第4話 上には上

 彼女と別れた僕はそのまま寄り道せずに家へと直行した。

 それは勉強の合間に抜け出してしまったことによる罪悪感と、彼女と気兼ねなく話せたことによる安心感と満足感によるものだった。

「ただいま」

 閉まっていた玄関の鍵は開いていて、それは誰かが中にいることを示していた。


「おかえり」


 そう返事をしたのは兄さんだった。

 僕と同じような容姿で、それでもすこし大人っぽい兄は僕の理想の人。なんでも出来る完璧な人。絶対に僕が追いつくことのできない人。


「兄さん、帰ってたんだ」


 玄関の扉を閉め、リビングのソファーでくつろぐ兄さんが目に入る。


「たまには実家に顔を出さないとな。母さんからのメールがうるさいんだよ」

「母さんは兄さんが好きだからね」

「嘘だろ。それはないって」

「冗談だろ」と兄さんは笑った。

 僕は小さな声で「本当だよ」と呟いた。

「まあ、お前が元気そうでよかったよ。学校の方はどうだ?」

「兄さんのせいで、僕まで完璧超人だと思われて大変だったよ」

 それを聞いた兄さんは、わははと笑った。

「そりゃ申し訳ないな。でもお前だって凄いだろ」

「そんなこと……ないよ。兄さんはどうなの、東京の大学でうまくやってる?」


 兄さんに褒められるのは嬉しいはずなのに、嫉妬という感情で僕は言葉を詰まらせた。


「普通、かな」


 渋った顔でそう言った。


「普通か、兄さんがそう言うならきっと、凄いことを成し遂げてるんだろうね」

「本当に、困るよな。好きでやってるわけじゃないのにさ」


 暗い顔をした兄さんはそんな雰囲気を読まないテレビの電源を落とした。


「どうしたの?」

「いや、ちょっと昔のことを思い出してさ……部屋に戻るよ」

「そう……分かった」


 何も見なかった。僕はそう自分に言い聞かせた。


「お前は俺みたいにはなるなよな」


 そう言って兄さんは二階へ上がっていく。


「なりたくても……なれないよ」


 悲しく暗い後ろ姿の意味を僕は知っている。

 見えているんだ。兄さんの本音の部分が。

 それを僕だけが知っているから、何も知らずに僕が凄いって言ってくる兄さんを責めることなんてできなかった。


 兄さんは完璧超人だ。

 母さんの厳しい教育で育った兄さんは、勉強や習い事以外許されない人生を送ってきた。

 遊ぶことは許されない。兄弟である僕でさえ、兄さんと遊んだ経験というのは全くなかった。

 朝起きて、寝るまで全てが勉強や習い事に埋め尽くされていたんだ。

 兄さんは悩んでいた。そして恨んだ。何故自分ばかり勉強しなくてはいけないのか、何故弟はあんなに遊んでいいのか。

 友達と遊びたい。ゲームをしたい。

 まだ子供だった兄さんは母さんという鎖に繋がれた地獄で生きてきた。

 自分の進む道を決められ、選択肢を与えられぬまま過ごして来たのだ。

 それが今の兄さんを作っている。

 一位を取り続ける。誰の前でも完璧であり続ける。優しい、賢い、冷静、無欲。そんな偽りの殻を被ったのが今の彼だ。

 それを知っているから、僕のことを何も知らずにああ言ってくる兄のことを責めることができない。どれだけ兄さんの無責任な発言に腹を立てても、それを彼自身にぶつける事は許されなかった。

 完璧を求められ続ける兄は自由な僕を羨ましいと思っているんだ。そして何もない僕は全て持っている兄を羨ましいと思っている。

 この世界は酷く残酷だ。

 体験しなければ、その人の人生の苦しさや楽しさというのは感じられない。感じられないからこそ、他人の人生を羨ましいと人は思うんだ。

 その人の苦労を知らずに。


 自室に戻った僕はベッドへと大きく横たわる。


「こんな力、いらないよ。本当に」


 ため息とともに出た言葉。

 本音が見えるということは隠したい真実が見えるということ。弱みだって握れるし、何だって見える。けど、それっていい事ばかりじゃない。

 兄さんのような、知ってしまってどうしようもなくなる事だってあるんだ。

 恨みたくても恨めないんだよ。兄さんの方が僕よりずっと地獄の様な人生を送っているんだって知ってるから。

 大きなため息を吐き続けながら、枕に顔を埋めた。

 だから、だと思う。彼女との会話に安心してしまうのは。

 本音が見えない彼女は何を考えているかわからない。だからこそ、そんな彼女は唯一まともに話せる人物だと思った。

 変わった人だけど……話していると楽になるんだ。


「見えないって、いいな」


 僕の中で、彼女の存在というのが大きくなっていく。

 そんな気がした。




 また来なかったはずの朝が来た。

 自室で寝転がる僕のそれからは何でもない時間が続いた。

 変わったことは食卓に一人増えたことと、母さんが上機嫌だったことくらいだ。

 父さんは相変わらず口を開くことはなかった。

 ただ僕はそれを遠くから眺めるだけで、近くにいるのに一番遠い存在である自分が悲しくてたまらなかった。

 アナログ時計の針がさすのは午前八時。

 眠気はまだ冷めず、目を擦りながら一階へと降りた。


「ああ、おはよう、優」

「あれ、兄さん。もう帰るの?」

「大学生って案外忙しいんだ。周りはサークルとかで遊んでいるけどね」


 靴紐を固く結びながら、兄さんは重そうな荷物を横にしていた。


「奏太、早くしなさい。電車間に合わなくなるわよ。それともお母さんともっと一緒に居てくれるの?」


 自動車の鍵を持った母はそう言って兄さんを急かした。


「わかってるよ母さん。今行く」


 心配そうにしている母さんに答えながら、兄さんは重そうなカバンを持ち上げる。


「じゃあ、行ってくるよ。また帰って来る」

「うん。行ってらっしゃい。待ってるよ」


 ドン、と閉まったドアに僕は手を振る。

 その時の兄さんが「できれば一生帰って来たくない」と顔に文字として出ていた事は言うまでもない

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