夏は透かした方が美しい

近江涼

第1話 自殺くらいは好きにさせてほしい

 今から死ぬ。蝉が鳴き止まない夏の日。太陽の光が斑に散りばめられた山の中で。

 別に死ぬといっても事故や病気、ましてや殺人事件の被害者になったわけではない。

 つまらない、ただの自殺だ。


 自殺といえばいじめのせいだとみんな思うだろう。僕が高校二年の学生なら尚更だ。

 だけど別に、いじめられたってわけじゃない。確かに少し息のしづらい場所ではあった。だけどそれは僕が教室という小さな社会で形成される、固定されたグループに属していなかったからだ。、そこに誰を憎むだとか、恨むだとか、そういう感情は僕の中には一切ない。

 だったら、僕が死ぬ理由とはどこにあるのか。交友関係や将来に対しての不満?

 違う。 特にいじめられたわけでもなく、絶望で立ち上がれない程の出来事や、最愛の人を亡くしたという事でもない僕が、自殺しようと思った理由。

 それは、僕の世界から何かが欠けてしまったからだ。

 そう、僕はただ抜け出したかった。逃げ出したかった。

 何かが欠けて無くなってしまったこの世界から。

 ぽっかりと穴が空いてしまった僕の人生から。


 もし僕が死ぬ理由というのを他人に話したとするならば、そんな曖昧な物で命を捨てようとしているのかと笑われるかもしれない。

 それか頭の悪いセラピストのように「あなたは特別で世界はあなたを必要としている」と言うだろうか。それとも悪質な宗教勧誘者に情緒不安定と目を付けられ追いかけ回されながら宗教の教えを聞かされるのだろうか。

 例えはいくらでも出て来るが、結局どれも虚しいだけで結果は馬鹿にされ笑われる。

 当たり前だ。何かというは当然僕にも分からない。それが人なのか、物なのか、見えるものなのか、見えないものなのか、それすらも僕は分からない。だだ、欠けてしまったという認識だけが僕の中にあり、その認識による言い表す事の出来ない虚無感、ないしは孤独感とも言える感覚、つまり体の中で虫が這い回り心という証明することの出来ない臓器を犯し続ける感覚が僕を絶え間なく襲い続けている。

 そしてもう、僕は耐えることができないところまできてしまったんだと思う。

 人生という名の炎を、優しく消し去る時。それが今日であり今なのだ。 


 こんなことを思い、そして感じるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。

 多分、あの日からだ。全てが見えてしまうようになり、そして欠けた感覚が僕を襲ったあの日。小学二年生の夏、おばあちゃんが亡くなった日。

 あそこから全てが始まって、同時に僕の全てが終わり、この世界から何かが欠けてしまったんだ。

 僕は辺りを見渡した中で、一番大きな木の枝に予め用意していたロープを掛ける。


 ロープが絶対に解けないように何重にも結んだ。僕は辺りに人がいないか念入りに確認する。

 田舎町の外れにあるこんな小さな山でも、それなりに人はやって来るもので、小さい子供なんかが頂上の広場で遊んだりする。実際、僕も小さい時はこの山でも友達と遊んだ記憶があった。だけど悲しいことにここは昔からの自殺スポットで、あまり人目につかない山の裏側は、ロープをかけた跡が残る木がずらりと並んでいた。


「こんなもんか」


 めちゃくちゃな結び目になったそれを見て、ため息をつく。

 けど、まあ。綺麗か汚いかなんて、どうでもいい。結局、僕は死ねれば何でもいいんだ。

 都合良くあった切り株を台にして、僕はゆっくりとロープの輪っかに首を通した。

 聴こえるのはうるさいと感じていた蝉の声。

 見えるのは空を覆い隠す意地悪な枝達。

 暑いという表現以外できない空気。

 何故かその全てが新鮮だった。

 もう何回も夏という季節を過ごしてきたにも関わらず、今日という日が僕の人生にとっての初めての夏と思えてしまうほど、僕の感覚というものは指の先細胞の一つ一つまで生き生きとしていた。

