第五話 紫巾の魔女

 遡ること半月────。


 ハインツ・ゴドヴァルは一つの風聞を耳にして以来、気を荒立てていた。貴族社会では根も葉もない中傷はどこからともなく流れてくるのが常ではある。しかしながら、『シモーネは一度死んだ』だの『悪魔と取引をして蘇った』などというのはさすがに常軌を逸していた。


王都の学院に籍を置いていたハインツは、有力貴族の伝手を頼り真相を探ろうとした。しかしハインツが詳しく知ろうとすればするほど、誰もが固く口を閉ざした。ハインツは却って疑念を強くした。とある夕暮れ、学院の廊下で襟首を掴まれたハインツは、有無を言わさぬていで小部屋に引き込まれた。頭巾フードで顔を隠したその男は、低い声で動くなと命じてハインツを壁に押し付け腕を捩じ上げた。

「十年前、王宮で何があったか知りたいか」

「……十年前? シモーネと関係が?」

「“紫巾の魔女”に会いに行け。都の東の外れにいる」

そう言い残し、男はハインツを突き放し、背を向けて立ち去った。



 翌日、ハインツは言われたとおりに都東部に向かった。襤褸馬車を捕まえて降り立ったそこは窃盗や殺人が頻発する貧民街であったから、腰に長剣を帯び、懐にも短剣を忍ばせておいた。


 昼日中とはいえ、至る所に不穏な空気が漂っている。娼婦街を歩いていると、背後から二、三人のならず者が後をつけているのに気付いた。武装していても痩身の若造など何とでもなると思っているのだろう。角を曲がったところで全速で駆け出す。怒鳴り声が聞こえたが、振り返らずに幾つか角を走り抜けたところで、下層市民の集合住宅インスラに入り込んだ。正面の開きかけの扉を抜け、四方を居住区に囲まれた中庭に出る。洗ったばかりの吊るされた衣服が風に煽られていた。歳の頃十くらいの少女が背中に嬰児を背負いながらほうきを手にし、一方で年増の女たちが井戸端で品性の欠片もない笑い声を上げていた。

「紫巾の魔女、ユディ・ルーガスを知らないか」

彼女らに尋ねると、どっと下品な笑いが返ってきた。

「あんな老いぼれが好みかい、坊や。あたいらの方がずんと具合がいいよ」

顔をしかめて裏口から出ようとしたところで、先ほどの少女に呼び止められた。背中の赤ん坊をあやしながら、少女は小銭と引き換えに教えてやると言う。銅硬貨一枚を放り投げると器用に掴み取った。ユディの所在を聞き出し、礼を言って去ろうとすると「また来なよ」という声が追いかけてきた。誰が来るものか、そばかすめ。



 小便臭い狭い路地を抜け、細く折れ曲がった下り階段の途中で立ち止まる。板戸を叩くと覗き窓が開き、少年の眼差しがハインツを無遠慮に物色した。来訪の意を伝えると、銅貨一枚で通された。暗いアーチ状の廊下の奥で、筋骨逞しい髭の男が一人、扉の前で腕を組んでいた。男に長剣は無論、隠し持っていた短剣も見咎められ、これも預けるとようやく中に通された。


 内部は薄い幕が幾重にも張られ、不思議な匂いの香が焚かれていてやや息苦しかった。身を屈めながら、仄かな蝋燭の明かりを頼りに奥に進むと、紫巾を纏う老婆が水晶を前に顔をうつむかせている。向かいに腰を降ろすと、老婆の皴枯れ声が響いた。

「…………何が、知りたい」

ハインツは一瞬考え、最小限に答える。

「十年前、王宮で何が起きたのか」

老婆はこうべを深く垂れ黙りこくった。金貨を一枚滑らせると、ぴしゃりと押さえて懐にしまった。

幽世かくりよの門が開いた……そして多くの者が死の世界に取り込まれた」

 老婆に両腕を出すように言われ、従うと干乾びた両手にがしりと掴まれた。驚きの中でも、ハインツは老婆の両手に激しい火傷の跡が残っていることに気付いた。おもてを上げた老婆の両の眼窩もまた、焼きごてで抉られたかのように潰れていた。

「…………儂の知る限りを教えてやろう、ハインツ・ゴドヴァル」

何故己を知っている? ハインツに問う間を与えず、老婆が彼の両手を紫水晶に押し当てた。その表面から意識の弾けるような衝撃を受け、ハインツは昏倒した。


§


 澱んだ闇色が青空を侵していた。地上は光の神の庇護から離れ、闇の神にその支配を譲ろうとしているようだった。いずこからともなく現れた双頭の巨大な狼が、青白い炎を吐き出しては人々を襲い、宮殿を炎上させた。轟音と黒煙と悲鳴と怒号の中、近衛兵たちは急ぎ人々に退避するよう先導し、襲い掛かる魔物と対峙したが、巨狼の群れに為す統べなく食い千切られていった。

 国王側近の魔術師ユディ・ルーガスは、この惨状は己が手に余ると即座に判断した。帝国の魔術師団ならば、事態を収拾できるかも知れない。だが事態は一刻を争う。とすれば…………。

 王宮の屋上で、ユディは己の腕に短剣を突き立てた。呻きを押し殺し、噴き出した鮮血を指ですくって紫水晶に古代文字でその名を記し、祈りを捧げた。


 突然、冷たい風が流れた。青白い閃光が走り、巨人の断末魔のような雷鳴が轟いた。突然に荒れ狂う風の中に、ユディに背を向ける銀髪の少女を認め、ユデイは歓喜に震えた。ああ、来てくれた!! 

