第四話 忌まわしき記憶

「そなたが……そなたがベルを殺したのでしょう!!」


 目を覚ました王妃がミレイユに向けて言い放った第一声がそれであった。世継ぎであるベルナート王子の突然の死去という、余りに衝撃的な事態に動転されたのだろうか。


 ミレイユ自身は兄の死を未だ受け入れることが出来ずにいた。何かの間違いであって欲しい、せめておのが目で確かめんと城門で父を出迎えたものの、当の国王は驚くべきことに、一目たりともミレイユに王子の亡骸を見せぬと譲らなかった。今や遺体は納骨堂に納められているであろう。


 何かを必死に隠そうとしているようにも思われたが、ただでさえ疲弊している王を問い詰める訳にもいかず、ミレイユは大人しく引き下がらざるを得なかった。胸にわだかまりを抱いたまま、王妃にどう説明したらよいか思案にくれていた彼女は、起きぬけのその言葉に唖然とするばかりであった。


「出て行って!! 今すぐここから出てお行き!!」


 興奮状態の母を残し、ミレイユは一礼して無言で母の寝室を後にした。石壁の薄暗い廊下を抜け、王家専用の居間に向かった。暖炉前の椅子に身を預け、琥珀色の酒を煽り目をつむる。慕わしき兄を巡る思い出の数々が脳裏を駆け巡り、知らず涙が溢れ嗚咽が零れるのを抑えることができなかった。今はただ胸を切り裂かれるような痛みに耐えるのみである。


 騒がしい様子に気が付いたのは一刻も経ってのこと。侍女のメアリが慌ただしく駆け込み、ミレイユの前でひざまずき震える声で報告した。乱心した父上が母上を刺殺したと────。無意識に立ち上がったミレイユは、その足で王妃の元に急ごうとした。しかし意に反して視界は霞み、たちまち暗転していくのを感じた。




 誰かに呼ばれたような気がして目を開くと、ミレイユは荒れ果てた庭園に立ち尽くしていた。夜とも昼ともつかぬ青黒い空には分厚い雲が流れ、遥か彼方には幾つもの青紫の閃光が走る。真冬のごとく底冷えのする大気の中で、耐え難いほどの心細さを感じ我が身をかきいだく。

 

 視線を移せば、古めかしく荒涼とした佇まいの館がそびえ、その外壁は赤煉瓦で覆われてはいたものの、随所が欠け落ちていた。敷地の至る場所には古代の神話に登場する女神や英雄のものらしき彫像が転がっているが、そのいずれも首や腕が欠落し、苔やかびにその表面を侵されている。この退廃的な光景が聖なるものへの冒涜のように感じられて、ミレイユは眉を顰め視線を逸らした。


「『汝、汝自身を知れ』」


 突然の声にミレイユは身を竦ませる。周囲には痩せ枯れた樹木の残骸が、衣服を剥ぎ取られた老婆のように哀れな姿を晒している。その一角を回り込むと、そこには────。

 

 背を向けたまま、銀髪の娘が歌うように言った。


「あなたの神の言葉よね────」


 その言いよう、もしや神の教えに従わぬ異端、もしくは悪魔と契約せし魔女の類か。


「されど闇はこう答えるでしょう。『汝それを知らば、知りたることを恐れよ』と────」


 振り返りながら、彼女はミレイユの聞き知らぬ警句を口にした。聖典をものともせぬが如き言葉に、娘への恐怖がまたも込み上げてくる。しかし王女としての矜持が、二度にもわたりたじろぐことを許さなかった。


「そなたは何者か」


 震えそうになる両の脚に力を込め、威儀を正して名乗りを上げる。


「我が名はミレイユ。ミレイユ・イシュトヴァーン。オルサーグ王国の第一王女である」


 しかし娘は興味なさげに首を振った。水面に揺蕩たゆたう絹糸の如く、銀の髪は複雑な光と影の綾を織り成す。どこか物憂げに目を伏せた彼女が枯れた薔薇の花をそっと胸の前で撫でた。心持たざる陶器の人形のような面持でありながら、その手つきは長き時を連れ添い、悠久の時の彼方に失われし朋友を、愛する者を慈しむように────。


 否、むしろそれはミレイユ自身の胸中の投影であったろうか。いずれ人は誰かを失う。失い続ける。誰にも等しくそれは起こり、時に人の心を、そして数多の運命をも狂わせていく。


