第二話 凍れる陽光
ザインベルグ侯爵令嬢シモーネは暖炉前の椅子で物憂げな視線を窓辺に投げかけていた。
ゴドヴァル伯爵の長子ハインツ────幼馴染でもある彼との婚儀を控え、幸福は今や目前に、確たる輝きを放っている。にも関わらず、一抹の不安が彼女の胸に不穏な影をちらつかせていた。
時折、不意に意識の深き淵から蘇る銀髪の娘…………。
記憶の闇の彼方から、己に手を伸ばす朧なる影。銀の髪を靡くに任せ、哀愁漂う声が寒々しくこだまして。
断片的な記憶の中からふと蘇る、彼女が口にした不吉な言葉。そう、あれは幼かりし頃のこと────。
§
雲一つない澄み切った青空の下、広々とした庭園に着飾った人々の姿があった。ベルモント王国に隠れもなき名家、ザインベルグ侯爵とゴドヴァル伯爵の親睦を兼ねた園遊会。
豪奢な装いの、様々な年齢の貴人たちが集い、酒杯を酌み交わし、楽団の演奏に合わせ舞踏に興じている。
その華やかな談笑の輪から離れた小川の
いずれも十になったばかりとは言え、シモーネは一輪の花と咲く素質を既に表していたし、ハインツは貴族の継嗣たる片鱗を漂わせていた。
二人は互いの中に未来の輝きを見て取り、心は数年後に訪れるはずの幸福に満ちた瞬間にまで飛翔する。それはまだ幼きシモーネらにとって白光に満ちた不可視の領域であり、それ故に却って心を惹きつけて止まぬのである。
胸の高鳴りを抑えきれず、さりとて自らの想いを伝えるしかるべき言葉を見つけられぬ二人は、ただ黙って見つめあい、頬を赤らめて指先を絡めるであった。
その時、若葉の香り漂う宝石にも替え難き時が突然に終わりを告げた。
ふっ、と通り抜けた冷風に誘われたか、灰色の雲が空全体を瞬く間に覆っていく。周囲は
何者かの人影が差し、誰やあらんと目を向ければ、銀色の髪が氷水のように
ふわりと流水に降り立つ娘がシモーネに歩み寄る。黒く艶光るその靴が水面を踏む度に、波は悶えるように軋みを立て白霜を上らせて凍りつき、娘の入水を拒んだ。銀髪の
浮世離れした孤影にシモーネは我を忘れて見入る。抱き寄せんばかりに迫りし娘。その青き瞳の、宝石の如き輝きにシモーネは強い眩暈を覚え、ふらりと立ち眩む。軽やかな腕に抱き留められたシモーネは、耳元に囁きかける声音を夢見心地に聞いた。それは遥かな異郷の謡にも似て、シモーネを陶酔させずにはおかなかった。
「いつか、運命の歯車があなたたちを────」
その瞳に見たこともない複雑な模様が浮かび、水車のように回転し始める。
「再び巡り合わせ、繋ぎ留め────噛み砕くその時に」
抱きかかえるようにしながら、シモーネの唇に指先で触れる。仄かな薔薇の香りを漂わせながら。
「また会いに来るわ────」
柔らかな囁きと共に、彼女は淡雪の如く
シモーネが我に帰った時、世界のありさまは常の如く。清水は透明な渦を立て流れ行き、爽やかな風が草花の香りを運び、フランツは相変わらずシモーネに熱い視線を送り、背後からは賑やかな騒めき。最初から銀髪の娘などいなかったかのよう…………。
§
あれから七年。時折思い出す、銀髪の乙女の姿。今や殆ど忘却の淵に沈んだそれた彼女の言葉の断片が、澱んだ記憶の底からふわりと浮き上がることがある。一体己はあの時何を言われたのか。その全容を思い出せば、この不安も消えて無くなるのだろうか。
園遊会での出来事をフランツに打ち明けるべきか。彼は笑い飛ばすかも知れないが…………。思索にふけるシモーネを現実に引き戻したのは、侍従の一人が婚約祝賀会の来賓の到着を知らせに来た時であった。
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