「我が名はユディ・ルーガス。偉大なる魔女よ、どうか冥界の門を…………」

おのが銀髪を指先できつつ、少女はユディに青い瞳を向けた。

「何卒、憐れみを…………冥界の獣を鎮め、門を閉じることができるのはあなた様しか…………」

シルヴィアと視線を交えた刹那、ユディは緊張の余り全身が強張るのを感じた。幾人もの高名な魔術師を知己にもつユディすら、深源から湧き上がる恐怖を抑えることができなかった。想像を絶する力の差を感じる。ユディは恥も誇りもなく、ひたすらに頭を石畳に擦り付け震え声で懇願した。彼女のそのような姿を見れば、誰もが唖然とするであろう。


 ユディには一切の関心を払わず、シルヴィアは眼下の惨劇を眺めていた。不意に庭園の外れに顔を向けた彼女は、何かを見つけたように目を細めて皮肉な微笑を浮かべた。

「対価には我が魂を…………」

無言のままのシルヴィアに、ユディは言葉を重ねた。冷酷無比とされる魔女シルヴィアがいかなる要求をするのか、彼女にとっても不可知であった。先手を打ったはずのユディに、シルヴィアは冷めた眼差しを返した。薄紅色の唇から、くぐもった笑いが漏れる。

「なれば、そなたが生きている間だけ────」

シルヴィアの両目に、青く輝く複雑な模様が浮かび上がる。

「冥界を閉じてやろう」

ゆっくりと回転し始めた瞳の模様が太古の呪術陣であることをユディは察した。直後、ユディの両目に青い炎が噴き上がり、瞬時に眼球を燃やし尽くした。喉の奥から絞り出すような絶叫を迸らせながら、ユディは身を捩らせてのた打ち回った。


 苦悶するユディをよそに、シルヴィアの甘く透き通る歌声が辺りに響き渡った。哀切と絶望を歌うフランチェスカの声音が、その旋律に絡め取られ、極寒の冷気によって軋みを上げて凍り付くように消えていく。

 冥界の魔狼までもが恐れおののき、消えゆく冥界の境界へ雪崩れ込んで行った。空には陽光が戻り、大気は暖かさを取り戻していった。半壊した王宮が無残な姿を曝してはいたものの、事態は収束したのだ。盲いたユディの耳元に、銀髪の魔女が囁いた。


「ヴィルヘルム・バーデン」


 その後、王宮の崩落は突然の地震と火災であるとされ、犠牲者は直ちに埋葬された。ユディの進言により、原因の究明はヴィルへの聴取から行われた。彼によると、フランチェスカはヴィルの復刻した歌の一節を歌い始めてすぐ、全身を痙攣させ両目から紫の涙を流し始めたという。彼女はヴィルの呼びかけには答えず、目前で宙に浮かび歌い続けた。まるで悪魔に憑りつかれたようだったとヴィルは証言している。

 双頭の巨狼が徘徊する中、庭園の茂みに潜んでいたヴィルは婦人や子供たちが襲われるのを目撃した。犠牲者にはザインベルグ家の幼い娘シモーネも含まれていた。救おうとしたが果たせなかったと彼は言ったが、ユディは信じなかった。

 潰れたユディの両目に、シモーネをフランチェスカの目前で絞殺する彼の姿が映ったのだ。恐らくは彼女を贄に捧げ閉門の儀を試みたのだろう。だが、古の大魔術を素人の彼が成功させられるはずもない。とは言え、ユディにも彼の罪科を証明する手立てはなかった。生き延びた母親は頭がおかしくなっていて証言者たる能力もなかった。


 ヴィルの所有していた「冥界と死者の書」は王立魔術協会に秘匿され、楽譜は全て焼却された。ヴィルの処遇は揉めに揉めた末、国王の御意もあって王都からの追放に落ち着いた。ただし手紙には全て検閲がかかり、作曲はおろか楽器一つ入手不能となった。追放先がザインベルグ領とされたのは、己が罪と向き合えというユディの隠された意図が働いた結果である。


 一方、シルヴィアの魔炎はユディの精神をも蝕んでいた。ユデイは程なく王立魔術協会を辞し、壊れかけた魂を抱え、水晶占いで糊口を凌ぐだけの抜け殻となった。ともすれば行倒れになるはずだった彼女を救ったのは、元近衛師団長であった。王宮を守れなかった責を問われ、職を辞した彼もまた市井に落ちていた。かつての栄華も消え失せたユディと再会したのは半ば必然であったのかも知れなかった。


§


 何かが切れるような感覚に襲われ、ハインツは目を覚ました。紫巾の魔女は微動だにせず円卓に伏せていた。死んでいるのだと直感で分かった。すぐ後ろに人の気配を感じた。髭の大男がユディを見下ろしている。腕の傷痕は近衛兵時代に付けられたものだろうか。

「俺がやったんじゃない」

「分かっている。魔女ユディはいつ死んでもおかしくはなかった」

男は無言で老婆の遺体を長椅子に寝かせた。かつて同じ場所で、共に光ある道を歩んでいた彼が何を思っているのか、ハインツの知るところではなかった。ただその背中には言い知れぬ哀愁のみがあった。


 帰途ハインツは思索に取りつかれた。シモーネ・ザインベルグは殺されていた。ならば、己が知っているあの娘は何者なのだ。薄気味の悪さと、たばかられたという想いがハインツの心を黒く染め上げていった。

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