第三話 月光

 多くの国の例に漏れず、ここベルモント王国でも貴族には滅多に恋愛結婚など許されなかった。国王の許諾や親族の同意が必要であったし、教会のお墨付きが無ければ縁組は無効とされた。


 従ってザインベルグ及びゴドヴァル両家は国王や教皇に近しい者に仲介を頼み、万事滞りなきよう協議を重ね、関係貴族を含め複数の勢力間で協定を結ぶに至った。

 血族を含め周囲にとっては、婚姻の主な狙いはむしろそこにこそあった。故に貴族の結婚は一見華やかではあったものの、ともすれば継嗣さえ生めば後は互いに不干渉で、長年別居したまま死別する夫婦も珍しくなかった。


 しかし、シモーネとハインツに関してはおよそその懸念は無かったと言って良い。正式な婚礼はまだ先とは言え、ザインベルグ侯爵息女シモーネとゴドヴァル伯爵家次期当主ハインツ公子の婚約に心躍らせぬ者はいなかった。


 辺境伯ザインベルグと中央の影の権力者ゴドヴァル伯両家の結び付きは、国境地帯であるマルティア地方に中央からの軍資金や駐留軍の投入、それに伴い安定な治世と経済活動がもたらされることを意味していた。


 そしてそれ以上に、二人が幼子の頃から相思相愛であるとの噂はいつしか庶民にも広まり、領内は高揚した雰囲気に包まれていたのだった。いつの世も、貴族同士の恋は庶民の心を惹きつけるのである。



 そもそも園遊会以来、会えないもどかしさに堪えかねて文通を始めたのはシモーネの方である。折に触れ届く彼からの手紙にも、忘れずに返事をしたためてきた。初恋の幼い慕情が、互いの近況や思いを綴る間に幾重にも蓄積し、醸成されてゆく。

 彼の手紙は純朴な少年のそれから、やがて見下されまいとする矜持を示すものに変わり、そして軽い諧謔ユーモアと憂鬱を湛えたものに変化していった。

 

 手紙の中の彼は青年らしい葛藤を抱えつつもシモーネへの気遣いを忘れなかったし、一方でシモーネは今やはっきりとハインツへの愛を自覚していた。


 そして今日、シモーネはようやくハインツと再会を果たすことができる。夕刻には正式な婚約発表を兼ねた貴族を招いての舞踏会が催される。はやる心を押さえ、次々と到着する貴族たちを歓待する彼女の胸は、ハインツへの思いで一杯であった。


 やがて休憩の為に自室に引き取った彼女は、窓越しに五頭立ての馬車が近づいてくるのに気が付いた。前後を護衛する騎馬兵の掲げる徽章が紛れもなくゴドヴァル家のものであると認めた彼女は、喜びの余り鼓動がドクンと高鳴るのを感じた。


 急いで玄関に向かう彼女に、父が小言を投げかけたが気にも留めなかった。馬車から降りるハインツを見届けると、シモーネは落涙を禁じえなかった。癖毛の薄い金髪ブロンドは昔のままに、顔つきも身体も大人の男のそれへと成長を果たしつつある。その洗練された身のこなしは、ハインツの受けてきた教育の高さを示すものでもあった。


 彼の父ゴドヴァル伯爵が彼を伴い歩み寄るのを、シモーネは陶酔した面持ちで迎えた。青い瞳を向けて微笑んだ後、膝を折って己の手の甲に接吻をするハインツに対し、彼女は緊張と歓喜の余り言葉を発することもできなかった。


 その後何をどうしたか、熱に浮かされたシモーネの記憶は定かではない。気が付くと侍女たちが己の衣装を着せ替え、賓客の集う大広間へと連れていかれたのだった。


§


 城館の空に月輝く夜。華麗な衣装を纏う貴族たちの躍動は熱情と興奮に満ちていた。婚約を祝う舞踏会は華麗な弦樂団の演奏と陽気な笑いに満ちていた。

 老獪さを貴族特有の優雅な振る舞いで覆い隠し、獣の如き本性は片鱗も窺わせず華麗な舞踏に興じる人々。例え利害の絡み合った仮初の縁ではあっても、今この時を楽しむ余裕がどの客人にも溢れていた。


 それ故に、主役たる若き二人がひっそりと席を外しても、敢えて苦言を呈する者はいなかった。

 


 城館の一角、ひんやりとした静けさが漂うそこで、二人は身を寄せ合い熱い接吻を交わしていた。その影法師は内庭の石壁に映し出され、溶け合うように一つに合わさり、熱情を伴い妖しくうねる。

 シモーネの豊かに盛り上がるドレスの胸元にまばゆく輝くのは、ペンダントに嵌め込まれた金剛石ダイヤモンド。ハインツの愛の証、終生の誓いの光────。


 熱い息を漏らすシモーネに一時の不安は既になく、婚約者の熱い抱擁に身を任せただ至福の感覚に陶酔するのみであった。火照った肌は紅潮し、両目には涙を滲ませて愛おしき婚約者の名を幾度となく呼びかける。ハインツもまた一層に強くシモーネを胸に抱き、しなやかな身体の温もりを確かめんと両腕を這わせる。


 涼やかな夜風が二人を祝福するかのように柔らかく吹き抜けていく。何一つ、怖いものなどない。何者にも侵されぬこの聖なる瞬間に、幸福は永遠のものとなる────。揺ぎ無きその感触を、神の与えたもうた福音を、シモーネは確かに魂の深くに感じ取った。感極まり涙ぐむ彼女を、ハインツは優しく抱きしめる。


 月を戴く闇の中に、いつしかしめやかな歌声が響いていた。

 

────稀代の高音ソプラノ歌手のそれすら届かぬ音域。言葉を持たぬ妖しき旋律。苦しみに悶え、哀しさにのたくる様な切なく甘い響きは、聞く者の魂に深き波紋を生じ、遠い意識の根源に忘れ去った何かを揺り動かす。


 これは……どこかで聞いたような…………。  


 幸福と安堵と疲労の極度に入り混じった感覚の中で、シモーネはぼんやりとそう思った。それが地獄の始まりだとは知る由もなく────。

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