「こんな僕でもまだ、感じられるんだな」

 ロープに首を掛けた。もういつだって飛べる。

 この世界から、何かが失くなってしまったここから逃げ出せる。

 この背の高い切り株から足を落としてしまえば、今すぐにでも僕は死ねる。

 僕を蝕むどうしようもない世界から。


「本当に死ぬの?」


 足を降ろそうとした時だった。

 僕の不意をついた言葉。

 背後から唐突に聞こえる女性の声。それはうるさい夏の音を掻き分けるように僕に届いた。

 反射的にロープから首を離し、僕は慌てて振り返った。


「なに、その驚いた顔。失礼じゃない?」


 目に映ったのは、白いワンピースを着た少女だった。

 黒い髪は長く、そこにいるのにその存在自体が嘘だと思えるほど美しい涼しげな姿。

 そんな彼女に僕は驚き、素直に言えば少し幻想的なそれに見入っていた。

「なに、どうしたの? おーい」

 そんな僕を不思議がった彼女は、手を振って僕の目の前まで歩いてやってきた。

 恐れを知らない歩みは丁度切り株の前で止まる。


「いつから、いたんだ」


 僕は困惑し、そして戸惑った。

 周りはしっかり見ていたし、人の影なんてなかったはずだ。

 念入りに確認した。その事実に間違いはなかった。


「確か、こんな僕でもまだ感じられるんだなって辺りからかな?」


 彼女の言葉に僕は赤面する。


「あ、ごめん。盗み聞きする気はなかったの。偶然通りかかったら君の声が聞こえてきただけで」


 慰められるくらいなら、素直にバカにされた方が良いと思えるほどに恥ずかしかった。

 忘れてくれ、本当に。


「それで、本当に死ぬの?」


 改めて訪ねた少女は興味津々で、ゆらゆらと揺れるロープを見つめていた。


「関係ないだろ。僕が死のうと」


 歩み寄る彼女を突き放すように、僕は彼女の姿から目を逸らした。

 僕が得体の知れない彼女に持つ警戒心というのは非常に強かった。

 他人を信じることができなくなった今の僕だと尚更。


「けど、この結び方だとすぐにほどけてしまうと思うんだけど……ほら」


 そう言うと彼女は木の枝に硬く結ばれていたロープを簡単に解いてしまう。そんな簡単にほどけるはずがないと彼女に詰め寄るが、地面に落ちたロープを見たら、その出来事を信じざるを得なかった。


「それに荒っぽい縄だから、タオルか何かを巻いた方が良いんじゃないかな。チクチクって首に当たるの、嫌じゃない?」


 彼女は落ちたロープを拾い上げながら、間抜け面で立ち尽くす僕に差し出した。

 死ぬんだからそんなことどうでもいいだろ、なんて言葉出てこなかった。


「なにが目的なんだよ」

「目の前にいる人が死のうとしてたら、だれでも止めると思うんだけど」


 彼女は顔に「当たり前でしょ」と文字が書いてあるかのような表情でそう言った。


「その本人はまったく望んでないんだけど」

「けど、一番の理由は興味があるからかな」


 清々しいほどに僕の言葉を無視した彼女は、ロープの擦れた跡が残る木々たちを見渡した。

 そんな彼女を僕は呆れた顔で見つめる。


「興味? 自殺しようとしている人に興味があるのか?」


 随分と変わった趣味だな、と僕は馬鹿にしたような口調で言った。


「え? あ、違う違うそうじゃないよ」


 彼女は慌てた様子で訂正した。


「興味があるのは君だよ。私は君に興味があるの」

「僕に? 興味を?」


 更に意味がわからない言葉の羅列に僕ははてなマークを浮かばせる。


「そう、君が今何を考えているのか、そして何を思って今この時を捨てようとしているのか。私は知りたいの」


 なぜ、どうして、疑り深い僕の頭の中でそんな思いが巡る中、裏側が見えない彼女の言葉は僕の心を真っ直ぐ貫いた。なにを考えているか分からない、言葉の裏が見えない、だからこそ僕はそんな彼女に惹かれるものがあった。


「そういう意味では、僕も君と変わらない。本音が見えない君の言葉に興味があるよ」


 冗談交じりの言葉だったが、彼女は意外な反応を示した。


「なら、同じだね」


 一歩引いた彼女はそう言って笑ってみせた。

「だったらさ、死ねないよね。私のこと知りたいんでしょ?」


 あざといくらいに僕の顔を覗き込む。


「それとこれとじゃ……話は違うだろ。せっかく死ぬって決めたんだ。邪魔しないでくれよ」


 僕はロープを結び直し、首を吊る輪っかを作る。

 決意というのは固いものだ。それが生死を分けるものだったとしたら尚更。


 彼女が綺麗だから、彼女が少し不思議で興味があるから、そんな理由で死を簡単に諦められるほど、僕は安く作られてはいない。


 何より、僕の自殺する原因というのは欠けてしまったこの世界だ。それが元に戻らない限り、きっと僕はこの奇妙な感覚と耐えきれない不快感に犯され続けるだろう。

 そしてそれは誰にも理解してもらえない感覚なんだ。

 医学では証明できない。心の病でもない。誰かに話したとしても共感される事はない。

 寄って来るのはオカルトの類を信じる怪しい人たちだけだ。

 そんなのどう考えたって、死んだほうがマシじゃないか。


「そんなに、この世界が嫌い?」

「もう、疲れたんだよ。見るのも、聞くのも、喋るのも、感じるのも」

「どういう意味?」

「それが物なのか人なのか、この世界から何かが欠けたんだ。その欠けた感覚がずっと僕の中にあるんだ。もう耐えきれないんだよ。こんな人生」


 そんな僕の現状を訴えるセリフを吐き出したあとで、僕はとてつもない後悔の波に襲われる。

 まだ十七年しか生きてこなかった人間が、賢ぶって何を語っても、小難しい言葉を並べても、それは安っぽい低質な物に過ぎない。

 この世から欠けてしまったとか、言い表すことのできない感覚とか、そんなこと言って、誰も相手にはしないだろう。それは彼女も例外ではないはずだ。きっと彼女の目には、妙な思考を持った頭の痛々しい思春期の高校生が映っているに違いない。僕を、嘲笑っているに違いない。

 現に彼女の悩むような表情がそれを証明していた。


「その何かっていうのは、君には分からないんだよね?」


 その彼女の言葉に僕は耳を疑った。

 馬鹿にしているのか。

 それとも本気で信じているのか。

 どっちにしろ僕の言葉に興味を持っている彼女は、やはり変態だ。

 この世界から何かが欠けている、なんて馬鹿げた話だれがまともに聞くんだ。


 妙に悟った人間を見れば中二病の類だと思い、だれでも近づきたくないものだろう。

 それが自殺志願者なら尚更で、自分という思考を持ち始める思春期の男子なら確定と言える。

 実際に僕が僕という人生を歩んでいなかったとしたら、今の僕を軽蔑していることは間違いない。

 なのに、それなのに、彼女はどうして僕の言葉を信じてそんな真剣な顔で話すことが出来るんだ。


「何年も考えてきた。結局、分からないんだよ」

 僕の中に踏み込んで来る彼女に対して言い放ったのは、そんな突き放すような言葉。

「じゃあさ、それが分かってからでも死ぬのは遅くないよね?」


 思いついた、と言わんばかりの嬉しそうな笑顔。


「ちょっと、ちゃんと人の話聞いてた?」

「二人だったら分かるかもしれないでしょ? 一人で考えるより断然いいじゃない!」


 彼女は「名案でしょ」と言いながら僕に詰め寄った。


「いや、その前に僕はもう——」


 死ぬんだ。そう言おうとした時だった。

 子供たちが楽しく話し合う声が聞こえてきた。

 わいわいと、まるで昔の僕みたいに、無邪気な声だった。

 それはだんだんと僕たちに近づいている。

 おにごっこか、かくれんぼか、とにかくここに来るのは間違いなかった。


「今、死ぬの? 子供たちにトラウマを植え付ける気?」


 答えが分かりきっているような、いやらしい表情。

 僕の人生はどうなったっていいが、他人に迷惑なんてかけれない。

 それに相手は子供だ。死人を目の前にして、僕のようになってしまったらそれは僕がどれだけ償っても償えきれない物になってしまう。

 それはダメだ。絶対に。


「あれ、本当に諦めちゃうんだ?」


 つまらなさそうな表情に僕は目を背ける。


「死ぬのを諦めたんじゃない。今日死ぬのを諦めたんだ」


 適当に結ばれたロープをグルグルと巻きながら、僕は彼女と目が合わないように顔をそらして言い返した。


「そんなに死にたいんだ」

「だから、初めからそう言ってる」

「なら待ってるね。明日もここで」


 彼女は笑顔でロープを巻きながら立ち去ろうとする僕を見つめていた。


「そうかよ」


 好きにしろよ。


「どうせ、また明日も来るんでしょ?」

「関係……ないだろ。それにもしここにきたとしてもそれは、死にに来るんだ。別に、話に来るわけじゃない」


 それを聞いた彼女は少し安心したような、なんとも言い難い不思議な表情をした。


「それでもいいよ」


 騒ぎ立てる森の音と、小さな子供達の声を後に、僕は失踪する時間の中へ逃げるように立ち去った。

 ロープは途中で捨てた。帰り道に周りの目が僕に集まるのが嫌だったのと、結び目が千切れて使えなくなったからだ。

 本当に彼女はなんなのだろうか。

 何のために僕に話しかけたんだ。

 本当に興味があったのか?

 どうして僕なんかの話を真剣に聞いたんだ。

 ただ単に自殺を止めたかったから?

 分からない。考えても、考えても、分からなかった。見えなかった。聞こえなかった。

 僕はそんな彼女に恐怖すら覚える。

 それは考えれば考えるほど謎は深まるばかりで、田んぼの周りを飛ぶ小さな虫を避けることすら忘れてしまうほど、その事しか頭になかった。

 それほど印象に残ったということだ。

 彼女の顔。何も見ることのできなかった彼女の顔が。

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