第2話 憂鬱な家は家ではない

「ただいま」


 町の外れに僕の家はある。

 家族は四人。苗字は相沢あいざわ。父と母、そして出来のいい兄が一人。

 近所からは仲の良い理想の家族と呼ばれている。

 僕もそう思う。外から見ても内から見ても、すごく良い家族だ。

 そんな愛すべき家に、僕は何食わぬ顔で帰宅した。


「おかえり優。どこいってたの? 随分遅かったわね」

「ちょっと気分転換してたんだ。家にこもって勉強しっぱなしだったら体に悪いでしょ?」


 偽りの笑顔。僕が家族に見せる唯一の表情。


「それもそうね。でもちゃんと勉強しなさいよ? ただでさえ学年の順位が落ちたんだだから」

「うん。分かってる……頑張るよ」

「そう、分かってるならいいのよ。ご飯は?」

「今はいらないよ。勉強するから、冷蔵庫に入れといて、後で温めるから」


 そう言って僕は階段を上がる。この世界にいる誰にも迷惑をかけないように、静かに、平然を装って。

 それでも内心は色んな感情が混じって、詰まった下水管みたいに臭った。

 現実に帰ってきたんだって、そんな感じだった。

 こんなわかりきった会話、僕には必要のないものだ。

 いつもいつも、表面だけはいいんだ。

 どんな言葉だって、その人の本心というのは言わなければ見えてこない。

 今の一連の流れがそうであるように、他人には決して見ることのできない言葉の裏が人にはある。

 例えば今、母さんは「出来の悪い子。どうしてお兄ちゃんのように出来ないのかしら。あの人がお願いしなけりゃ二人目なんて作らなかったのに」と心の中で思っていた。


 それは僕が勝手にそう思っているだけの妄想ではない。

 実際に母さんはそう思っているし、口に出して父さんと話しているところを僕は実際に見ている。

 言葉に出さないだけなんだよ。皆んな。

 その決して言葉に出さない人の本音という部分が、僕には見えるし、感じるし、聞こえるんだ。

 小学二年生の夏休み。僕の目の前でおばあちゃんが死んだあの日から。


 よく覚えている。

 僕は昔からおばあちゃん子で、良く一緒に散歩していたんだ。

 一緒に街に行って買い物もしたし、いろんなオモチャも買ってもらった。

 あの山にも行って、公園にも行って、ブランコを押してもらったりだとか、かくれんぼをしたりだとか、とにかくおばあちゃんと一緒にいるのが楽しかった。

 本当に良くしてくれて、物知りで、自慢のおばあちゃんだった。


 その日は僕が駄々をこねて、遠回りをして帰ってた。

 今日のように太陽の光がジリジリと肌に直接伝わるくらいの暑さだった。

 父と母は仕事、兄は塾へ行ってた。

 田舎だから鍵なんて閉めてなくて、普段は閉めないのが普通だった。

 泥棒なんていないし、いるとすれば精々畑を荒らす猪とか鳥とか、あとはモグラくらいだ。

 その田舎特有の危機管理の無さは、空き巣犯にとってすごく好都合だったのだろう。

 いつもより遅れて帰宅した直後、丁度逃走しようとしていた空き巣犯とばったり遭遇してしまったおばあちゃんは犯人の持ってた包丁に刺されて死んだ。

 玄関を開けた後、犯人と目があって数秒の間の出来事だ。

 胸に数カ所包丁が刺さると、うめき声をあげながら、前方へと倒れ込んだ。

 僕の目の前で、あさっさりと人が死んだのだ。おばあちゃんが死んだのだ。

 泣き叫ぶ僕を置いて、パニックになった犯人はその場から逃走した。

 僕を殺さなかったのはきっと、すぐに近所の人が駆けつけてしまうと思ったんだと思う。

 サラリーマン顔の犯人が随分と焦っていた表情をしているのを鮮明に覚えている。


 その晩、おばあちゃんの死を労わる人が大勢やって来た。

 母さんは悲しい顔で「優しいお母様だったのに」と泣いていた。

 その時だ。全てが見えるようになってしまったのは。

 母さんの顔に文字が浮かんだんだ。

「これで生成するわ」って。


 その頃の僕は良く分かっていなかったが、おばあちゃんは酷い認知症だったらしい。

 よく外出しては近隣住民のお世話になっていたようで、学校から帰った僕を連れて「可愛い息子よ」と近所を巡っていた。


 それを知りおばあちゃんが僕の名前ではなく庄司と父の名前で読んでいたことを思い出し、声が枯れるほど泣いたのを今でもよく覚えている。

 母さんは義理の母親であるおばあちゃんの介護に疲れていたのだろう。

 そんな母親の本音を見たのが僕の変な能力の始まりで、僕が人との会話に興味を示さなくなり、次第に人を避けるようになった原因でもあった。


 自室のドアを開け、何もない部屋に明かりを灯す。

 戻って来るはずのなかった自室を目の前に、とてつもない喪失感に見舞われる。

 別に死ぬのを諦めたわけじゃないが、今日死ぬと決めていた意思が緩いだ事に僕は自分を許す事ができなかった。


「今からでも」


 勉強机に散らかった文房具の中からカッターナイフを手に取り、僕はそれを喉元に押し付けた。

 汗ばんだ手に馴染むプラスチックの感触が直に伝わり、錆びた鉄臭い匂いが鼻に刺さる。

 震える手がカタカタとプラスチックと刃の部分を微かに振動させていた。


