終話 永久の闇に眠れ

 百数十年後────


 今や魔城は瓦礫の山と成り果て、白くまばゆき暁の光にその身を浄化されんとしていた。


 この地を呪い続けた暗黒の力は、法王の祝福を受け送り出された竜騎士一団によってようやく打ち砕かれた。さしもの魔の眷属も、聖剣に選ばれし竜騎士と、彼を支える魔術師や歴戦の兵士の前に、激戦の末冷たい骸と化した。


 城内の至る場所には、見るも汚らわしき巨躯の甲虫どもの朽ち果てた姿。討伐隊もその殆どが落命し、血肉を散乱させて骸を曝し、白き廃墟を赤黒く彩るのであった。




 そして彼らと共に塵に帰らんとする巨躯を伏せたるは、青き鱗に覆われし偉大なる種族。


竜種ドラゴンまで担ぎ出すなんて────」


 銀髪の風になびくに任せ、少女は息絶えんとする竜にそっと身を寄せる。


「哀れな────かように誇り高き種族が────」


 彼女の頬を伝い流れる涙が竜の鱗を濡らす。そっと竜の額を撫でるさまはさながら女神の慈愛に満ちて、その瞳に柔らかな青き光を発した。銀髪の魔女が見せる神秘の御業みわざは、流血の苦悶にあった竜の魂を揺ぎ無くも安らかな、永久とわの眠りにいざなってゆく。



 暁光の中にはまた、竜の騎手たる死せる騎士と怪物王女ミレイユが折り重なるようにその身を横たえていた。



 真っ白な陽光の中に流れる白銀を認めたミレイユは、胸に突き立てられた聖剣をやっとの思いで引き抜く。凄まじい苦痛がその傷口に走り、ミレイユは暫く口を利くこともできなかった。しかしその聖剣はミレイユに掛けられし呪詛を打ち破り、彼女の自我を狂気の淵より呼び起こすことに成功していた。


 金髪ブロンドを竜騎士の血に染めて、ミレイユは茫然とした眼差しを魔女に向ける。聖剣によって満身創痍のていであっても、百年にわたる闇の力はなおその傷を癒やしていた。


 そう、実に百年にわたる悪魔の所業、無慈悲なる飽食から我に帰ったミレイユは、ただ己の罪深さに眩暈を覚えるほどの恐れを抱いた。時を超えた膨大な死者の怨嗟が、黒い霧となって目前に迫ってくるように感じられたのだ。


「メイディア…………なぜかように…………」


 震える身を掻き抱いて無意識に発した問いは、己にここまでさせたメイディアの憎悪の深さを理解しかねたからである。だが────


「ウッフフフフフ─────アッハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!」


 騎士と虫どもの屍が転がる中で、留具が外れたように笑い始める銀髪の娘。懊悩の欠片も見せることなく、ただ愉悦に浸り切っている。


 身を震わせて狂笑する娘を唖然として眺めていたミレイユだったが、やがて狼狽が怒りに転じ、王女たる気位をようやく取り戻してその理由わけを尋ねた。だが、少女は怯むことなく告げる。



「だって、メイディアは────」



 その指が己に向けられるのを、ミレイユは死刑囚の如き心持で見つめていた。



「あなた────なのよ」







 静寂の中に響いた言葉を、ミレイユはすぐには理解できなかった。心揺さぶられ、同時に身体を硬直させたミレイユを、青く輝く双眸が見下ろす。罪人の首を切り落とす死刑執行人のように、どこまでも冷酷な光を湛えて────。


「見せてあげる────あなたの、真実────」


 娘が伸ばした手を、ミレイユは見つめた。心は今や空っぽで、流すべき涙も流れない。枯れ切った心はその手を救い主のそれと間違えたか、無意識にミレイユは腕を伸ばしていた。生ける屍と化したミレイユにも、娘の手は氷のように冷たく感じられた。





