終話 運命の回廊
七年ぶりに再会したシモーネは美しく成長し、将来の伯爵夫人たる気品と素養を遺憾なく身に着けていた。だからこそハインツは一層疑念を強くした。一体ザインベルグ伯爵はいかなる理由でこの偽物を育て上げたのか。だが、本人はそれを知っているのか。シモーネとの接吻に応じ、その熱い吐息を感じながら、ハインツは鎌をかけた。
「シモーネ、一つ聞かせてくれ。君の一番古い記憶はなんだ?」
シモーネは不思議そうに彼を見上げ小首を傾げた。
「一番……古い記憶? 古い……記憶…………」
閉じた瞼の向こうに浮かぶ景色。闇に浮かぶ、朧で柔らかな黄白色の光……木漏れ日と柔らかな温もりと。あれは母の膝の上…………。
「大きな
ハインツの眉がぴくりと動いた。
「栗色? 君の母は金髪のはずだろう?」
先刻から漂うもの哀しい歌声が徐々に近づいてくる。聞き覚えのある旋律に、ハインツははっとなって耳を澄ませた。
「そうか……」
ユディが死んだ以上、冥界の扉は再び開かれる。しかしなぜ王都ではなくここなのか。
「ああ、この歌…………」
歌声に共鳴して、シモーネの鼓動が高まる。赤黒いどよめきが胸の内にこだまし、遥かなる記憶の断片が蘇った。
「ねえ、聞いてハインツ…………私、この歌を聞いたことがある…………」
ぎょっとして振り返るハインツは、シモーネの恍惚とした表情を見た。
「やめろ…………歌うな!!」
「どうして? とても素晴らしいのよ…………」
いつか、遠いどこかで聞いた甘く悲しい歌曲。何故か身体が覚えている。シモーネの口から忌まわしき旋律が溢れ出すのをハインツは止めようとした。だが、シモーネの眦から紫の涙が零れるのを見てそれも無駄と悟り、ハインツは腰の短剣を抜いた。儀礼用とは言え殺傷力はある。この期に及んではやむを得まい。歌い続けるシモーネの胸に、ハインツは躊躇なく刃を突き立てた。口から大量の血を吐きながら歌い続けるシモーネを、ハインツは幾度も刺し貫いた。
「シルヴィア、どこかで見ているんだろう!! こいつを止めろ、対価はこの女の魂だ!!」
直後、黒雲から伸びた青白い閃光が宙を引き裂き、一瞬でシモーネを包み込んだ。耳を
黒雲を駆け抜ける紫電の轟でシモーネは目を覚ました。視界には荒廃した庭園の、枯れ果てた芝の上、頭を預けている誰かの膝。見上げればかつて
「あなたは一体……誰なの?」
「我が名はシルヴィア────シルヴィア・ル・フェイ」
彼女の纏う独特の精気が何であるか、シモーネは察した。光すら滅してしまう死と暗黒の化身。
「シルヴィア……私は…………私は
己を刺し貫いた時のハインツの表情……情の欠片もない、焦りと恐怖。私が愛したのは彼の幻影に過ぎなかったのか。
「そう────彼はあなたを愛してはいなかった」
「なぜ……どうして…………」
刺された個所から溢れる鮮血。薄れゆく意識。もう長くない。悲しみは怒りに、愛は憎しみに。理由などあえて問うまい。彼は選択したのだ。私を抹殺することを。
「シルヴィア……死の天使…………この身も魂も捧げよう……どうか彼に私の想いを…………」
いかにすれば彼の残虐な行いに報いを与えられるのか、シモーネには分かっていた。
「彼の子が私と同じ年になったら…………その命を奪って…………」
「────素敵だわ」
青い瞳はきらきらと輝き、その犬歯は刃の如く鋭く尖る。
「綺麗……」
誰よりも冷酷で、何よりも美しい。シモーネから漏れたのは惜しみない感嘆のため息。魔女の接吻を受けるシモーネの口元から、熱く甘い喘ぎと共に深紅の
§
時を経て、ハインツは大貴族の一人に上り詰めていた。シモーネの死からほどなく、霧が晴れるように地獄は消滅した。危難をどうにかやり過ごしたハインツはベルーカが隣国の侵略に遭ったと国王に報告した。国王は直ちに援軍を与え、ハインツに出撃するよう命じた。初陣ではあったが、有能な参謀に助けられたハインツは自ら陣頭指揮を執って勝利をおさめた。
やがてベルーカ城も再建され、ハインツの居城の一つとなった。断絶したザインベルグ家に代わり、ハロル子爵の娘を妻に娶った。栗色の巻き毛が美しい、色白の女だった。彼女との間にもうけた一人娘のアンリエッタはすくすくと成長し、はや十七を数える。近々王家の傍系との婚約を公表する予定だ。冷淡な性格だったハインツも、己が娘のこととなればやはり一人の父としての愛情を抱くようになっていた。
だが、幸福は突然終わりを告げた。アンリエッタが急死したのである。昼下がり、妻がアンリエッタを伴い付近の散策に出かけ、木陰で休んでいた最中のことであった。死の直前、見えない誰かと会話しているようだったと妻は泣きながら語った。幻の相手の名を聞いて、ハインツは放心したように天井を見上げていた。ユディ・ルーガスの記憶を見ていたあの時、銀髪の魔女はユディの目を通して己を嗤っていたのだと、その時になって確信したのだった。
§
幾層にも響き合う誰かの囁き声。それが
「母上…………」
「目が覚めた? アンリエッタ」
夢を見ていた。どこか遠いところで、辛く悲しい死を迎えた何者かの記憶。熱く胸を焦がした金髪の青年に刺殺される最悪の終幕。
違う!!
