第29話 鏡の中のルビー

 そのころ、ルビーはまだあの宿に残っていた。宿の主人には大金を払って部屋を自由に使わせてもらっている。この体ではシーツを替えるために起き上がるのも一苦労だ。しわだらけのシーツはルビーの血で所々赤く染まっていた。


 寝てばかりもいられない。ルビーは父の仇を、シストを探さなければならないのだ。全身が痛む体に鞭をうち、ベッドから起き上がった。


 汗を拭くためにゆっくりと足を進める。そんなルビーの目の前に、部屋に常備されていた等身大の鏡があった。白くやつれた顔、シストとあったころよりも一回りも小さくなったような体がそこに映っている。



「ひどい顔ね……」



 誰に言うでもなく、ルビーはつぶやいた。薄暗い部屋の中、鏡の中の自分が不気味に映る。じっと見つめていると、鏡の中のもう一人の自分が、まるで話しかけてきているようだった。



『本当に、これでよかったの?』



 確かに聞こえた。鏡の中のルビーが、鏡の外のルビーに話しかけたのだ。ルビーはそのことを不思議とも思わずに、その問いに答える。



「よかったのって、何がよ」


『自分でもわかっているんでしょう? お父さんは、殺されたんじゃない。シストが殺したんじゃないって』



 確かにそうかもしれない。しかし、その言葉を素直に受け入れる心の余裕はもうルビーには残っていなかった。



「あいつも言っていたじゃない! 一度だけ、それだけのミス、何て言葉は、遺族には通用しないのよ! お父さんは、シストに殺された!」



 ルビーは叫んだ。しかし、鏡の中のルビーは冷静だ。まるで同じ姿をした別人を見ているようだった。その冷静さが、ルビーは腹立たしく思う。



『無理にそう思っているだけじゃないの? 今まで生きてきた意味が失われるから、それが怖いから、仇討ちに固執している。本当は、シストのことなんて恨んでいないのに』


「違う違う違う! 私は、シストが憎い! グラナーテの町で私を助けたのも、ツベキュローシスの治療をしていたのも、一緒に旅を続けていたのも、全部私を貶めるためにやったのよ! あいつは、私をからかっていたのよ!」


『本当に、そう思うの?』



 鏡の中のルビーの視線が、鏡の外のルビーの心を射抜く。その目が、ルビーには怖かった。



「あ、当たり前じゃない」


『シストが見せた笑顔も、あの手の暖かさも、全部嘘だったと思うの? あなたは、シストを信じていないの?』


「嘘よ! 全部嘘! あいつは、嘘つきなのよ!」


「本当の嘘つきは、あなたじゃないの?」



 ルビーはドキリとした。なぜ鏡の中のルビーはそのようなことを言うのか。本当は知っていた。しかし、認めたくなかった。



「……違う」


『自分に嘘をついて、苦しくて、助けを求めたくて』


「違う」


『あなたはわかっているはずよ。世の中にどれだけ嘘つきがいようとも、本当の嘘つきは、自分に対して嘘をつく人だって』


「違う!」


『それが、今のあなたなのよ』


「違ぁぁぁう!」



 ルビーはテーブルの上に置いてあった剣をつかみ、そのまま抜き放って鏡を刺した。鏡は粉々に割れ、床に散らばる。それでも、割れた鏡の中からもう一人の自分はルビーに話しかけてきた。



『素直になれば、楽になれるじゃない。シストに助けを求めれば、救われるのよ』


「違う……」



 ルビーは大粒の涙を流す。もはや自分ではどうしていいのかわからない。自分ともう一人の自分が、一つの心の中でせめぎあっていた。


 胸が苦しい。



「うっ。ごほっ、ごほっ」



 急に咳き込み、大量の血を吐いた。割れた鏡は血で隠れ、もう一人の自分の声は聞こえなくなった。しかし、もう一人の自分に言われたことは今でも心に残っている。



「私は、間違ってなんか、ない」



 ルビーは剣を杖にして何とか立っていられる状態だった。このような状態でも、意識は仇討ち、シストを探すことだけに向いていた。


 それから、ルビーはシストを探すためにグルダンの町を歩き回った。


 口では仇を討つためと言っていたが、本心からの言葉なのか、本人ですらわからない。もしかしたら、もう一人の自分が言っていたようにシストに助けを求めたいだけなのか。



「違う……」



 時折ツベキュローシスの発作が起こったが、治療してくれるはずのシストはそばにいない。ルビーは発作が収まるまで我慢し、落ち着いてから再び歩き出すということを繰り返した。


 そんな日々が何日か続いたある日、ルビーがいつもの宿で目を覚ます。今日も生きていた。そんな感想が目を覚ますたびに出てくようになっていた。


 ふと見ると、扉の隙間に何かが挟まっていた。手紙だ。白い便せんにきれいな文字が並べられている。ひどく懐かしい気持ちになる文字だった。



「シスト……」



 ルビーは喜んでいいのか、恨んでいいのかわからない。そんな複雑な感情のまま、便せんの封を開ける。そこには短く、「会いたい」と書かれていた。場所はグルダンの町の外れ。岩肌が見えるほど荒れ果てた場所だった。きっとそこなら人もいない。そういう配慮だろう。


 時刻は今日の正午だった。今は朝の八時である。ルビーの今の足でも、遅刻することはない。シストがそこまで考えてくれていたのかどうかはわからないが。


 ルビーに拒否する理由はなかった。もともとシストを探していたのはルビーのほうだったのだ。向こうから会いに来てくれるというのなら、これ以上ありがたいことはない。


 ルビーはシャワーを浴び、服を新しいものに替えた。腰に二本の剣を差す。準備は万端。ルビーは身支度をして、宿を出た。


 宿を出たところで、空を見上げる。今日は鼠色の嫌な天気だ。今にも泣き出しそうな曇り空である。



「今の私には、こんな天気がお似合いなのかもね」



 ルビーは自嘲気味に笑って歩き出した。ゆっくりと、確実に。シストのいる、グルダンの町外れへ。

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