『アンドラージュ・イシュトヴァーン!! 必ずやお主の一族を根絶やしにしてくれよう!!』


 オルサーグ王城地下で、魔女メイディアは一人叫んだ。美しかった漆黒の髪は乱れ、魔力を酷使したためにすっかり衰えた容姿で目ばかりぎらつかせながら、彼女はあらん限りに呪詛を吐く。


『必ずや生まれ変わりてお主の一族を根絶やしにしてくる。この恨み、王国滅ぶまで続くと知れ!!』



 アンドラージュに発見された時、彼女は既に屍となり果てていた。しかしその相貌は憎悪の余り醜く歪み、両眼には突き刺さんばかりの炯々とした光が宿っていた。




「憎しみに囚われたあなたは」


 娘が背後から、両の肩に手を置いて囁く。


「六人の赤子を贄となし、この世に転生することを誓った」


 ああ、それは────。ミレイユの心の中で、幾つもの記憶の断片が符合していく。


「蘇ったあなたは────ベルナートまで殺した────」


 時が、情景が目まぐるしく変化する。眼前には馬を降りたベルナート王子が叫び声を上げている。


『この身に流れる血が例えオルヴァーンのものであろうと、私はオルサーグの王太子だ。復讐など考えられん!!』


 彼の前にいるのは────


「メアリ!?」


「然り」


 銀髪の娘の、どこか笑いを含んだ囁きが背後から響く。


「あなたの分身、魂の片割れ。若きメイディアのありし日の姿────」


 目前でベルナートが無人の甲冑に拘束され、息絶えていく様をミレイユは正視に絶えぬ思いで見続けた。顔を背けることがどうしてもできなかった。何故なら、死にゆくベルナートが見えぬはずのミレイユを見つめていたからである。


 そしてミレイユは知っていた。かつて見たはずのないあの鎧がオルヴァーン家に代々受け継がれてきたものであることを────。それが意味するところもまた明白であり────。



「私が……私が兄上を…………」


 その情景を、己が実際に見てきたかのように


 兄ベルナートは、オルヴァーンの血を引きながら復讐を拒んだ。一族の継承者の証たる黒鎧を見せてもその意思は変わらなかった。復讐に目が眩んだメイディアは、計画に邪魔であるとしてベルナートの殺害に至ったのだ。彼がオルヴァーン一族最後の生き残りであるにも拘らず────。


「それだけではない。あなたは────」


 娘の囁き通りの情景が繰り広げられていく。国王を挑発し、己の姿を錯覚させ王妃の殺害に至らしめた魔女メイディアの姿。ローブを纏ってはいるが、間違いなくその姿はメアリであり────


 そうだったのか────。ミレイユは思った。メアリが幻影に過ぎないならば、なぜ母の死を己が知りえたのか。己の半身が殺させたからだ。


「そして────」


 国王が倒れた瞬間が目前に再現される。王はミレイユを通してメイディアの姿を発見したのだ。まさかミレイユの中に彼女が潜んでいると思わなかった王は、余りの衝撃に憤死したのである。


 呆然とするミレイユの肩に頭を預けるようにして少女は言った。


「全てはあなたの思惑通り────祝福するわ、メイディア」


「違う……我が身にメイディアは宿れども、私はミレイユ……こんなこと望んでなどいない!!」


 笑い声を漏らして娘は目を細める。


「されどこの百数十年、殺しに殺したり────その数十万は下らず────」


 あたかも至福の追憶に思いを馳せるかのようにうっとりと目をつむる娘。


 ミレイユは悲嘆と悔恨と行き場のない怒りに包まれ、再び狂気の波に押し流されんばかりだった。胸の内にこびり付いた罪過は、幾度もせ返せど吐き出されることはなく、ミレイユは髪を掻き毟っては嗚咽を漏らした。


 信仰の道に、人の徳にもとる百年に及ぶ我が忌まわしき、無慈悲かつ野蛮なる行い。ルスマーンの敵兵のみならず、自軍の兵まで貪り食らった。罪のない市井の人々まで毒牙にかけ、問答無用で殺してきた。幸福に満ちていたはずの夫婦と子供たち、穏やかに暮らす老人たち、生まれ落ちたばかりの赤子に至るまで、魔物と化して犯してきた数々の殺戮────────這い蹲り、涙を地に流すミレイユの胸に一つの疑念が湧いた。


