢を?」

「…………さあな。覚えてないよ」

何か言いたげに口を開きかけ、それでも無言のままライルの肩掛けを掛け直した彼女は、ティーカップに紅茶を注ぎ始めた。ここに来た頃はぎこちなかった動作もすっかり板についている。

 だが、その姿を見つめるライルの表情は険しかった。仮にも貴族の娘がする事ではない。着ているものもそうだ。館にいる時分は身分相応のドレスに身を包んでいたものを、今や平民と見分けがつかぬほど質素な身なりだ。気品漂う母の面影を残す妹が、かような有様に…………。


 どこで道を違えてしまったのかと、ライルはしばしば思い悩んだ。幼い頃のクリスティナは泣き虫で、よくライルの後ろを付いて回っていた。八つも離れた彼女の家庭教師役も務めたこともあったが、ライルが軍学院に入ってからは手紙の遣り取りで近況を伝え合った。ライルの頼みもあってユレーテが時折クリスティナの話し相手になってくれたらしい。そのユレーテが流行り病で亡くなった時、ライルは戦場で左腕を吹き飛ばされて前線を退いていた。報せを受け取ったクリスティナはライルの身を案じて駆け付け、そのまま当地に残ると言って譲らなかった。後から届いた父からの手紙には、館中の反対を押し切って強引に出奔した経緯が記されていた。


 ライルはやむを得ず上官の許しを得て部屋を借り、二人で住み始めた。当時二階級特進で大尉に昇進したものの、それからすでに二年が経つ。かんばしくない戦況もあって、ライルは幾度も国許へ帰れと忠告したが、彼女はついに従うことはなかった。そして出撃の度に血生臭い軍服で帰還する生傷だらけの男を見ているうちに、クリスティナの屈託のない笑顔は失われていった。

 

 だが、そんな日々も終わりが近いかも知れない。敵はロミア聖教宗主国にして最大の兵力を誇る神聖ガロリヤ帝国。帝国の異端狩りを契機として、ドルーセン王国との間に戦端が開かれすでに四年が経過した。結果として、それは周辺国を巻き込んだ類を見ない大戦争に発展している。

 当初膠着状態に陥った戦線は徐々に帝国に押し返されていった。今やドルーセンを含め、連盟国の殆どは死に体と言ってよい。国王をはじめ重臣たちは降伏の使者を立てる用意をしているとの噂も流れていた。

「あるいは次の一戦で勝利すれば…………」

有利な条件で休戦に持ち込めるかも知れない。多くの将兵がその儚い希望の下で戦意を繋いでいる有様であった。深刻な士官不足に陥っていた王国は左腕を失ったライルにすら退役を許さなかった。


「兄様」

クリスティナの声で現実に意識を戻される。

「ああ」

差し出された紅茶に口を付けながら、クリスティナの胸元に視線を走らせる。ユレーテが死に際にクリスティナに託した遺品、「赤い涙」と称される大粒の紅玉ルビー。いつもならここでクリスティナが退出するのだが、今日の彼女は去ろうとしなかった。

「兄様……給水所で兄様の部隊が出撃するとの噂を耳にしました。そのお体でまた前線に戻られるのですか?」

ライルは眉をひそめた。兵舎ならともかく、こんな所にまで話が漏れているのか。下士官どもがまた口を滑らせたようだ。敵に漏れる危険性も分からないのか。苛立ちの余り思わず机を叩いていた。安物の机が衝撃で震え、紅い液体がカップから漏れ受皿を汚した。包帯を巻いた肩から再び血が滲み始めたが、ライルは気に留めなかった。

「軍務について話すわけにはいかない。前にも言ったろう!!」

ライルの怒声にもクリスティナはたじろがなかった。

「承知しています。でも…………」

「お前が案ずることはない。なに、この体たらくだからな。指揮所から命令を出すだけだ」

嘘だ。出撃すれば最前線で剣を振るって号令を掛けねばならなかったし、偵察任務も変わりなくこなしていた。だがクリスティナも勘の鋭い娘だ。いつになく食い下がってくる。

「兄様、これほどあなたの身を案じている私のことも信用なりませんか? この前もただの視察だと仰ったのに、そんな怪我までされて……父上も母上も、館中の者がどれだけ心配しているか…………」

口を噤むライルの包帯を、クリスティナは涙を拭いながら巻き直した。ライルの知るどの衛生兵よりも丁寧で手際の良い処置だったが、彼女から漂うリラの香りに気が付いて、ライルは褒めるどころか不快そうに歯噛みをした。


 クリスティナと入れ違いに、若い伝令兵が司令部からの命令書を携えてきた。そこにはただ一行、こう記されていた。


『至急ルマン峠ニ赴キ指示ヲ仰グベシ』

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