第四話 霧は紅に染まり

 針葉樹林の生い茂る丘の頂にそびえるベルーカ城。石灰岩を積み上げた分厚い城壁は断崖の如く屹立し、天に突き刺さるダンジョンは山頂の奇岩にも似て城下を睥睨へいげいする。




 今その上空には朧に霞む半月が係り、地には冬の冷気が容赦なく吹き抜けてゆく。風に紛れてこだませるは、妖しき死のかなで、妖女の謡。なんと心の襞にまで染み入るような音階か。


 山城にくまなく溢れひろがるその旋律に誰もが感じたであろう、どくどくと脈打つ己が鼓動を。秘めやかなその声音は、厳冬の哀愁を漂わせて胸に迫る。荘重なる声は館にまで届き、悲しき震えが小波さざなみの如く貴賓らの心を震わせた。


 弦楽奏者は手を止め、輪舞も止み、皆沈黙して耳を傾けた。ほどなく押し殺すような啜り泣きが城内の随所で上がり、老若男女の区別なく、滂沱ぼうだの涙を流し崩れ落ちる者まで現れた。


 どこの誰が歌っているのか。何人もその答えを知らぬ。されど、いざ仰ぐがよい、魔性の声を発する者を、霧より現われし邪悪なる存在を。


 


 それは月を背に現れて、天より降りて来た。そよげる髪は金糸の如く、白く澱みし瞳は凶々まがまがしく闇を湛え────。破滅の天使が従えるは冥界の獣。身の丈人の数倍はあろうか、全身黒い体毛に覆われ、頭部には角を生やした双頭の狼。咆哮と共に青き炎を吐き出して、見る間に人々を焼き殺した。


 暗黒のこの地に救いの神は現れぬ。ただ死せる乙女の凍れる歌と、悲痛なる絶叫がこだまするばかり。






§




 時を移して日が沈み、いつもなら静まり返るはずのその刻限、ベルーカ城下の歓楽街には未だ煌々と明かりが灯り、熱気と喧騒に包まれていた。


 酒杯を手に大笑し合う赤ら顔の老人、骨付き肉に齧り付く男たち、裾を摘まみ上げて軽快な舞踏に興じる若い男女、力比べや賭けに興じる者たち。かくなるめでたき日にあっては、街の治安をあずかる衛士隊も多少の騒ぎには目を瞑るのが粋というもの。




 されど遥か霞の彼岸には、異空なる冥き天に鈍色の雲の大渦立ち昇り、冷風荒ぶは果てしなき荒野。その地に生ける者はなく、ただ渇きと嫉みに狂えし亡者の怨嗟の叫びが響き渡った。




 何事かと目を凝らす人々の前に溢れ出でたるは巨狼の大群。率いるは死せる妖女。赤紫の涙零れ落ち、色褪せし唇からは哀しき歌が零れ出る。死者の謳いは耐え難き陰惨な憂愁を帯びて、華やいだ空気を一瞬で寂寥の淵に沈めていった。




 一人、また一人、怪物に襲われし人々は五体を捻られ捥ぎ取られ、呻きとともに絶命した。塵芥ちりあくたのごとく打ち捨てられし骸は千、万を遥かに超えて、滴る鮮血は赤き河のごとく流れていく。


 光の御子よ、我らがいかなる過ちを為したと言うのか。主よ、我らを救いたまえ…………。街は青き炎に包まれて、祈りは血飛沫に消え月は朧に紅く染まる。








§








 花々の香りと清流のせせらぎ。ここには微風に紛れ妖精の声も聞こえよう。


「何をしているの、ヴィル?」


 国都の王宮、よく訪れる庭園の東屋ガゼボ────。ヴィルの手元には、注釈だらけの楽譜の束。この三月、寝る間を惜しんだ曲作の成果。髪も髭も伸び、食事もろくに取らずにいれば、余人は彼に近づくまい。




 声を掛けたのはフランチェスカ。十六で舞台に立ち、瞬く間に耳目を集め、類稀な才能で大衆はおろか貴族までも魅了し、不動の高音歌手ソプラノの地位を築いた天才歌手である。


 かつて若手作曲家の先鋒とされたヴィルも、これほど音楽の才能に恵まれた彼女には驚嘆を禁じえない。だから、君にだけ送る歌を……僕にしか作れない、君のためだけの歌を…………。


「実は、珍しい歌曲を用意したんだ」


「珍しい歌?」


「ああ、我らが神の子よりも古い時代のものだ」


 それだからこそ、この歌は君に相応しい。


「少しだけ、歌ってみてくれないか」




 我が右手は悪魔に憑りつかれた。ほんの一瞬、魔が心を掠め取り、全ての発端を創り出した。


 稀覯本の収集家であり、蔵書を誰にも見せたがらない偏屈な彼女の噂を聞いて訪れてみれば、ヴィルの楽曲の愛好家であった彼女にすんなりと通された。しかしヴィルが手にした書物を見た老女は顔色を変えた。好奇心を刺激されたヴィルは口論となり、挙句老女を燭台で何度も殴った。その後ぴくりとも動かなくなった老女を放置して、ヴィルはこっそりと館を抜け出した。