「……そなたは何が目的で……我が面前に現れるのか?」


 この娘には王女としての威光も権威も通じない。それでもミレイユは敢えて威厳を保とうとし続けた。


「全ては…………」


 彼女はいつの間にか背後に回り、抱き寄せんばかりに密着し耳元で囁いた。娘の身から仄かな薔薇の香りが漂ってきたが、それは熟れ過ぎて腐り落ちる寸前の果実を連想させる。


「あなた自身のこと…………」


 次の瞬間には、彼女は互いの顔が触れ合わんばかりに正面からミレイユの目を覗き込んでいた。その薄い青の瞳が万華鏡のように複雑に屈折した輝きを放ち、幾何学模様が歯車のように回転している。死神の囁きに、魂が吸い取られていくようだった。


「お行きなさい。禁断の過去への扉を抜けて────」


§


 暗くかび臭い石部屋に黒衣の女がうずくまっていた。年の頃は三十路にも届くまい。しかし美しかったであろう漆黒の髪は乱れ、唇は紫に渇き、頬はこけ、両眼だけは妄執と憎悪に輝いていた。


 女は今や殆ど忘れられて久しい呪文を唱えながら、短刀で石畳に円陣を彫り、太古の文字を刻んでいく。それが終わると、骨と皮ばかりの手で短刀を握り締めた。


「来たれ幻の魔女よ…………そして叶えよ、我が復讐を!!」


 叫ぶが早いか、思うさま白刃を己が首に突き立てる。血塗れの震える手で頸動脈を切断した刹那、血飛沫が勢いよく迸った。一瞬硬直したその身が少しの間震え、力尽きて倒れていく。流れゆく血潮が魔方陣を満たし、脈動するように波打ち始めた。

 

息絶えた女の前で、紫青の燐光を発する魔法陣。そして────



§



「ああ、何という…………」


 王妃エレオノーラが胸に抱きし赤子を見て悲痛な声を上げている。


「これは呪われた子だ。お前には悪いが、ここに置いておく訳にはいかん。修道院に預けるのだ」


 王妃に寄り添う国王の顔もまた、苦渋に満ちていた。


「でも……まだ赤子です……」


「ならん」


 一言で王妃の躊躇ためらいを切り捨てる王は覆い被せるように続けた。


「王国の命運がかかっているのだ。分かってくれ」


 夜、頬に傷跡のある老兵が赤子を籠に入れ、布を被せた。籠の中で運ばれる感覚が暫く続いた後、覆いが剥がされた。赤子を覗き込む老兵の顔は冷酷そのもので、彼は小声で「悪魔の子め」と呟いた。直後、ふわりとした感覚とともに、月を背に黒々とした城の影がぐんぐんと遠ざかって行く。続く激しい衝撃と共に意識は潰えた。


 この後、過去と同じことがそのままに繰り返された。次に目覚めた時も、やはり同じことが起こった。その次も、その次も。そして──────。


「ああ、何という……」


 今までと異なり、王妃の声は安堵と歓喜に満ちている。


「ようやく魔女の呪いは解けたのだ!! これこそ神に祝福された子だ。大事に育てようぞ」


王の声も同様に喜びに満ちていた。


「六人の子らは、健やかに育っているでしょうか」


「問題ない。報告は入っておる。皆元気に育っておるようだ。安心せい」

 

 以後数年、王女ミレイユはただ幸福と充足に身を任せて過ごすこととなる。だが彼女が五つになった頃、王妃との間に見えない亀裂が生じた。それは七月に入ったばかりの、庭園には色とりどりの花が咲き零れる時期だった。

 

 貴婦人を招いた午後の茶会で、皆が一張羅のドレスに身を包み、話に花を咲かせていた。白いクロスを掛けたテーブルには種々の甘菓子が並んでいたので、子供たちはそれらを頬張るのに忙しかった。ふと母たちの会話が途切れた折、ミレイユは何の考えもなしに尋ねてみたのだ。


「母上、どうして今度は私を殺さないの?」


 きょとんとした後、王妃の顔は見る間に強張っていった。恐ろしいものを見るような目でおのが娘を見つめ、青ざめたまま黙りこくった。ティーカップを持つ手が震えてソーサとぶつかり合い、中身が零れてドレスを汚した。王妃は無言のまま叩き付けるようにカップをテーブルに戻し、急ぎ足に庭園を後にした。


 以来、王妃はミレイユを露骨に避けるようになった。国王も何かを察してか、王妃をたしなめることもしなかった。幼いミレイユは何かと辛い思いをしたものだが、兄ベルナート王子は自分だけ母に溺愛されることに後ろめたさを感じてか、ミレイユには優しく接した。後に侍女となるメアリの支えもあり、父母の愛に飢えながらもミレイユは十七まで無事育つことができた。

 

 そしてその年、異教徒の軍勢が王国に迫る最中、敬愛する兄ベルナートが突然短い生を閉じたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る