耐え難い情念が、火山のように噴き上げて胸の内を燃え上がらせる。夢なものか。あの痛み、悲しみが幻だというのなら、なぜこうも涙が流れるのか。なぜわが身はかように震えるのか。楡の大木が音もなく裂け、木漏れ日が輝きを失い、漆黒の雲に飲み込まれていく。
そしてああ、母に代わり、己を見下ろすのはかつて
「そう……これが私の業なのね…………シルヴィア…………」
魔女が忍び笑いを漏らした。
「また────彼に会わせてあげるわ」
魔女の濃厚な接吻を受けながら、アンリエッタはいずこからともなく流れる甘く哀しい旋律を聞いた。一体どこからが現実でどこからが夢なのか、アンリエッタには分からなかった。ただ己の運命が、決して抜け出すことのできぬ大きな時の渦に絡め取られたことだけは確かに思われた。
§
「主は言われました。『私は蘇りし命である。私を信ずるものは死しても蘇るのだ』と。死は終わりではありません。この世の罪を贖い、天に召されし幼き命の平安を共に…………」
王都の外れ、エルベ教会墓地。王宮を襲った怪異の犠牲者、シモーネ・ゴドヴァルの葬儀が執り行われていた。
不意に神父の言葉が止んだ。彼は口を半開きにしたまま、眼前の光景を食い入るように見つめていた。蒼空より霞のように現れた銀髪の少女が、埋葬されんとする棺にふわりと舞い降りたのだ。木々や草花、そこに集いし者たちまでもが一様に色を失い凝固して、ただ彼女だけが神秘の光色に包まれていた。
少女が歩みを進める間に、棺の小窓がひとりでに開いた。そこから覗く亡きシモーネを見下ろし、少女が己が掌を短刀で切りつける。伸ばした指先から流れる鮮血が棺の小窓に滴り落ち、シモーネの唇を濡らした。腐りかけの果実を思わせる、濃厚な甘みのある香りが立ち込める。冷たい微笑を浮かべた彼女の残影が消え去るまで、神父は身動き一つできなかった。
世界が色彩を取り戻した刹那、棺を墓穴に降ろしていた墓守が悲鳴を上げて綱を手放した。“シモーネ”の閉じられた両眼が、かっと見開いていたのだ。棺が傾いて墓穴に落下し、上蓋が外れた。
よたよたと棺から這い出たシモーネを目にし、誰もが恐怖に身を竦ませた。亡骸だったはずのそれは墓穴をよじ登ると、悲鳴を上げて後ずさる大人たちを無感情に眺めていた。ただシモーネの母親だけが、蘇った彼女に近づき、腰を屈めてにっこりと笑いかけた。
「シモーネ!! やっと起きたのね? お腹すいてない?」
父ザインベルグ伯は我に返ると、威厳を取り繕って参列者を見渡し、落ち着くよう声を上げた。動揺が鎮まるのを待って、彼は重々しく宣言した。
「シモーネは生きていた。仮死状態に過ぎなかったのだ」
§
数年後────
ゴドヴァル伯爵とザインベルグ侯爵の園遊会が執り行われた。両家の行く末を祝福するかの如く、天は晴れ渡り鳥は春を歌い上げ、庭園の花々は鮮やかに景観を彩っている。
シモーネは支障なく成長したが、時折見せる妙に大人びたしぐさや、生意気ともとれる言葉には使用人はおろか身内すら畏怖と嫌悪を覚えた。屋敷のそうした雰囲気を察し、彼女はやがて心を閉ざすようになっていたが、それがますます孤立を深める要因となっていった。
シモーネの屈折した思いはしかし、まだ幼きハインツの瞳を見た途端に掻き消えていく。かつて無残な結末を迎えても、やはり彼を愛していた。きっと、己次第であの最期を避けられるかも知れない。そんな希望が全身を満たしていく。
シモーネの思いを寸断するように、一筋の閃光が空を裂いた。眼前に降臨せるは銀髪の魔女。時を隔て現れた姿は、かつてと寸分の違いも認めなかった。シモーネが口を開くのを制するように、魔女は細い指先で彼女の顎を撫で上げる。
「あなたの
魔女の瞳に浮かぶ不可思議な模様が、シモーネの意識を混濁へ導いていく。己がアンリエッタであった思い出、これから起こることの一切がするすると手元を離れ、鎖を絶たれた錨のように漆黒の淵に沈んでいく。魔女の囁きに容赦なく魂の半分を削り落とされ、心までまシモーネに変わりゆく
《第二章 霧城の哀歌 終》
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