「あなた……何者なの?」


 言葉にして、ミレイユは改めて混じりけのない恐怖が心を支配していくのを感じた。乱れ髪の隙間から娘に視線を送る。この酷薄さはメイディアの比ではなく、その力は人の及ぶところではなく。この者がメイディアでないのなら……。


 ────


「忘れてしまったの? あなたが私を呼んだのに────」

 

 少女は目元を歪め、そっとミレイユの耳元に唇を寄せる。


 

「我が名は────シルヴィア・ル・フェイ」




 その名が紡がれるが早いか、空は瞬く間に黒雲で覆われ、暁の光が閉ざされていく。晴れやかな空が青黒く濁り、鳥の鳴き声は聞こえず。湿った大気に青紫の閃光が走り、くぐもった雷鳴が鳴り響いた。



 ああ、ここはかの死せる庭園…………。


「私が────憎い?」


 感情の読み取れぬその瞳。ミレイユの胸に灼熱の如き感情が急速に膨らみ、自ら耐え切れず血よりも赤い飛沫を上げて破裂した。


「憎い……憎いわ……でも……他の誰よりも、この私自身が、愚かな己が、誰よりも憎い!!」


 最後は嗚咽の混じりる絶叫となり響き渡る。止めどなく零れ落ちる涙をそのままに、突っ伏したその身を震わせてミレイユはただ泣き続けた。


「闇に迷いし王女ミレイユ────」


 冷たいそよ風に揺蕩う白銀。


「その嘆き、苦しみこそ────」


 薄青色の瞳が燐光を放ち、その囁きは歓喜に溢れて。


「その血を────至高たらしめる」


 そっとミレイユを押し倒すシルヴィア。間近で見つめ合う二人の乙女。触れ合う髪の金と銀、交錯する瞳の碧と青。ミレイユの心に哀しくも奇妙な諦念が満ちていく。己が最期を捧げるは、このかいぶつこそ相応しい。


 もはや我が心は己が罪に耐えられそうになく、これ以上生きたとてただ狂うのみ。この懊悩から、我が罪過から、忌まわしき呪詛から逃れんと────すべての愛おしきものを自ら死に至らしめたミレイユとしての魂が、自らの破滅を望んでいた。


 ────我が魂の消滅をもって、今生のあがないとなす。


「殺して…………」


 シルヴィアがこれから為さんとするすべて受け入れんと、ミレイユは瞳を閉じた。その頬に白く冷たい指が触れ、髪を優しく撫ぜ下ろす。首筋に走る痛みまでもが救済に至る聖痕であると信じ、ミレイユは抗うことなくシルヴィアに身を預ける。



 薄目を開けば彼女のひたすらな吸血の姿。銀の髪と、かぐわしき薔薇の香り。深紅に染まりし唇の荒々しい接吻を受け、ただ己を強く抱きしめる彼女の細き身にミレイユもまた抱擁を返した。


 失血とともに、ミレイユの心にかつてない安らかな暗黒が広がっていく。怪物として在りし膨大な日々に、人として生きた頃にさえ感じなかった平穏の時────。全ての記憶が虚無に帰ってゆく。



 

 暗黒の淵で、ミレイユは驚愕に目を見開いた。兄ベルナートがそこにいた。これが幻影であっても構わない。嗚咽混じりに、膝を屈めて許しを請うミレイユ。だがベルナートは、穏やかな微笑のままミレイユに手を差し伸ばした。ミレイユはその手を、両の掌で大事そうに包み込んだ。




 物言わぬ茨が横たわるミレイユを包み込み、その骸を茂みの内に隠してゆく。その死顔を、シルヴィアは無表情に眺めていた。そして彼女の腐肉を滋養とし、いずれ咲き誇るであろう薔薇の花々を想起して、静かに微笑むのだった。


    〈第一章 魔城の伝説 終〉

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