第二章 霧城の哀歌
第一話 湖畔の雪
針葉樹林に国土の半分を覆われたベルモント王国の北方、ベルーカ地方。木々生い茂る丘の頂にはザインベルグ侯爵の住まうベルーカ城が聳え、領内の町や村を眼下に収めていた。辺境の地にあっては隣国との紛争は絶えず、城主は幾度も変わり、王国と隣国の統治を交互に受ける歴史を歩んできた。
一人の老人がテラスの椅子に腰を降ろし、冬枯れの森を眺めるともなく眺めていた。皺だらけの服に
彼はそこで読書をするでも客人と語らうでもなく、時折何かを思い出しては虚空に向かって激しく
もしも彼を身近に見る者がいたならば、過去の残酷な仕打ちに独り虚しく抗うことしか彼のなすべきことは残されていないのだ、ということが明らかであったことだろう。しかし、森の中にひっそりと隠れ住む、老い先短い孤独な男の葛藤など一体誰が知るであろう?
彼のこの日課は、厳冬のさなかにおいてすら変わることがなかった。嵐や吹雪を除いては、日々の殆どを
そんな日々に異変が起こったのは、とある真冬の午後を半ば以上過ぎた
いつものようにテラスで物思いに
女の声だった。哀切に満ちた、胸を掻き毟りたくなるような旋律。驚愕の表情を浮かべた老人が、その方角に向けて走り出す。枯れ木の隙間を吹き抜ける風の音と重なり、その声は寒気に溶け染み渡っていく。
途中何度か転びながらも辿り着いたのは、木々に囲まれた小さな湖の畔であった。震える両脚は体を支えることもできず、濡れた土に膝を突いた。
「そ、その、歌を、どこで…………!!」
息を切らしながら涸れた喉で叫んだ彼に、人影がゆらりと振り返る。
若い娘だった。
これほど非現実的な光景をかつて目にしたことのなかった彼が、娘を凝視したまま硬直してしまったのは無理からぬことであった。いかなる芸術家も、老人の
人とも思えぬ美しき娘の淡紅色の唇がそっと開き、先刻耳にしたのと同じ声で囁く。
「
「…………なに?」
老人はびくりと全身を強張らせる。膝に浸みる雪の冷たさも忘れて、娘の言葉に大きく心揺さぶられる。
一歩、彼女が歩み寄る。その小さな足音が死を誘う音にも思われて、老人は身を縮こませて視線を逸らせた。間近に迫った彼女から、季節にそぐわぬ甘い薔薇の香りが漂う。その静かな声が冷えた空気を震わせた。
「あなたが知らぬはずがない────あの歌が何なのか」
娘は後ろ手に上体を折って老人を見下ろし、歌うように言った。
「ヴィル・バーデン────かつて世に聞こえし宮廷作曲家────」
老人は目を見開き彼女を見上げ、無言のまま唇を噛み締める。その胸中に、様々な思いが交錯していた。
この娘はなぜ私の事を知っている? 引退して既に十年経つ。私がここに隠遁していることなど誰にも話したことはないし、肖像画など描かせた事もない。とは言え、小さな国のことだ。私の素性をどこかで聞きかじったのかも知れぬ。
私が歌の事を知っているだと? そうだ。だが、なぜこの娘がそれを? 今更こんな老いぼれを捕まえて一体何の積もりか。怒りと共に湧き上がってきたのは、言い知れぬ恐怖であった。
「き……き、君は何者だ…………?」
両拳を握りしめ震え声に問いながら、老人は腰砕けのまま退いた。服が雪の混じった泥で汚れたが、気にする余裕もなくなっていた。老い衰えた彼には、今や娘一人に力で勝つことすら覚束ないのだ。
娘は両の目を細め、唇の端を歪ませる。
「ねえ、考えたことはある? この歌が世に溢れたら────」
白い掌で舞い落ちる雪を受けた彼女は、凍れる瞳をきらきらと輝かせてその溶ける様を見つめる。
「人はきっとこの雪のように────」
その意味を悟った老人の顔が蒼白になり、絶望の叫びが発せられる。狂ったような老人の金切り声は虚しく宙に散り、霞の如く消えた娘の儚き忍び笑いが、雪に浸み込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます