第七話 狂気の果てに

 夜────。


 季節にそぐわぬ冷えた空気が流れていた。城外は闇に溶け込み、月明かりさえ呑み込む黒い山影が眼前に迫り来るようだった。その息苦しいまでの陰鬱な世界に、ミレイユはこのまま身を投げたくなる誘惑に駆られ、城館の露台バルコニーに足を伸ばしていた。


 湿り気を帯びた風が名も無き亡者たちの怨嗟の如く唸りを上げ、お前も我らに加われとばかりにミレイユの金髪ブロンドに闇色の鉤爪を立てて流れていく。


「いっそこのまま風になってしまえば…………」


その唇から囈言うわごとのような呟きが漏れる。


『メアリはいない』


 エマの言葉には悪意もなければ嘘もなかった。かかる剥き出しの真実からいかにして逃れられよう。あの後、誰にメアリのことを聞いて回っても困り顔で口をつぐむ者ばかり。ミレイユはその表情に兄の面影を見出していた。


 唯一、ミレイユに親身でいてくれた兄ベルナート。私によく困ったような表情で微笑んで、優しい言葉をかけてくれた兄上。きっと彼は私の言動に本当に困惑していたのだ。頭のおかしな妹をどう扱ったらよいものかと…………。きっと父も母も、そして城内の誰もが私の輿入れを厄介払いのように思っていたことだろう。

 

 侘しいため息とともに虚しき胸の内に広がるは黒雲の如き悲哀と諦念と。


 それでも、この胸の内に熱く湧き上がろうとする気持ちは何だろう。王女という立場を全てかなぐり捨てて、ただ思いのままに声を上げて泣き叫べば楽になれるのだろうか────。



 城の外に幾つもの炎を認めたのはその時だった。暗黒に閉ざされていたはずの山の斜面────。城下の村や町とは反対側の、奥深い山肌に、松明と思しき無数の明かりが見える。


 不審に思った次の瞬間、森の随所から巨大な火の玉が城に向かって飛来してくるのを、ミレイユは現実のものとは思えない気持ちでただ茫然と眺めていた。それらは城館や側塔に鈍い音を立てて衝突しては四散し、火炎を撒き散らしていく。


 その時には守衛のみならず、常備軍や近衛兵もこれに気が付き、あちこちで怒号を上げながら焦げ臭い黒煙が立ち込める中を駆けずり回っていた。


 何が起こっているのかは明らかだが、いったいどこの誰が攻撃をしかけているのか、ミレイユは忙しく考え始めた。ルスマーン帝国? ありうる。それでは己との婚姻は破棄ということか。あるいはこの縁談そのものがこちらを油断させるための罠であったかも知れぬ。


 しかし、異国の者がこの厳しい山脈を越えて、山の随所にある見張りの目を出し抜いて接近することは可能だろうか? 


 可能だろう。味方の裏切りがあれば。ピレリー山脈の警邏けいらを任されているレビラムス侯爵は野心家と聞く。ルスマーンに内通しその軍勢を手引きすることは、彼ならば可能かも知れない。


 冷静に考えながらも、ミレイユは悲しき我が人生もこれで終わるのだと思った。ミレイユは無論戦術には疎かった。だが、この有様では勝ち目は薄いだろう。所詮は小国の城だ。立て籠もったところで食料や水は長く持たず、兵もいずれ力尽きるだろう。


 いずれ負けると分かっているのなら、最後にもう一度父上に挨拶をしておこう。そして兄のすぐ側で命を絶とう。よもや父上もこの期に及んで許さぬなどとは言うまい。


 父の部屋に向かったミレイユは、そこで宰相を始め近衛隊長、将校らの姿を認めた。父は大元帥の正装に着替えながら、彼らが早口でまくし立てるように状況を報告するのに任せていた。そして国王がミレイユに視線を向けたとき、彼の目が大きく見開かれる。


 ミレイユもまた、目を見開いていた。父のすぐ側から彼の顔を覗き込んでいるのは────。


「メイディア!!」


 なぜここにいる? 


 ミレイユがそう続けようとした瞬間、父が身体を大きく痙攣させるのが見えた。白目を向いて点を仰ぎ、喉の奥から迸るような呻き声を上げ、唾を噴き上げて倒れていく。


 その一瞬の光景が、大河の流水の如き緩慢さで移ろっていく。反射的に駆け寄り父の体を受け止めたミレイユは、父を涙混じりに呼び続けた。


 その甲斐もなく冷たくなっていく父を横たえた彼女は、己を見下ろす魔女を睨み付ける。世界はすでに色彩を失い、周囲の側近たちも人形の如く固まり微動だにせず、城外から響いていた騒音もぴたりと止んでいた。


 まるで世界が、この二人をおいて活動を停止したかのように────。


「父に何をしたの?」


 娘はただほのかな微笑を浮かべるのみ。ミレイユの抜き放った短剣を見ても、彼女はたじろぐ様子を見せなかった。それどころか、刃の切っ先に向かって一歩、また一歩とミレイユに歩み寄って来る。


 ミレイユは退かなかった。戦意や誇りのためではない。緊張の余り身体が硬直して動けなかったのだ。目前まで迫った魔女は、白く細い指をミレイユの手に絡めた。


「人を刺すなら────」

 

 彼女はミレイユに言った。優しく諭すが如く────。


「刃を水平に────」


 ミレイユの手頸を回す。


「肋骨の隙間から、中心よりやや左に────」


 切っ先を自らの胸に押し当てた魔女は────。


 グサリ、ヌチャリ、ズシャリ、その全てが混ざったような音を立てながら、己の心臓に自ら刃を貫かせていく。彼女のまとう濃紺の簡素なドレスに、黒い染みが広がっていく。


 短剣を握りしめるその掌に、柔らかな肉を抉る感触が、そしてついには娘の心臓の震えまでもが刃を通して伝わってくる。その余りの生々しさにミレイユは危うく失神するところであった。今すぐに短剣から手を放して逃げてしまいたいのに、魔女のひんやりとした死体のような指先がそれを禁じていた。


