第5話 進まない会話

 昼過ぎの夏は暑い。

 空に所々浮かぶ入道雲が影を作らない限り、田舎というのは日光が当たり続ける。

 僕はできるだけ木々の日傘を利用しながら、蒸し暑い夏の空気が広がる田舎道を歩いた。

 目的地は山の広場。

 家は何となく雰囲気が悪い。きっと兄さんが東京に帰ってしまったせいだと思う。母さんは兄さんといるのが嬉しくて、もう少しいて欲しかったらしい。そんな母さんの喜びの落差が原因なのだろう。

 その雰囲気に僕は耐えきれなかった。

 逃げたかった。

 だから僕は彼女に会いにいくという口実を使って、こうして外にいる。


「おはよ……っていう時間でもないか」


 山の階段を上がった先、昨日と同じベンチに彼女は座っていた。


「まぁ、昼過ぎだからな」


 僕も昨日座ったベンチに腰を下ろした。


「ここにいるとどうしても、時間が分からなくなるから困るよね」


 彼女は時計のない広場を見渡した。


「携帯とか持ってないのか?」

「私、そういうの苦手なの。大体全部壊しちゃうから、機械とかそういうのは触らしてもらえないんだ」


 申し訳なさそうに持ってないよというジェスチャーを彼女は言葉に加えた。


「今時珍しいな。持ってないなんて」


 純粋に僕は驚いた。

 今時の若い人というのは、誰しもがスマホなんかを持っているものだとばかり考えていたからだ。


「そう? 私の周りじゃ、みんな持ってなかったけどね」

「それっていつの時代?」


 思わずツッコミを入れる。


「ありがと、ツッコミ入れてくれて」


 ふふふと笑う彼女は、思惑通りに事が進み上機嫌だ。

 そんな彼女は「ねぇ」と言い、続けて手を招いた。

 どんな人でも、それはこっちへ来いというジェスチャーと捉えるだろう。

 僕はその一般的常識の元、彼女の元へと寄った。


「迷子の蟻って可哀想じゃない? 目が悪くて殆ど何も見えないのに、一生懸命誰かが通った道を探して巣に戻ろうとしてる」


 彼女の指差した先には小さな蟻が見えない箱の中に入れられているかのように、ウロウロと同じところを行ったり来たりしていた。


「まるで貴方みたい」


 揶揄うように彼女は笑う。


「つまり、僕はボッチだっていいたいのか」

「違った?」

「いや…………違わないけど」


 くだらない見栄を張っても仕方がない。 どうせ事実なんだし。


「ほら、見て。もがいてもがいて集団の中に戻ろうとしてる。そっちが反対側とは知らずに」


 あれが、僕か。

 まあ、言われてみれば似ているかもしれない。

 どれだけ努力しても、他人の輪の中には入れない。

 努力すればするほど他人の本性が見えて、どうしようもなくなってしまうのだ。

 無償の愛で世界が成り立っているわけじゃない。友達や社会という枠組みは、利益という力によって操作される。あいつは力が強いから仲良くしてれば良いとか、あの人はお金持ちだからちょっと優しくしようとか、どこかでそういう利益を求めている。

 そういうのが見えてしまうんだ。まったく、どうしようもない。


「ねえ」


 いつまでも迷子になった蟻を見つめる僕の視界に彼女は無理やり割り込んでくる。わざとらしく怒ったような表情の彼女は、どうやら御機嫌斜めのようだ。


「なんか、私だけ喋ってるよね」

「そりゃ、君ばっかり喋るからね」


 当たり前といえば当たり前だ。

 質問され、それを答える僕はどうしても受け身になってしまう。今思えば話の話題というのも、決まって彼女からだった。


「何かないの? 聞きたい事とかさあ」

「……聞きたいことか」


 僕は少し考え込んでしまう。

 聞きたい事がありすぎるんだ。多過ぎて、不思議な彼女に対する疑問というのが上手く頭の中でまとまらない。


「あーもう、考えない! ぱっと思いついたのを質問すれば良いの! 例えば、お互いの名前とか! えっと、聞いてなかったよね?」

「途中で不安にならないでくれ。僕も聞いたかもしれないと思うだろ」

「やっぱり、聞いてなかったよね。こういうのって大体初対面に聞く事なんだろうけど……出会いが出会いだったから」

「自殺、だもんな」


 改めて口にすると、僕はまだ死んでいないんだって現実を深く実感する。


「じゃあ改めて、私は夏田夏来」

「僕は……相沢優」

「そっか、優か。それじゃあこれからは優くんって呼べば良い?」

「好きに呼んでくれていいよ」

「じゃあ、優くんって呼ぶね。それで……優くんは私のこと、なんて呼んでくれるの?」

「夏田、さん?」

「えー、下で呼び合おうよ。せっかくなんだし」

「女子を名前呼びなんて、慣れてないから恥ずかしいんだ」


 そんな答えを聞いて彼女はため息をついた。

 恥ずかしい話だが、僕という今までの人生は女子との絡みが非常に少ない。


 自ら孤立しているから、当たり前の結果である。

 自慢する話じゃないが、男子にも下の名前で呼ぶ事は滅多にない。今でも下の名前で呼ぶのは、幼馴染のみーちゃんくらいだろうか。それでもあれは下の名前というより、あだ名が僕の名前のようになった感じだけど。