「ちくしょう」


 カッターナイフを放り投げながら、僕は布団が乱れたベッドへと倒れこむ。

 死ねない……死ねない死ねない死ねない死ねない。

 死にたくなるような感覚が今も僕を襲い続けているのに、それでも僕は死ねなかった。

 あの時は、彼女が邪魔をしなければ、死ねていたはずだ。

 だけど今は違う。

 喉を掻き切ろうとすればどれだけ痛くても、苦しんでも、死ねるはずだ。

 それなのに今の僕はできない。

 それはきっと彼女の所為で、心のどこかで変に期待してしまっているからだ。

 何も見えなかった。本音の見えなかった彼女となら、何か分かるかもしれないと。


「何だったんだ……ホント」


 そう、僕が彼女に興味を持ったのは、ちょっと不思議だからでもなんでもない。

 彼女が突然目の前に現れた時、僕は驚愕した。

 彼女は見る事ができなかったんだ。彼女の行動、言葉、その裏に隠された本音を。

 本音が見えない彼女に興味があるという言葉は、文字通りであり決して冗談ではなかった。

 そして不思議な何かを感じる彼女となら、この世界に欠けてしまった物を突きとめられるかもしれない、本音の読む事ができない彼女と出会ったとき僕は根拠も何もないのに何故かそう思ってしまったんだ。

 本音の読めない人物というのが僕の人生の中で初めて現れた。それも死のうとした直前にだ。

 これは奇跡なんじゃないかって、戸惑いながらもそう感じた。だから今の僕という人間は、心のどこかでもしかしたらという淡い希望を彼女に抱いている。

 もちろんあの子供達が来たからというのが死ななかった直接的な理由だったが、僕が今死ねないのはそれが理由なのだろう。だったら夏休み僕が死ぬまでの間、少しくらい彼女と考えてみるのも悪くないかもしれない。

 それでも、僕はいつか耐えきれずに死んでしまうだろうけど。


 鬱陶しい夏。僕はベッドの上で深い眠りに落ちた。

 狂ったように体を巡る不快感を必死に抑えながら暑い布団に僕は包まる。

 それはまるで世界から欠けてしまった何かが、早く見つけてくれと言っているかのように、自分の存在を僕に訴えるように叫んでいた。




 蒸し暑い部屋で僕は目覚めた。

 時計を見ればもう昼の一時だ。

 締め切ったカーテンを開け、窓を開けて空気を入れ替える。雨戸に止まっていた蝉は羽ばたいて、うるさい鳴き声だけが残った。

 眩しい光に目が焼かれる。

 だるそうに動く身体を持ち上げ一階に降りるが、そこには誰もいなかった。


「そうか、今日は」


 水曜日。今日は町内会の集まりだった。

 机の上に置いてあった置き手紙にはそう書いてあり、サンドイッチが冷蔵庫にありますと最後に小さく記されていた。


「あれでも、ちゃんとした母親なんだよな」


 本音が見えていないと思っているからこそ、いい母親であり続けるのだろう。それが僕にとって死ぬほど苦しく、また期待に応えられない辛さでもあった。

 置き手紙の通り、冷蔵庫にはサンドイッチが皿の上に綺麗に並べてあった。

 多めのレタスとハム、そしてチーズが入った一般的なサンドイッチ。

 学校でも昼食はずっとサンドイッチだ。コンビニのレシートを見て、母はそれが好物だと思っているらしい。本当はおばあちゃんが作ってくれた俵型のおにぎりが一番の好物だとは知らないだろう。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わった僕はシャワーを浴び、いつも通り自室へと足を運んだ。

 どうせやることは変わらない。

 昨日死ぬはずだったのに、生活サイクルや習慣というのは根強く残り、僕の手にシャーペンを握らせる。

 死ぬつもりなのに、おかしな話だ。だけど逆らえなかった。

 優秀な兄に追いつこうとしても、到底追いつけない。兄以上に努力しなければいけない。

 きっとそんな思いがヘドロのように心の底に溜まっているのだ。

 そして、こんな状況でもその思いというのは働き続けている。

 時計の針は休む間も無く進んでいく。

 母親の声よりも聞いたシャープ芯とノートの紙が擦れる音だけが僕の部屋を包んでいた。


「はあ、だめだ」


 どうしてもやる気が出なかった。

 当たり前だ。死ぬつもりだったんだ。

 本来なら存在しない僕の今日をどう生きるかなんて、今の僕が想像できるはずもない。

 勉強だってどうせ死ぬからとサボり気味だった。どうするかなんて、考えてなかった。

 そんなどうしようもない感覚に押しつぶされながら、網戸に着いて鳴いていた蝉が落ちていくのをただずっと眺めていた。


「行ってみるか……」


 ずっと気になってるんだ。彼女の事と世界から欠けてしまった何かの事を。

 きっと理由はそれだけじゃない。今の僕に都合がいいんだ。現実から逃げる口実としては自分の中で一番納得の行く選択なだけだ。

 僕は自分にそうやって言い聞かせた。

 部屋着から着替え、僕は玄関に鍵を掛けて「行ってきます」と誰もいない家を後にした。

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