 古文書の解読は王立協会の知人に頼った。彼は不吉な文言が記されていると忠告をしたが、ヴィルは気にも留めなかった。何が「現世と冥界の境界が消える」だ。太古の魔道ごときが、何を為し得るというのだ。






 後、ヴィルは度々回想した。あの時、己は幸福にもこう思っていた。フランチェスカは天上の園の実在を、俗人に知らしめるべく神に送り込まれたのだ。我が最高傑作を歌う彼女の声が、甘くあまねく響き渡る。神々の歌は然るべき者の手によって再現されなくてはならないのだ。それこそ、神の祝福を受けた者にこそ…………。








§








「やめろおぉ!!!!」




 己が怒声にはっと目を覚ます。思えばかつての己の無知ほど呪わしきものはない。人のえにしは織物の如く縦横に交差して、ゆえに一条のほころびは数多の命運を巻き込み狂わせる。おお、主よ、どうか、我が恐るべき罪を赦したまえ…………。




「何をしているの、ヴィル?」


囁くような声が空気を凍らせる。振り向けば、妖しく微笑む銀髪の娘。


「懐かしいものを見せてあげるわ」


彼女の指がヴィルの手を掴んだ。刹那、視界が激しく回転した。激しい突風に吹き曝されるような感覚が走り、気づくと町中央の広場に佇んでいた。眼前には聖典に描かれし煉獄さながらの絶叫と狂乱。冥界の歌を歌うフランチェスカと、おびただしい怪物の群れが人々を襲い貪り食う地獄絵図。


「止めろ……止めるんだ、フランチェスカ…………」


「もう、遅いわ」


 その言葉は抗えぬ運命さだめの裁定にも似ていた。


「この町も、もう終わりだ…………」


「終わり?」


 膝を折るヴィルに、目元を歪ませた魔女が歌うように返す。


「これで終わるとでも────」


 ほっそりとした指先があやすように彼の顎を這う。


「思っているの、ヴィル?」


「どういう…………まさか…………まだこれを!! お前えぇぇ!!!」


 掴み掛かかるヴィルが勢い余り娘の軽き身を押し倒した。


「一体何の恨みがある? 儂にか? 町の奴らにか? お前の狙いはなんだ!!?」


抵抗もせず、魔女はヴィルを見つめ返した。冷笑を含んだ言葉が、ヴィルの心に氷の刃を突き立てた。


贄を捧げる? かつてのように────」


 びくりと体を震わせるヴィル。一体、なぜこの娘はを知っている? 


「さすれば、これも止まるかも知れないわ」


 焦燥の汗を流し、慄きながらもヴィルは絶叫する。


「お前は…………お前は狂っている!!」


 血の気の薄い唇から、ウッフフフと玉の転がるような声が漏れた。


「あなたは自身は、正気だとでも言うの?」


 魔女の瞳に、複雑に折り重なる幾何学模様が浮かび上がった。


「それほどまで言うのなら────終わらせるがいいわ。あなた自身の手で────」


 互い違いに回りはじめた幾何学模様が、幻惑的な輝きを帯びてヴィルの心に波紋を起こした。荒波はやがて幾つもの渦となり、そして────


「おお、フランチェスカ……!!」


 眼前に悶え苦しむのは我が愛しきフランチェスカ。今こそ光無き苦しみから救い出さん。両の手に一層の力を込め、か細い首を締め上げ、救済を果たさんとするヴィル。


 最も深く愛した娘の、変わり果てたる青白き身体が声を発しなくなるまで、力任せに首を絞め続けた。やがて赤紫の涙は遂に止み、断末魔に開かれし口はようやく声を失った。ついに、救いは果たされたのだ。


「おおお、我が罪は贖われた!! 冥界に囚われしフランチェスカの魂を神に代わりて……神の御許に…………御許に…………」


 己が両手を見つめるヴィルの瞳にかつてなき怯懦きょうだが浮かぶ。数舜視線を彷徨わせ、彼の心はついに安住の地を見出した。胸の内にただ狂気を宿した彼は、たがの外れた笑い声を夜霧にこだまさせた。






「時は下りて神は去り、いつしか人はおごれども────」


夜深く、魔女は冷え冷えと滅びゆく街を見下ろした。


「死の瞬刻にすべてを悟る────遥かいにしえより抱きし畏怖を、冥府の神の甘く冷たき囁きを────」

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