第2話 真壁
僕が進学したのは、最寄り駅から二駅で辿り着く、坂の多い街の私立高校だった。実は滑り止めの高校だったので、進学する前は暗い気持ちだったけれど、入って三日もすれば気にならなくなった。入試なんてそんなものだ。
とはいえ、平穏無事な高校生活かというと、そういうわけでもなかった。
クラスメイトに真壁という女子がいた。谷中とは違い、手は出さない。代わりに口汚い罵りをした。語彙が豊富だった。盛り上がりすぎると、辞書で引かないとわからないような言葉を駆使してくるのだ。そこまでして何を罵倒するのかというと、これは決まっていなかった。はっきり言って何でもだった。彼女はやろうと思えばこの世の全てを呪うことが可能であるかのようだった。
態度を無視すれば、真壁は優秀な生徒だった。聞けば本当はもっとレベルの高い高校にいくつもりだったが、面接で落とされたのだという。それでもう、世の中全体が気に入らないようになってしまったらしかった。これは真壁本人が言っていたことだ。真壁は僕を高校時代の捌け口とみなしていた。理由は単純で、僕が彼女と同じ高校を目指していたからだ。それが唯一の共通点だった。
最初のうち、彼女は志望していた高校をさんざんに罵倒し、僕はそれをひたすら聞き止めていた。あまりの物言いに時には胸を痛めることもあったけれど、彼女が言いたいだけなのはわかってからは、じっと静かに聞いていることができた。
本当のことをいったから落とされた。やりたくないことをやりたくないといったからおとされた。過熱する罵倒は、学校の体制から大きく羽ばたいて同時代のクラスメイトや親世代、社会体制、引いてはこの国のあり方そのものにまで範囲を拡大していった。時には通りすがりの先生から注意されることもあり、いきりたった真壁を僕が制止した。谷中のときとは違い、手は出さなかった。ただ暴れ出そうとする彼女の前に立ち、先生に平謝りして、それから再び真壁の罵声を聞き続ける。それが僕の休み時間や放課後の過ごし方になっていった。
同じことをしている、という意識はあった。僕はまた、面倒な人間の世話役になっている。周りの人たちも僕のことを憐れみつつ、手は出さなかった。それが貴方の役割なのだと、遠目から押しつけてきていたし、僕はそれに抵抗をしなかった。気にしていても無駄だった。何もしない連中はいつまでたっても何もしない。そしてぼーっとしていたら、真壁が問題児になってしまう。僕が動くよりほかなかった。
「同情すんな」
とは、今度は真壁の言葉だった。敵意さえも同じだった。それなのに僕は例によって真壁を嫌いになりきれなかった。僕が彼女の罵りを聞いてあげることで、彼女の気が紛れるなら、それが一番良いことであるかのように感じていた。
真壁が僕のことをどう思っていたのかはわからない。人の心の内側がわからないのは世の常だ。それでも、これは勝手な解釈かもしれないが、嫌ってはいなかったと思う。その証拠に、その証拠に、真壁は時折僕を誘って東京へと遊びに行っていた。
小一時間はあるの上り電車の道中では、真壁は学校の中とはまるで違い、じっと静かに外を眺めていた。こちらから話しかけても、「うるさい」の一言もなく、生返事があるばかりだった。東京に到着してからも、真壁は僕にはあまり顔を向けず、ひたすら前を見つめて歩く。僕は足早な彼女の後を追い、時折行き先を提案する程度に留めていた。
行き先はいつも決まっていなかった。地元では見られないような高いビルを見上げてほとほと感心してしまったり、ガラス張りの綺麗な店に挟まれた忘れ去られたような神社を見つけたり、その都度何らかの発見はあった。真壁もごく稀に口を開いて一言二言感想を述べた。東京は一息つくこともできないくらい様々なものに溢れていて、どこまで歩いても僕らは来訪者という感覚が抜けなかった。その異質な空間を真壁は隈無く歩こうとしているみたいだったけれど、やがて体力が尽きて顔色が悪くなる。そうなったら僕の出番だ。ふらつきそうになる彼女をファーストフード店まで誘導して、頃合いを見計らって帰ることを提案した。彼女がまだ元気なときは早すぎると怒られるけれど、僕が彼女に慣れていくにつれ、怒鳴られる回数は減っていった。
僕と真壁のちょっとした旅路は、いつも翌日にはクラスメイトに知れ渡っていた。真壁は最初のうちは必死に否定をしていたけれど、そのうち何も言わなくなった。「まんざらでもない?」と訊いたら「死ね」と即答された。それが面白くて、僕は懲りずに同じ問い掛けを繰り返した。
とはいえ僕も、その行為がデートとは思っていなかった。真壁の後ろ姿を追いかけて散歩しているだけだ。真壁が同行者に僕を選んだのも、僕が学校の中で一番よく彼女と接していたから以上の意味はなかっただろう。それで十分だった。東京にいる間の真壁は眉間に皺を寄せず、口角泡を飛ばすということもなかった。無愛想だったけれど静かだった。そんな真壁の姿をできるだけ長く記憶に残しておきたかった。
あの日、僕らはちょっとした裏道を歩いていた。そこは確かに東京だったのけど、雰囲気が変わっていた。表通りの明るい街の雰囲気は消え失せて、言葉にならない鬱屈とした空気が堆積しているような感じがした。人は歩いていたけれど、疲れ切っている顔をして、あまり見つめていると睨み返された。
「何か聞こえる」
身体をこわばらせた僕の横で真壁が呟いた。耳をすますと、確かに通りのどこかから、ぱよんぱよんと不思議な音がしていた。膨らみを帯びたその音を頼りに、僕らは歩いて行った。路地を折れて、やや開けた場所に橋があり、その袂にパフォーマーが座り込んでいた。UFOのような楽器が膝の上に置かれていた。手で叩くと、例の音が響く。異国の楽器だと知ったのはずっと後でのことだった。
真壁はその楽器を凝視して、そのまま男に話しかけた。顔の半分を髭に覆われた男は無表情で真壁を見つめていた。日本語が不得手らしいと思ったので、僕は真壁の言葉を英語で伝えた。拙いものだったけれど、男は真壁の顔を見て、ひげもじゃの口元で弧を描き、分厚い掌を真壁に差し出した。真壁はおずおずと手を伸ばして握手に応えていた。
「英語を教えてくれ」
帰りの電車の中で真壁は僕に言った。真壁からお願い事されることも、そもそも彼女の方から話しかけてくれることも初めての経験だった。僕は驚きながら頷いて、約束を交わした。
平日になり、休み時間になると、僕は真壁の前の席に座り、彼女に英語を教えるようになった。教えるといっても、学校指定の教科書の復習が主だ。勉強する間、どれほど理不尽に思えるようなルールに対しても真壁は文句を言わなかった。それどころかとても集中して、質問までしてくるようになった。休み時間が途切れ、授業が始まり、また休み時間になり、やがて放課後になっても僕らはしばらく教室に残り、時には英語の教師に厄介になるなどして、暗くなるまで復習を続けた。
真壁の変わりように僕は正直戸惑った。真壁が変わろうとしていたことに気づかなかった自分を恥じた。その思いもあってか、徐々に熱を帯び始める真壁に、僕は半ば意地になって教え続けた。
卒業式のあった日の午後、真壁は海外に渡航した。僕にはひとこと、「ありがとう」と携帯電話越しに。それが真壁と交わした最後の言葉だった。後には何も残らなかった。
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