「もういいよ夏田で! 絶対に、絶対に夏来って呼ばせてやる……」


 ムカついた内情を抑えながら、そう決意する彼女はとても可愛くて、それでいて不思議だった。

 この人は一体何に燃えてるんだろうか、不思議だ。こんな僕との会話に真剣になったり、よく分からない事に力を入れる彼女はやっぱり、不思議だ。


「ていうか……また私だけ喋ってない?」

「夏田さんが喋らなきゃ済む話じゃないか?」

「それで、優くんは喋ってくれるの?」


 そんな夏田さんの言葉に、僕は戸惑う。


「多分」

「ああ、これ絶対喋らないやつだ」


 困ったように彼女は頭を抱えた。


「なにか、ほら。なんでもいいから思いついた質問とかさ、ないの?」


 思いついた質問、か。

「ああ、じゃあ」と口開ける。


「君はもしかして幽霊なの?」

「え、なに、その素っ頓狂な質問」


 驚いた表情で、彼女は笑った。

 もちろん真剣に彼女が幽霊だと思ったわけじゃない。

 人ならざる者だから本音が見えない、という理由なら僕が彼女に対して力を発揮できないことに納得できそうだったから、この質問をぶつけただけに過ぎなかった。


「なんでもいいって、君が言うから」

「言ったけどさ……流石にこんな質問が来るとは思わないよ」


 釣り上がる口角を抑えながら、笑い声を必死に抑えている彼女は、僕のことを直視できなくなり目を背けた。

 笑い過ぎて涙まで出ている。


「けどまあ、こんな自殺者が多いところじゃ、そう考えるのも無理はないかな。実際に間違われちゃう事もあるけど……私は幽霊なんかじゃないよ?」

「なら良かった。オカルトってあんまり得意じゃないから」


 僕だけでお腹がいっぱいだ。


「ねえ、私が本当に幽霊だったら、どうするつもりだったの?」


 興味があるのか、彼女は前のめりになる。


「逃げてたね。間違いなく全速力で」

「ひっどいな、それ。女の子にそんな態度は厳禁だよ?」

「女の子でも、幽霊だったら別腹だよ」

「人を食後のデザートみたいに言わないで」


 そう言って笑う彼女。

 いろんな事に笑えて、感情を晒すことの出来る彼女を見て、僕も小さく笑った。

 なんでもない会話が、きっと楽しいんだと思う。

 僕も、彼女も。


「あ、それで何か分かった?」


 突然思い出した彼女は、手をついた。

 彼女の言葉が指す何かというのは、それが前触れのない言葉だとしても、大体見当がつく。

 僕らがこうしてここにいる本来の理由なのだから。


「いいや、まったく。考えるにしても……手がかりなんて何にもないから」

「そうだよねえ……私も一緒」


 正直にいうと手がかりはある。

 だけどそれは本音を読む力という僕の能力で、誰にも伝えることが許されない呪いがかかったものだ。

 だから実質ないのと同じなんだ。

 あるのは何かが欠けてしまったという僕の認識だけで、その唯一の手がかりでさえ話を始めるスタート地点の材料に過ぎない。

 だから、いつまでたっても僕たちの話は進まないままだった。

 どんな小さな手がかりでも、分かればいいんだけど。


「まあ……ゆっくり考えればいいよ。死ぬまでにはまだ時間があるんでしょ?」

「そう、だな。まだ日はある」


 まだ……日はある。

 真夏の太陽が上がる夏休み。

 蝉の声がやけにうるさく感じたのは、そんな進展のない報告をした午後三時を回った頃だった。


 それからは無難な質問が飛び交った。

 歳が同じとか、好きな食べ物とか、雨が嫌いとか、冬が嫌いとか、あとは猫が好きとか、とにかくいろんな事を話して、同じくらいにお互いを知っていった。

 だけど相手の交友関係や学校について、僕たちはあまり追求しなかった。

 彼女も色々あるのだろうと僕は察した。高校生くらいの女の子がわけもなく真夏の山頂に毎日通っているなんて、不思議だなと今まで思っていたが、きっと、そういうことなのだろう。

 彼女が自分の学校のことや友達の事を一切言い出さなかった理由を、僕はそう勝手に解釈した。

 そんな質問タイムだったが、分かったことはかなり多い。

 例えば彼女は洋菓子が食べられないらしい。

 そして好物はどら焼きらしい。

 ちなみにつぶあんより、こしあん派のようで、僕はこしあんよりもつぶあん派なので、対立する僕たちは火花の散る激しい和菓子トークに花を咲かせていた。

 それはとても楽しい時間で、数分が一秒に感じるみたいに早々と過ぎていった。

 それほど夢中になっていたのだ。欠けてしまった不気味な感覚さえ、忘れてしまうほどに。


「もうこんな時間か」


 聞き慣れた五時の音がなる。

 それは僕たちの会話を断ち切り、座りっぱなしだった彼女をベンチから立たせた。


「時間ってこんなにすぎるのが早かったんだね」


 寂しそうにベンチを立った彼女は、いつものワンピースについたベンチの汚れを払いながらそう言った。

 楽しい時間というのはすぐに過ぎて行く。それは僕も彼女も同じらしい。


「楽しかった?」

「ああ、まあ、楽しかったよ」


 ぎこちない答え。

 そうなってしまったのは、会話を楽しいなんて思ったことなんて全然なかったからだ。


「そう、ならよかった」


 汚れを払い終わった彼女は、振り返って僕の顔を見つめ、同じだねと笑った。


「それで、明日も来るの?」

「……多分」

「死ぬために? それとも話すために?」

「多分……話に」

「そっかそっか」


 彼女は嬉しそうに笑う。そんな不思議な笑顔に僕は見入ってしまった。

 またその笑顔が見てみたい、また彼女と話してみたいと思いながら。


「それじゃあ、また明日。ここで」

「ああ、また明日。ここで」


 そう言って階段を降りる彼女は時々僕の方を振り返りながら、手を振っていた。

 夏の暑さがどうでもなるくらい、蝉の声が聞こえなくなるくらい、僕は彼女が小さくなって消えてしまうまで太陽と共に見守っていた。

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