「あ……あっ……」


 悲鳴ともつかぬ短く小さな声がミレイユの唇の間から漏れていく。


 ミレイユは今初めて、人の形をした何者かを消し去ろうとしている。その行いそのものが、ただひたすらにに恐ろしかった。


 刺し貫いているのは憎き敵であるにもかかわらず、ミレイユの瞳には我知らず涙が溢れていた。何故なのか己自身にも分からない。ただ悲しくて悲しくて、涙が溢れて止められなかった。


「この悪夢には──────続きがある」


 少女はその唇の間から赤黒い液体を零しながら、ミレイユに腕を伸ばして金髪に指を絡め撫で下ろしていく。顔を寄せた娘の吐息が耳元にかかり、ミレイユは僅かに身を捩った。一体どちらが追い詰められているのか、ミレイユには判然としなかった。


「教えてあげるわ────血 の あ じ を────」


 ぐい、と顎を持ち上げられ、致命傷を負ったとは思えぬ力強さで娘に引き寄せられたミレイユは、次の瞬間には抵抗する間もなく口付けられていた。心身を衝撃が貫き、ミレイユの身が小刻みに震える。


 少女の舌がミレイユのそれを捉え、ねっとりと弄ぶ。背徳的な甘い感覚が全身を駆け巡る。娘の口中に溢れる濃厚な血の匂いには、いつか嗅いだ腐り落ちる寸前の果実の香りが混じっていた。息苦しさとは裏腹に、全身が芯から熱く火照り、うねりとなってミレイユを蕩けさせていく。悪魔がその贄から抵抗する意思を奪うかの如く、娘はミレイユを容易く翻弄した。


の望みが叶う時よ」


 息を荒げながら、朦朧とする意識の中でミレイユは唄うような囁きを聴いた。


「殺して、殺して、殺して、殺して、殺しつくすがいいわ────」


 ミレイユを正面から覗き込むその瞳が青く輝き、万華鏡の如く複雑な光の屈折がミレイユの心を、その奥底に眠れる何かを照らし、揺り動かした。


 ミレイユの魂が、己が内に秘めていた黒い波に呑み込まれていく。無意識の中で何かが弾け、無数の赤黒い飛沫を上げた。魂の最も奥まったところで、起こしてはならぬ怪物がむくりと鎌首をもたげる。


 世界の秩序が、己の理性が崩壊していく。これから訪れる変化がとてつもなく甘く、そして危険なものであることを承知の上で──。


 否、むしろそれ故にミレイユは闇の囁きに身も心もゆだねていた。悲しいのか嬉しいのか、苦しいのか楽しいのか、あらゆる感情がないまぜとなり、激しい奔流となってミレイユの中を暴れまわった。


 

 言葉が縺れ、意味不明な記号に置き換わっていく。周囲のすべてが理解不能な、ただそこにあるものに変わっていく────。


 その瞳は黒く濁り


 その金髪ブロンドは漆黒に染まり


 その背には黒き翼を生やし


 奇妙な、調律の狂った弦楽器のような声で





 ミレイユは


 咆哮を上げた。





 黒き王女の叫びは周辺の山々にまで響き渡り、そのおぞましくも哀しい音調は敵味方両軍の兵士、森に棲む大小の動物までもことごとく動きを止めるほどであった。


 傍にいた重臣らも、気が付けば王が倒れ、ミレイユと思しき黒髪の乙女が人のものとも思えぬ絶叫を上げていることに戸惑いを隠せず。ミレイユは彼らを瞬く間に殴殺し、臓腑を抉った。


 王女の口から禍々しい突起を生やした甲虫が何匹も這い出て来て、黒光りする羽根を広げ城内外へ飛び立ってゆく。虫は老若男女を問わず手当たり次第に襲い掛かり、肉を喰らい、生き血を啜り、みるみる肥え太って脱皮を繰り返した。


 甲冑に全身を固めた兵士までも、虫の強力な顎に鎧ごと噛み千切られ次々と絶命していく。その甲羅は矢をも通さず、剣も刃毀れ、槍の一突きも上滑りして傷一つ負わせること叶わなかった。


 その中に漆黒のドレスに身を包んだ一人の女の姿があった。彼女は逃げ惑う兵士を捕まえては首をへし折り、喉に喰らい付き、生き血を啜ったその次は、別の兵士の心臓を抉り出し、貪る様に咀嚼した。


 敵も味方も突然現れた第三の勢力に為す術なく食い殺され、あるいは力尽き斃れ、辺りは屍の山と化していく。勇敢な両軍の雄叫びが悲痛な絶叫となり果てるさまを、銀髪の娘が城の塔の頂上から見下ろしていた。青く輝く瞳に慈悲はなく、ただ冷淡な微笑を浮かべて────。




 こうして、ルスマーン帝国とレビラムス侯爵連合軍によるオルサーグ王城奇襲攻撃は、両陣営の全軍壊滅という誰も予想だにしえない結果に終わった。オルサーグ王国の悲劇はそれに留まらず、城下の町や村までもが恐るべき悪魔の度重なる襲撃を受け続けた。


 以来、一年と経たずかつて繁栄を誇った王国は消滅した。ルスマーン帝国は幾度か遠征軍を送り込んだが、その殆どが無惨に殺されて失敗に終わる。ここに、呪われた魔城の伝説が周辺国に知れ渡り、長きにわたって畏怖されることとなった。

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