同情
泉宮糾一
第1話 谷中
少なくとも幼稚園児の頃は僕もまだ平穏な人付き合いができていた。
ときどき叫びたくなるような衝動に駆られたこともなかったし、家に帰ってから布団に包まって夜の更けるまで悶々とすることもなかった。規則正しく幼稚園に通って追いかけっこしたり砂場に山を拵えたりして毎日を楽しく過ごしていた。
もちろん記憶は相応に薄れているけれど、嫌なことや苦しんでいたことは楽しさよりもずっと残りやすいというし、当たらずとも遠からずだと思う。
だから、僕が自分のことを反省するようになった小学生のときから話を始めたい。
小学三年生の秋、僕のクラスに谷中という男子児童が転校してきた。両親の仕事の都合でやってきたとのことだったけど、詳しいことは憶えていないし、当時は気にしてもいなかった。僕を含めたクラスメイトの注目は新しい同級生そのものに集まっていた。多種多様な視線をどう受け止めたのか、彼は初日から血気盛んにあちこちに喧嘩を売り、あっという間に有名人になった。とはいえ彼も最初から暴力を嗜好していたわけじゃない。巻き起こる暴力はいつも、彼に投げかけられる罵倒が原因だった。
もしも谷中が一芸に秀でていたらこんなことにはならなかっただろう。顔立ちが整っていたり体育が得意だったりすれば初めから安泰だし、そうでなくてもコミュニケーションが得意でつねに聴衆を沸かせたり、無愛想であっても優しさが滲み出てさえいれば、だいたい平和に暮らすことができる。しかし谷中には優れた点はなかったし、特段軽妙でも優しくもなかった。それに加えて、彼は頭頂部に楕円の禿を抱えていた。これは絶大な効果を発揮した。たとえば先天的な何らかの病であるとしても、小学生である僕らの周りの人々の口をふさぐことは不可能だ。禿はどう見ても禿なのだ。それ以上でも以下でもなく、それ以下のものは存在しない。
一番良いのは無視することだが、困ったことにそれは谷中が一番苦手とする行為だった。誰かが禿と罵れば、谷中は必ず席を立ち、拳を握りしめて飛びかかった。担任教師がいくら制止しても、飛びかかる癖を止めることができなかった。
そこでいつも僕が登場していた。猛獣使い役としてだ。被害者予定のクラスメイトと谷中との間に僕が割り込むと、谷中は毎度ご丁寧に標的を僕にすり替える。谷中動きは単純だ。大ぶりな右フックは目で見てからでも避けられるし、腰が入っていないので軽く払うことでバランスを崩せた。手首を掴んで引けば谷中は簡単によろけた。その隙をついて僕は谷中の背後に回り、腕を後ろに回して固めた。これで谷中は無力化できた。ちくしょうという声も次第にか細くなっていきクラスは安堵に包まれる。僕は谷中をゆっくり戻す。勢いはすでに殺されている。谷中は赤い目をするけれど、もうその拳を僕に向けなかった。
いつもごめんな、とは担任教師の口癖で、口だけだった。他のクラスメイトたちも、やめろと口にしつつ僕に視線を飛ばすばかりだった。結局は僕が先に動いて谷中を止めていた。皆がそれを望んでいた。
勘違いしないでほしいのだが、僕は谷中が嫌いではなかった。クラスの全員から猛獣扱いされている彼のことがむしろ憐れに感じていた。
「同情すんな」
とは、谷中の言葉だ。何度も聞かされた。彼は明らかに敵意を向けて僕と対峙していた。それなのに僕は谷中から離れられなかった。
実のところ、谷中の家族は僕と同じ安アパートの隣の部屋に引っ越してきていた。彼らの部屋からはよく怒鳴り声が聞こえてきていた。谷中よりもずっと太い、谷中に似た声がずっと何かを喚いていた。日本語なのだけど、日本語じゃないように感じられた。酔っ払っていたんだ。その声に、女の人の泣き声がかぶさる。谷中の叫び声もときどき聞こえた。そんなものが聞こえてくる度に、僕の母親は溜息をついた。止めに行こうとする父親を引き留めたりもしていた。僕はただ黙って、味の感じない夕食を黙々と口に運んでいた。
明日もまた、谷中は暴れるだろう。僕はそれを止めなくてはならない。僕は必死に護身術や格闘技の動画を見て相手を無力化する方法を着実に学んでいった。
そうして年月が過ぎていった。
谷中への罵りは、中学校に入学した頃から急速に落ち着いていった。学区に従ったクラスメイトには変わり映えはなかったので谷中のことは全員が知っていた。禿に騒ぐ年でもなくなっていたし、禿に構っている場合でもなくなっていた。何しろ高校入試が目前に迫っていたのだ。人生のレールの始まりに乗り遅れれば、この国での生活は一気に過酷になると僕らは教わっていた。中学校生活は瞬く間に勉強づくしの毎日へと変貌していった。
それでいて谷中は変わらなかった。誰も彼のことを禿と呼ばなくなったのに、いつでも苛立っていた。そのはけ口がどこにも存在しなかったので、彼はずっとそのままイライラし、やがて学校をさぼるようになった。
谷中の評判は学校の中では聞かなくなったけれど、その代わり外から舞い込んでくるようになった。谷中は暴れる場所を変えたのだ。彼の素行の悪さは街の中でも有名になってしまった。
学校側としても、谷中対策に躍起になっていた。担任には屈強な男性の教師が宛がわれるようになった。しかし谷中に対するアプローチは素人も同然だった。どんな担任も、谷中を手で止めようとはしなかったのだ。全員、僕の足元にも及ばなかった。
中学校生活も終盤に差し掛かった、ある日の放課後、谷中を見かけたことがあった。駅前のコンビニの前で、バイクに跨がった集団に融け込みながら禿どころか髪も眉もそぎ落とした谷中がたばこを吸っていた。下校途中のクラスメイトたちはみんな谷中の方を見ないようにしていた。勝手に割けていくクラスメイトの波の合間で、僕は谷中と目を合わせた。谷中も僕を見つめていた。手にしていたたばこを尖った革靴の先で踏みつぶし、細い煙が棚引いた。
一瞬の静寂の後、先に動いたのは谷中だ。右のフックは、小学校の頃よりもはるかに鋭く攻めてきた。それを僕がスウェーバックで交わす。カウンターを打ち込もうとして、嫌な予感に身を屈めると、後頭部の上を回し蹴りが過ぎ去った。体勢を立て直し、腕を胸の前で構える。谷中のジャブとフックの連携を腕で払う。軽くはなかった。接触箇所には痺れがあった。懐かしかった。小学生の時分に戻った気がして、昂揚した僕は初めて足を使った。両腕で防いだ谷中が膝をついた。
「お前、相変わらず強すぎるぞ」
唾を吐く谷中は笑っていた。僕も鼻で笑って返した。クラスメイトたちの視線が集まるのを感じた。その頃には、教室内で谷中とやり合うこともすっかりなくなっていた。
「いけよ」
僕に気を遣ったらしく、谷中はそう言って僕に背を向けた。髪も眉もない集団の中に帰っていく彼に、僕は小さく手を振り、暗い夜道を帰った。
それが谷中と遭った最後だ。あとのことはわからない。アパートの部屋も、僕が高校へ進学するのとほぼ同時期に引き払っていた。唐突に関係が終わってしまったことは悲しかったけれど、谷中の胆力は僕も知っていた。だから今も無事であることを願っている。
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